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大徳寺 興臨院 その2



大徳寺 興臨院 (だいとくじ こうりんいん) その2 2008年11月22日訪問

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大徳寺 興臨院 南庭

 黄梅院を出て、次の訪問予定の塔頭興臨院を目指して、龍源院の前を過ぎ勅使門と三門の金毛閣に向かう。勅使門の西側に位置する興臨院には、既に2008年5月に訪問しているので、このブログを書き始めてから二度目となる。通常非公開の塔頭であるが春と秋に特別公開が行われる。前回は春で今回は秋の拝観となるので、季節の違いが感じられるのではないだろうか。

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大徳寺 黄梅院 新しい庫裏
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大徳寺 興臨院 方丈玄関の唐門

 興臨院は天文年間(1521~1533)に、能登の守護・畠山義総が大徳寺86世小渓紹ふ(付の下に心 仏智大通禅師)を開山として建立している。寺号は義総の法名・興臨院殿伝翁徳胤大居士から名付けられている。
 畠山義総は能登畠山氏の第7代当主で、能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られる。また優れた文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護している。商人や手工業者にも手厚い保護を与えたことにより、義総治世の七尾城下町は小京都とまで呼ばれるほどに発展したとされている。そして義総の死後は重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退していく。
 開山の小渓紹ふは、龍源院の開山である大徳寺72世東溪宗牧の法嗣・79世悦溪宗忢の弟子に当たるため、大徳寺北派の龍源院の流れを汲む。小渓和尚は文明6年(1474)美濃国に生まれ、大永5年(1525)51歳で大徳寺86世になっている。そして享禄5年(1532)後奈良院より仏智大通禅師を賜る。天文5年(1536)62歳で亡くなるが、その教えを受け継ぐものとしては、龍源門下で瑞峯派の開祖となる91世徹岫宗九、93世清菴宗胃、そして龍源門下で玉雲派を開祖する94世天啓宗〓(垔欠)などの名が並ぶ。

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大徳寺 興臨院 南庭 玄関側から
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大徳寺 興臨院 南庭

 興臨院は畠山義総と小渓紹ふが存命であった天文年間(1521~1533)の初期に創建されたと考えられている。以後、能登畠山家の菩提寺となる。創建直後に本堂を焼失するが、天文年間のうちに再建されている。
 拝観の栞によると天正9年(1581)加賀藩主前田利家によって屋根が修復され、以後、前田家の菩提寺となる。前田利家が能登23万石を領有する大名として七尾城主となったのも同じ天正9年(1581)のことであった。

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大徳寺 興臨院 南庭
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大徳寺 興臨院 南庭 玄関方向を眺める
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大徳寺 興臨院 南庭 橋の架かる高さに驚かせる

 天文年間(1521~1533)の創建当時の遺構とされている表門は、檜皮葺一間一戸の平唐門である。
 通常唐門として思い浮かべる豪華な唐破風が正面に据えられた向唐門とは異なり、柔らかな曲線を持つ浅い勾配は、簡素な印象の中に優美さを兼ね備えている。この表門は、続く方丈玄関そして方丈と共に重要文化財に指定されている。方丈玄関へつながる直線状の敷石は、途中で一回屈折し、檜皮葺の唐門の玄関まで訪問者を導く。残念ながらこの玄関から方丈に上がることは出来ない。方丈、玄関そして表門の解体修理は、昭和50年(1975)から3年間に渡って行われた。その際に現在の庫裏が新築されている。この庫裏を経由して方丈南庭に進む。

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大徳寺 興臨院 2つの庭を分ける延段 奥の建物は茶室か
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大徳寺 興臨院 南庭
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大徳寺 興臨院 扁額

 方丈南庭は蓬莱山形式の枯山水式庭園。禅宗庭園の様式を継承した矩形の白砂に、南西から中央部にかけて築山が作られている。どことなく新しさを感じる庭であるが、上記の方丈を修繕した昭和50年(1975)に中根金作により、唐時代の国清寺に暮らしていたと言われる伝説的な僧・寒山と捨得の蓬莱世界を復元している。天台山は中国浙江省中部の天台県にあり、最高峰の華頂峰を中心に洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する中国三大霊山の一つである。ここに中国天台宗の開祖智顗が開創した国清寺がある。
 庭の南西隅の石組を天台山と見立て、その手前に置かれた2つの立石と横に渡された平石で玉澗式の橋を表現している。

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大徳寺 興臨院 自然が濃い西庭
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大徳寺 興臨院
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大徳寺 興臨院

 方丈南庭は西庭につながるが、庭の雰囲気は異なっている。そのためか斜めに延段が、2つの庭を分離するために入れられている。生垣に覆われた堂宇とその先の墓地につながる路地のように見える。
 西庭は南庭とは対照的に緑の比率が高くなる。奥行きの浅い西庭は、歩きながら鑑賞するように絵画的な構成となっている。白砂に替わり苔が植えられ、所々に配された井戸や石燈籠、そして石組が次々と現れ、色彩とともに目を楽しませながら、見るものを北庭へ導いていく。

 方丈北側に廻ると庭は一層自然さを増してくる。方丈の北東にある茶席・涵虚亭は、中国北宋代の政治家であり詩人の蘇東坡の詩から名づけられ、古田織部好みの四帖台目となっている。

 前述のように創建当時の方丈は焼失したが、天文初年(1530~1540)に再建されている。檜皮葺一重入母屋造で、南面には西より檀那の間(東の間)、室中、礼の間(西の間)が並ぶ。そして北面には西より衣鉢の間、仏間と眠蔵、書院の間の6室で構成される古い方丈建築の様式を残している。

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大徳寺 興臨院
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大徳寺 興臨院 涵虚亭

 寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、興臨院について次のような記述が残されている。
     「(南日暮御門ノ内)興臨院〔仏智大道禅師小渓紹応和尚塔所、天文年中能州畠山左衛門佐義綱建立、法号興臨院伝翁徳胤、天文十四年七月十二日卒〕
     〔加州大守大納言前田筑前守菅原利家卿重修す、法号高徳院贈一位、慶長四年閏三月三日卒、六十二歳〕」

     客殿中ノ間  墨画山水    古法眼筆
     礼ノ間    彩色花鳥麝香猫 同  筆
     檀那ノ間   彩色      土佐光信筆

     興臨院ノ額為二日本国天啓和尚ノ一大明梅屋方伯行書ス 此十六字あり。

 現在も興臨院の額は方丈に掲げられているが、中の間を飾っていた古法眼すなわち狩野元信筆の水墨画、礼の間の彩色された花鳥と麝香猫、そして檀那の間の土佐光信の彩色された韃靼人の風俗画は幕末の混乱期に失われたようだ。拝観の栞には模写を禁じた壁書が現存しているとあるので、どのような絵だったのか分かるよう資料も興臨院には残されていないのだろう。

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大徳寺 興臨院

「大徳寺 興臨院 その2」 の地図





大徳寺 興臨院 その2 のMarker List

No.名称緯度経度
01  大徳寺 興臨院 方丈 35.0424135.7453
02  大徳寺 興臨院 南庭 35.0423135.7452
03  大徳寺 興臨院 西庭 35.0424135.7451
04  大徳寺 興臨院 北庭 35.0425135.7452
05   大徳寺 興臨院 涵虚亭 35.0425135.7454
06   大徳寺 龍源院 方丈 35.0421135.746
07  大徳寺 勅使門 35.0424135.7461
08  大徳寺 三門 35.0426135.7461
09  大徳寺 仏殿 35.0431135.7461
10  大徳寺 法堂 35.0435135.746
11  大徳寺 本坊方丈 35.044135.7464

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