泉涌寺 本坊
泉涌寺 本坊(せんにゅうじ ほんぼう) 2008年12月22日訪問
月輪陵の白砂を敷き詰めた前庭には御座所庭園とつなぐ木戸がある。その位置を確認した上で、再び勅使門の前を戻り、泉涌寺本坊に入る。
泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所そして海会堂の3つの建物とそれらをつなぐ御座所庭園によって構成されている。
霊明殿は、四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影と御尊牌、それ以前の天皇・后妃・親王方の御尊牌を奉安し、回向を行うための施設である。尊牌とは位牌のことであり、歴代の天皇や后妃そして親王までの御位牌を護る建物であることが分かる。これが泉涌寺を御寺と呼ぶ由縁でもある。現在の霊明殿は御座所とともに、明治15年(1882)10月に炎上した後、明治17年(1884)に再建されている。
入母屋造桧皮葺の宸殿様式。全て尾州桧材で造られ、殿内西廂は板間。殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内陣は五室の宮殿造りと泉涌寺の公式HPでは説明されている。霊明殿は四周を塀で囲まれた独立した建物の上、非公開のため拝観順路からはどのような建物か分かりづらい。GoogleMapで見ると殿舎は西向きで西側に白砂を敷き詰めた西庭があり、その先に霊明殿の唐門が設えられている。霊明殿へは御座所から渡り廊下でつながれているため、この門を使用しなくても、舎利殿の東側にある御座所御車寄から入り、霊明殿へと渡ることが可能なようだ。ただし、霊明殿から月輪陵遥拝所へ出るためには、一度御座所に戻り庭園内にある木戸を開けて入るか、泉涌寺の境内に出て一般の人と同じように舎利殿の脇を抜けなければならない。泉涌寺の公式HPによると、明治15年(1882)の焼失後の再建によって、山稜に対し東面していた霊明殿を西正面に変更したと記している。これによって月輪陵遥拝所に対して霊明殿は裏側を向き、霊明殿と遥拝所が分断される奇妙な構成になった。後で触れる御座所庭園と遥拝所との間の木戸の必要性も、この変更によって生じたとも考えられる。
霊明殿炎上とともに、庫裡と書院を焼失した後に、京都御所内にあった文化15年(1818)に造営された皇后宮の御里御殿を移築している。御殿は西側に御車寄が設けられ、これに続く一棟は六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼ばれている。南東隅に造られた玉座の間は一段高くなっており、特徴ある違い棚が備えられ、障壁の瑞鳥花弁図は狩野永岳筆である。そして御座所庭園が最も美しく見える場所に位置している。この玉座の間の北側に当たる皇族の間は、かつて皇后御産の間であったところで、すべての部屋の襖はいろいろな主題の絵が描かれ、付属建物の襖絵と合せて、宮廷生活の一端が偲ばれる。なお御座所は両陛下はじめ皇族方の御陵御参詣の際の御休所として現在も使われている。
御座所の東側に続く海会堂もまた京都御所内の御黒戸を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られている。床を高くとり、白壁塗りの土蔵壁に宝形造本瓦葺の屋根を載せた建物である。本尊は阿弥陀如来坐像であるが、開山俊律師像をはじめとして諸尊像や位牌も併祀されている。また内陣に安置されている御厨子には、各時代の代表的な仏師が彫像した数多くの仏像が祀られている。
拝観順路は、御座所の北側に造られた玄関から殿舎に上がる。南に隣接する御座所の車寄を通り抜け、建物の南側に出ると、御座所庭園が始まる。この庭は霊明殿、御座所、海会堂そして御陵拝所に囲まれたそれほど広くない面積に造られたL字型の形状をした庭園である。池泉は玉座の間の南側に築かれていることからも、この玉座を中心とした庭であることが分かる。
元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会には、現在もこの庭の池の傍らに据えられている八角形の雪見石燈籠の姿が描かれている。しかし先にも触れたように明治15年(1882)の殿舎炎上以前は大方丈の前栽にあったと記されている。現在の御座所庭園はこの焼失以降に移築された御座所と同じ時期に作庭されたと考えてもよいのではないだろうか? この庭園の特徴は池泉や雪見石燈籠ではなく、月輪陵へと続く木戸へと続く路地であろう。御座所御殿から庭へ降りる階段が設えられているが、この御殿の南面の中心にではなく、木戸の位置に合わせている。また木戸には石段が築かれている。これは御座所の建物と比較して、御陵の前庭が8段およそ1メートル程度高い場所にあることが分かる。実際の御陵はさらに2メートル以上高い場所にあるから、この庭園の東側は石垣の上に築地塀が造られている。その手前に池泉と築山が築かれている。
前回の訪問が新緑の濃い季節であったのに対して、今回は木々も葉を落とし寒々とした冬である。かなり異なった印象を受けたのと同時に、前回の印象がこの庭に植えられている樹木によって作り出されていたことが良く分かる。特に、東西に走る塀の白壁とその奥に植えられた針葉樹の背の高い並木の緑、そして更に高い位置に作られた南北に走る塀と石垣の存在感が強くなっている。このように庭を間仕切るために置かれた装置が目立つことは、庭自体の奥行き感が薄れている証拠であろう。逆に、この冬場のほうが庭の構成が良く見えてくることも真実である。
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