東福寺 最勝金剛院
東福寺 最勝金剛院(さいしょうこんごういん) 2009年1月11日訪問
前回の訪問の時、一番奥にある最勝金剛院の山門前で時間切れとなり、引き返らざるを得なかった。 もともと月下門と勅使門は使用されていないため、残りの日下門と六波羅門を閉じると、臥雲橋の架かる道から東側の東福寺の境内は隔離される。拝観時間終了前に寺院関係者がスクーターに乗車し、境内に人が残っていないか確認していた。広い境内だから当たり前のことかもしれないが、初めて見る光景だったので驚いた。速やかに日下門から外に出るように促されたため、最勝金剛院の山門より中に入ることができなかった。
東福寺の本堂の東側より、幅の広い上り勾配の参道が始まる。参道の入口には大きな石灯籠が二基建てられている。その先にある宗務本院の南側を進むと山門が現れる。今回は閉門時間に気兼ねせず、山門から中に入って行く。
東福寺の塔頭 同聚院の項でも触れたように、この東福寺が建つ地は、延長3年(924)藤原忠平が法性寺を建立した地でもある。承平4年(934)には定額寺となり、白河法皇や近衛天皇も行幸したとされている。創建当初は法相宗であったが後に天台宗の寺院となった法性寺は藤原家の氏寺として栄えていく。 藤原忠平から3代下った藤原道長が五大堂を建立したのは寛弘3年(1006)である。この五大堂には2メートルを超える五大明王が祀られていた。中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王が配されていた。しかし、その後火事等により中尊不動明王を除く四体は失われ、不動明王像のみが法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて東福寺・同聚院の本尊として受け継がれ今日に伝えられている。
そして道長から5代下った藤原忠通(法性寺入道)の時代、つまり平安時代の最末期にあたる頃に、法性寺は広大な寺域に大伽藍を構える大寺院となっている。境内には四本の川が流れ、金堂・五大堂を含む百棟をはるかに超える堂宇を持ち、東福寺周辺から稲荷山、西は鴨川までの広がりを持っていたとされている。
今回訪問した最勝金剛院の元となる寺院が創建されたのも忠通の時代である。久安6年(1150)法性寺の山内東方に、藤原忠通夫人の宗子が塔頭寺院を建立している。最勝金剛院は法性寺山内で最大の面積を持つ寺院だったとされている。そして宗子は忠通との間に生まれた藤原聖子に最勝金剛院領を譲っている。藤原聖子は崇徳天皇の中宮となり、院号宣下し皇嘉門院となる。
忠通の後、近衛家の祖となる近衛基実を経て、子の九条兼実の時代を迎える。法然の最大の後援者であった九条兼実も法性寺において得度している。藤原忠通の法性寺殿に対して、兼実は後法性寺殿と呼ばれている。
この頃、崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵に記したように、保元の乱の敗戦により崇徳上皇が讃岐に配流されている。そして上皇は配流の地で長寛2年(1164)に亡くなる。中宮であった皇嘉門院は、配流の地に訪れることも出来ず京に留まったのは、中宮・皇太后といった尊位にあった上、父である藤原忠通が政権の中央に君臨していたことも想像できる。皇嘉門院は父の死後、異母弟の兼実の後見を受けることとなる。治承4年(1180)兼実の嫡男良通を猶子として、忠通伝来の豊後国臼杵・戸次の両荘を含む最勝金剛院領を相続させ、養和元年(1182)に亡くなっている。これが九条家の家領の礎となっている。
