文書と写真・地図による「記憶」の再現

高台寺 その2

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺 その2(こうだいじ) 2008年05月16日訪問

画像
高台寺 傘亭と時雨亭

 高台寺の現在の拝観路は、圓徳院の掌美術館の前にある石段から始まる。この細くて急な石段を上りきると、正面の天満宮の右手側に高台寺の広い駐車場が広がる。左手にある庫裏の脇から境内へ入る。正面左に大雲院の祇園閣が良く見える。高台寺の境内が高い位置にあるのが良く分かる。
 土蔵に続いて湖月庵、鬼瓦席そして遺芳庵の3つの茶席が見える。遺芳庵は、灰屋紹益と吉野太夫との好みの茶席とされている。田舎屋風の茶室で、一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切り。壁一杯に開けられた丸窓は吉野窓と呼ばれている。

画像
高台寺 庭園と方丈
画像
高台寺 庭園と方丈

 鬼瓦席は武者小路千家から移されたという記述をどこかで読んだことがあるが、遺芳庵とともに後の時代にどのような経緯か分からないが、この地に移されたものと思われる。この鬼瓦席と遺芳庵の間を抜けると偃月池と呼ばれる池泉が現れる。

画像
高台寺 臥龍池
画像
高台寺 臥龍池

 順路では書院から建物に上がり方丈へ渡る。現在の方丈は大正元年(1912)に再建されたもの。高台寺は近世末期から近代に至る間、数度に亘る火災を受け仏殿や方丈を失っている。方丈南庭には中央に銅葺き屋根を持つ勅使門、右手に庫裏の前とつなぐ小ぶりな唐門がある。庭は白砂が敷き詰められ、方丈から見て左右方向に砂紋が作られている。方丈前には2つの緩やかな盛砂が造られ、周りには同心円状に砂紋が描かれている。勅使門の両脇には苔地が雲形状に白砂を侵食し、その中に異なる種類の樹木が高さを変えて植えられている。上空からの写真を見ると植栽の植えられた範囲が大きいことが分かる。この部分の厚みが南庭の奥行き感を作り出しているのであろう。

画像
高台寺 臥龍廊 開山堂側
画像
高台寺 臥龍廊 霊屋側

 方丈の周りを時計方向に回ると再び偃月池と庭園が現れる。芝生の柔らかなアンジュレーションの上に庭石が置かれた庭は、非常に明るく解放的なイメージを与えるものとなっている。この庭は小堀遠州作の庭といわれている。高台寺の建立に当たって、家康は酒井忠世と土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に当てている。同時期に庭園も造られたと考えるのが普通であろう。慶長10年(1605)から翌年にかけて作庭されたこととなる。このような大規模な普請に個人として小堀遠州が加わることは考えがたい。遠州は慶長11年(1606)から12年にかけて坂倉重勝総奉行のもとで後陽成院御所の造営に奉行として加わっている。同じ時期に同じ坂倉重勝の仕事として加わっていても不自然ではないだろう。
 この庭は小規模なものではあるが、桃山時代の伸びやかさを備えている。特に偃月池北側の平面的な構成が、南側の小高く盛られた築山につながるあたりに強く感じる。この庭の中央には慶長10年(1605)に建てられた開山堂があり、書院側から屋根付きの歩廊でつながっている。この歩廊の真ん中、偃月池の上には、三方向(東、西、南)に破風のある屋根の建物がある。歩廊と同じ幅員であるため歩廊の一部分に異なった形状の屋根が載せられたようにも見えるが、この部分は観月台と呼ばれている。開山堂と共に重要文化財に指定されている。

 開山堂へは方丈の脇にある門を潜り、霊屋への参道に出ることになる。再び開山堂の中門を潜ると正面に開山堂、その東側にはもうひとつの臥龍池がある。こちらは偃月池のように汀が入り組んでいないため、おおらかな感じを受ける。開山堂はその名前の通り、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっているが、もともとは北政所の持仏堂であった。堂内は中央奥に三江紹益像、右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像が安置されている。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものといわれている。
 開山堂のさらに東側の斜面の上に霊屋が建てられている。開山堂から霊屋へは屋根付きの階段で結ばれている。龍の背に似ているところから、臥龍廊と名付けられている。

画像
高台寺 霊屋

 臥龍廊は通行を禁止しているため、霊屋へは再び開山堂の中門を出なければならない。斜面に沿って登っていくと正面に、慶長10年(1605)に建てられた檜皮葺きの宝形造の霊屋が現れる。建物は方丈や開山堂、そして傘亭と時雨亭と比べるとやや西に傾いた配置となっている。内部は中央の厨子に大随求菩薩像、右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。
 この厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。寺に所蔵されている北政所所用と伝わる調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げた平蒔絵を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことが高台寺蒔絵の特色となっている。

