洛中の町並み その6 車屋町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問
南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。
車屋町通は烏丸通の1本東側を南北に走る全長約800メートルの通りである。長い伝統を受け継ぐ老舗の風格のある看板や暖簾を多く目にする。その中に新しい施設も生まれつつあり、新旧が共存できる町並みが魅力となりつつある。
車屋町通は天正18年(1590)に豊臣秀吉の京都改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した。当初は、北は出水通から南は姉小路通まで貫通していたが、宝永5年(1708)の京都の大火の後、京都御所の拡大が行われ、現在の丸太町通から姉小路通間の比較的短い通りとなった。通りの名称は輸送業者や車鍛冶の人々が集まっていたことに由来している。
丸太町通から車屋町通に入り竹屋町通を過ぎると、右に京都新聞社本社の高層ビル、左に山茶花社山茶花美術館が現れる。現在は山茶花社として、書道・華道・茶道・歌道の教授、山茶花美術館として展示に使われているようだが、建物は国の有形文化財に登録されている西島家住宅である。車屋町通に面した中規模な商家で、明治13年(1880)に建てられた母屋と江戸末期の土蔵が登録対象となっている。母屋の1階は格子窓と柵状の犬矢来によって、2階は虫籠窓によって外部と接している。間口はそれ程広くはないが、犬矢来、格子窓そして虫籠窓の縦の線の連続は美しく見える。それに対して奥行き方向は、航空写真で見る限り、間口の2倍以上もあり、建物の東側には庭と土蔵があるようだ。この建物は通りの反対側に建つ京都新聞社の建物によって、日の当たりづらい状態になっている。写真が撮りづらいだけでなく、建物の価値も明らかに喪失させている。
山茶花社の隣は手描き友禅の伊可田屋が並ぶ。伊可田屋と書かれた四角い門柱が通りに面して置かれ、その先に母屋が見える。
田畑家は文政8年(1825)の創業以来、5代に亘り引き継がれる手描き友禅の名家。
3代目田畑喜八は古代衣裳や古代裂の蒐集と研究を行い、仕上げ染の筆致と糸目友禅を見事に生かした独特の友禅染の世界を創り上げ、平成7年(1995)友禅で第一回重要無形文化財すなわち人間国宝に指定される。
昭和15年(1939)喜八の末弟・田畑伊三郎が分家として伊可田屋を創始する。伊可田屋は人間国宝の田畑喜八の下絵を着物として完成させることにより、大正・昭和に隆盛を極めた。現在、3代目として田畑浩平が当主を務める。 伊可田家はお誂えを中心として一点一点制作しており、染めの世界では「田畑染」と呼ばれるほどの繊細な染めと絵描きのタッチで仕上げられている。
二条通を過ぎると右手に「無二膏」という立派な暖簾のかかる雨森敬太郎薬房と左に500年以上続く蕎麦処・本家尾張屋が並ぶ。
この二条通には薬の小売店や漢方薬の問屋が軒を並べるようになったのは、秀吉の京都改造以降のことであったようだ。古くから伝わる童歌にも
「一条戻り橋、二条きぐすり屋、三条みすや針、四条芝居」
と歌われている。この頃になると戦乱で荒廃していた町にも町家などが建ち並び始め、大阪からの商品も高瀬川の水運を利用して容易に運べるようになった。そして江戸時代に入って薬業者の町としての基礎が出来上がり、発展してきた。
雨森敬太郎薬房の無二膏は腫れ物に効く膏薬である。もともと宋代の薬書に記されている膏薬の処方を中国の儒医・稲若水から伝授され、御所の御典医を努めていた雨森良意が工夫を重ねて作り上げたものである。その効き目は、宮中から庶民の間まで大評判になり、天下に二つとない膏薬・無二膏と呼ばれるようになった。江戸時代初期の慶安元年(1648)製造が追いつかないほどになったため、良意は御典医を辞め、無二膏作りに専念することになった。雨森敬太郎薬房は寛政年間(1789~1800)創業と言われているので、恐らく良意から何代目にあたる敬太郎がその時期に現在の店を開いたのであろう。
無二膏の名の類似品が出回るほど評判を呼んだため、明治時代に入り商標登録法が施行されると、雨森家は無二膏を商標登録しようとした。あまりにも多くの無二膏が既に出回っているため、商品名でなく一般名と判断され認められなかった。やむを得ず、暖簾に見られるように北印と雨森の字を商標として登録し、正本家・雨森敬太郎薬房の雨森無二膏としたことが分かる。雨森敬太郎薬房は現在14代当主まで続いている。抗生物質の普及などで需要は落ちているものの、根強い愛用者がいるため作り続けられている。現在では医薬品としてはこのような成分分析となるようだ。
室町時代末の寛正6年(1465)尾張国から京へ出てきて蕎麦菓子の店を創業した。その後、蕎麦を中心とした店となり、京の町衆たちに親しまれ繁盛するようになった。尾張屋のそばの味が京の町で評判になるにつれ、寺院や宮家からも注文が来るようになった。こうして尾張屋が信用され、江戸時代には御所へ出入りする宮中御用達を努める御用蕎麦司になった。
創業時に始めた伝統の蕎麦菓子も作り続けている。餡を蕎麦で包み焼き上げた蕎麦餅、薄く伸ばした蕎麦を一枚一枚焼いた蕎麦板、蕎麦を軽く焼き上げた蕎麦ぼうろうなど、素朴な蕎麦の風味が漂う。
車屋町通を御池通に出た角に、大きな町家が残っている。御池通に面して出された看板には少々読みにくいが「嶋臺」と記されている。もとは糸商や造り酒屋の嶋臺の町家で、明治16年(1883)に建てられた木造2階建の切妻造・桟瓦葺で1階に出格子、2階の壁面は土壁とし,横長の虫籠窓を設けている。国の登録文化財に指定されている。現在は、はんなり京都嶋臺塾などが開催され、ギャラリーやイベント会場として利用されているようだ。
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