法性寺の地に東福寺創建した九条道家は、九条兼実から数えて3代目に当たる。仲恭天皇九條陵でも少し触れているように、承久3年(1221)に発生した承久の乱において、九条道家は直接討幕計画に加わらなかった。そのため摂政を罷免されたものの処罰されることがなかった。そして安貞2年(1228)近衛家実の後を受けて関白に任命され、翌安貞3年(1229)には長女の藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させている。寛喜3年(1231)長男の九条教実に関白職を譲ったものの、朝廷の最大実力者として君臨し従一位にまで栄進する。さらに長女の藻壁門院に秀仁親王が生まれる。親王は貞永元年(1232)後堀河天皇の譲位を受けて四条天皇となると、道家は外祖父として実権を完全に掌握する。そして嘉禎4年(1238)出家し、以後は太閤として権勢を誇る。道家が東福寺の創建を思い立ったのが、嘉禎2年(1236)のこととされているから、最も権勢を極めた時期に当たる。すなわち、藤原忠平が法性寺を創建した延長3年(924)から凡そ300年後に天台宗の法性寺を捨て、武家が信奉する新しい臨済宗の寺院の創建を想い立ったとされている。何故、このような決断をしたのかについては良く分からないが、京の朝廷政治の中心にあって鎌倉幕府との均衡を保つうえで必要なことだったのかもしれない。
しかし四条天皇は仁治3年(1242)僅か12歳で夭折する。道家は次の天皇に縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦するが、北条泰時により拒絶される。忠成王は承久の乱に積極的に加担した順徳天皇の第5皇子となるため、幕府は強硬に反対したのである。そして次の天皇は、土御門天皇の第2皇子の邦仁王が即位し後嵯峨天皇となっている。天皇家と姻戚関係を失ったことにより、道家の権勢に翳りが生じるようになる。また、子の頼経が鎌倉幕府の将軍となっているため、幕府の政策へも介入を行い、北条氏得宗家に反発する一族や御家人達の支持を集めている。このことを危険視した幕府は、寛元4年(1246)頼経の将軍職を廃する宮騒動を期に、執権・北条時頼と得宗家による専制体制を確立する。その後に発生する皇位簒奪や幕府転覆などの謀議に関わった嫌疑がかけられ、この時期には既に政治的立場を完全に失っていた。建長4年(1252)に死去。享年60。
東福寺の仏殿が完成し、5丈の釈迦像を安置したのは建長7年(1255)のこととされているから、道家の死後の事であった。このように発願から一応の完成を見るまでに時間を要したのは道家の晩年の政治的な状況を現わしているのかもしれない。
京洛二一ケ寺の一刹に数えられた法性寺も、九条道家が東福寺造営に注力することで衰退への道が決定したとも思える。応仁の乱などの兵火により堂宇は悉く焼失し、著しく衰退していく。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の法性寺の旧蹟には下記のようなことが記されている。
拾芥抄に曰、九条河原にありとぞ。今按るに、九条里の東なり、畠の字に阿弥陀堂の名あり。当寺の本願は摂政太政大臣従一位忠平公なり、天暦三年八月八日薨ず、昭宣公の長男にして、謚号貞信公。
明治維新以後、法性寺は旧名を継いで、伏見街道に面した東山区本町16丁目に再建されている。現在は大悲山一音院法性寺と号する浄土宗西山派の尼寺である。本堂には国宝に指定されている千手観世音菩薩像が安置されている。これは旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられ、「厄除観世音」の名で知られている。先の拾遺都名所図会には、この千手観世音菩薩像にも触れている。
東福寺北門の前にあり。三面千手観音を安置す、長一寸八歩、腹内に安置す、■仏立像、三尺、春日の作、千手三面なり。左辺は三宝荒神、右辺は辨財天、頂に二十五面あり。此本尊はいにしへ法性寺諸尊の内なり、かの寺荒廃によつて旧号により再興す、洛陽観音めぐりの第廿二番なり。今浄土宗これを守る。
また藤原宗子が創建した最勝金剛院も、東福寺が隆盛を極めると共に東福寺に吸収され、その塔頭となる。その後、代々の九条家に継承されてきたが室町時代に衰退してしまう。現在の最勝金剛院は、九条家一族の墓の管理と由緒ある寺院の復活を兼ねて、昭和46年(1971)旧地付近に再興されたものである。そのため東福寺の特別由緒寺院となっている。中央の八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代十一人の墓がその東方に有るとされている。
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