画像
高台寺 左:傘亭 右:時雨亭
画像
高台寺 左:時雨亭 右:傘亭

 伏見城から移築した茶室と言われている傘亭と時雨亭は霊屋のさらに東の斜面の上に建てられている。
 傘亭は宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部には天井を設けず、宝形の茅葺きをそのままに現わす化粧屋根裏となっている。詳しくこの茶室を見ると、建物を東西に二分する位置に梁が掛けられている。この梁から丸太の自然木を宝形屋根の中心に束として立てている。この束の先に小さな正方形の板が乗せられ、中心に向けて屋根の四面から延びる竹の垂木を押さえる役割を果たしている。また垂木も太い竹と細い小舞竹を交互に組み合わせることで、垂木の重苦しさを解消している。円錐状に垂木が掛けられている訳ではないが、中央に集中する垂木とその中心に向けて立てられた束によって、傘亭という名前が付けられている。束には安閑窟という額が掛けられている。千利休の作とも言われているが、先に参照した宮元建次氏の「京都名庭を歩く」の中では、利休の自刃が伏見城造営より以前の天正19年(1591)のことであったことから、もし千利休の遺構であるならば聚楽第に建てられた茶室が伏見城に移され、そして高台寺に運ばれたのでなければ説明がつかないとしている。その上で、この建物はもっと開放的な東屋として設計されていたものを、いずれかの時期に草庵風の茶室に改造が行われたため、たとえ利休の手によるものであってもその原型はかなり失われていると考えている。
 また西和夫氏も「京都で「建築」に出会う」の中(P17~P20)で傘亭のことを書いている。古くは傘亭と時雨亭の二棟を合わせて安閑窟と呼んでいたこと、二棟とも秀吉の伏見城から移されたとしているが裏付ける資料もなく肯定も否定も出来ないこと、傘亭は伏見城の山里丸にあった学問所にあった建物の可能性があること、そして現在の建物は昭和9年(1934)の台風で倒壊したものを江戸時代の起こし絵図を元に復元したため、旧状を伝えているか疑問であることをあげている。その上で、傘亭の化粧屋根裏の美しさに注目している。

 時雨亭は傘亭の南にあり、珍しい2階建ての茶室となっている。2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとなっている。傘亭同様伏見城からの移築とされ、こちらも千利休の作、秀吉好みと伝えられている。

画像
高台寺 時雨亭

画像
南禅寺 金地院庭園 2008年5月12日撮影

 傘亭と時雨亭は、2つの茶室が1対となって名前が付けられている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には傘亭の記述はあるが、時雨亭については何も書き残されていない。さらに図会では、理由は判らないが安閑窟と傘亭が分けて描かれている。 また天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会でも

     安閑窟〔山上の傘の亭をいふ、利休の好なり〕

という説明はあるが、時雨亭については触れていない。そして寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には傘亭と並ぶ時雨亭の図会が残されている。これはほぼ現在と同じ外観である。 先の「京都名庭を歩く」にも同様のことが挙げられている。最初に安閑窟として現れるのが高台寺建立後80年以上経った資料であった。確かに宮元氏の指摘どおり、千利休あるいは伏見城の遺構であればもっと早い時期から有名になっていても不思議ではない。
 さらに宮元氏は伏見屋敷にあった成就庵と時雨亭の類似性に着目し、時雨亭の作者を小堀遠州ではないかと推測している。その根拠として「甫公伝書」と「松屋会記」に残された成就庵の間取りや外観のスケッチと、傘亭と時雨亭をつなぐ屋根付き土間廊下、そしてその土間廊下に対して45度に入ってくる遠州好みを挙げている。この45度に配置された飛び石は南禅寺金地院の庭にも見られる。ただし南禅寺金地院の飛び石は後の時代に遠州好みとして付け加えられたものと見られている。また2つの茶室を直線状の土間廊下で結ぶ手法は、遠州の小室城時代や伏見奉行時代に類型が見られる一方、他の茶匠に見られない手法でもある。

画像
高台寺 時雨亭 上部屋根裏

 もし小堀遠州がこの茶室、特に時雨亭を手掛けたとしたら、いつ頃であったのだろうか?
 高台寺建立当時の慶長10年(1605)に高台寺の庭園(もちろん小堀遠州作と仮定しての話しだが。。。)と同時期に行っていれば問題はない。しかしその後のものとするならば、寛永元年(1624)の北政所病没以降、あるいは徳川幕府の立場で考えるならば慶長20年(1615)の大阪城落城後は難しい。それは遠州が個人として豊臣家に関係する寺院の作事を行うことになるからである。師である古田織部のような非業の死を避けるため、遠州は公儀の作事以外は極力行わなかったとされていることを考えると可能性は薄い。また小堀遠州が高台寺に新たな茶室を建てたとしたら、当然そのことは早くから資料に残されていたことだろう。そのことから考えてもかなり時代が経ってから、茶室が高台寺に作られた、あるいは移されたと考えるほうが自然である。
また傘亭と時雨亭が同時期に高台寺に作られたと考えることも正しいのだろうか?
 既に資料にも現れているように、最初に傘亭が高台寺に作られ、その後に時雨亭と土間廊下が遠州好みで作られたということも考えられる。

 そのようなことを思い、美しい竹林を眺めながら高台寺の苑路を下ってきた。

画像
高台寺 竹林

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