妙心寺 塔頭 その7
妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その7 2009年1月12日訪問
玉鳳院と龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院の本派四庵以外の43の塔頭を南西、北西、北東、南東そして一条通の北側の5つのエリアに分けて見て行く。
一条通北エリア
42金臺寺 慶長13年(1608) 開山 輝岳宗暾 妙心寺131世
開基 正親町天皇 豊臣秀吉
43仙壽院 承応 元年(1652) 開山 禿翁妙宏 妙心寺196世
開基 後水尾天皇
44多福院 文明14年(1482) 開山 鉄船宗熙
45霊光院 天正10年(1582) 開山 月航玄津 妙心寺44世
開基 細川昭元の室宗倩尼
46大珠院 明応 2年(1493) 開山 興宗宗松 妙心寺22世
47西源院 延徳 元年(1489) 開山 特芳禅傑 妙心寺12世
開基 細川政元
48龍安寺 宝徳 2年(1450) 開山 義天玄詔 妙心寺8世
勧請開山 日峰宗舜 妙心寺7世
開基 細川勝元
42 金臺寺 東海派
金臺寺は京福電気鉄道北野線・等持院駅から50メートルくらい北に位置する。金臺寺は妙心寺境域外塔頭のひとつ。金臺寺の公式HPに書かれているように、創建の詳細は残されていないようだ。東山泉涌寺の末流、寛忠小僧都が創建した池上金臺寺と伝えられている。 寛忠は平安時代中期の僧、延喜6年(906)敦固親王の第3皇子として生まれる。祖父の宇多法皇のもとで出家。淳祐、さらに寛空から灌頂を受け、真言密教広沢流の法を嗣ぐ。天徳4年(960)内供奉、康保5年(968)律師となり、親王の子としてはじめて僧綱の職に就く。翌年権少僧都、東寺長者となる。貞元2年(977)入寂。72歳。通称は池上僧都。この言い伝えが正しいならば、金臺寺の創建は妙心寺より比較できないほど古い時代となる。
後に北山に移され妙心寺58世南化玄興の弟子元昌喝食が住していた。天正4年(1576)106代正親町天皇から金臺寺再興の綸旨が下り、豊臣秀吉から朱印百石が付与される。慶長13年(1608)妙心寺131世輝岳宗暾が国泰寺と改称し、開祖第1世として入寺している。寛永4年(1627)輝獄和尚により再度寺基が改められ、鳳臺院と称されたが、明治9年(1876)現在の寺号金臺寺の称に復帰している。
金臺寺の本堂には創建時の因由により、釈迦牟尼佛を祀る。右脇壇には菅原道真公作と伝わる十一面観音様があり、神仏分離令によって北野神社より寄進されたものである。
43 仙壽院 龍泉派
仙壽院は等持院の西に位置する。承応元年(1652)後水尾天皇の帰依を背景に、開祖妙心寺196世禿翁妙宏で創建された妙心寺境域外塔頭。一絲文守寂後、後水尾院の帰依を受けていた禿翁は、まもなく院の元を辞して洛北幡枝に菩提院と称する一庵を結んで閑居する。ところが院がこの地を好んだため禿翁はこれを献上している。 後水尾院が帰依した一絲文守は、慶長13年(1608)岩倉具尭の第3子として山城国に生まれる。14歳で相国寺の雪岑梵崟、後に堺の南宗寺の沢庵宗彭に参じる。寛永3年(1626)槙尾の賢俊に就いて出家し、再び沢庵に参じたが印可はされなかった。妙心寺の愚堂東寔や雲居希膺につき、愚堂の法を嗣ぐ。後水尾上皇の帰依を受け、西賀茂の霊源禅院などを開き、持戒禅を唱える。寛永20年(1643)近江の永源寺に住し、正保3年(1646)に入寂。39歳。
禿翁妙宏は、通玄院でも記したように、龍安寺の龍渓性潜と計り承応元年(1652)に来朝した隠元隆琦の動向を伺うべく、法兄弟である虚櫺了廓を長崎に派遣した人物である。禿翁が後水尾院に献上した菩授院の地は幡枝御殿となり後の円通寺となったと思われる。つまり院の修学院離宮に辿り着くまでの離宮候補地のひとつであった。結局、離宮は修学院に建設されたため、幡枝御殿は近衛家に譲渡される。延宝6年(1678)霊元天皇の乳母であった圓光院殿瑞雲文英尼大師が開基となり、妙心寺10世の景川宗隆を勧請開山とし円通寺を建立している。そのため円通寺は、現在も臨済宗妙心寺派の寺院である。
禿翁が菩提院を献上した代わりに、洛外一円を巡覧し現在の境域を下賜されたとされている。元来永円寺の所在地であったが、幡枝の菩授院を移し院号を仙壽院と改めている。
仙壽院の山門へと続く参道に立つと、「洛外一円を巡覧し」という意味がよく分かる。優美な衣笠山を背にして仙壽院は建つ。
44 多福院 霊雲派
多福院は仙壽院の西に位置し、きぬかけの道で分断された龍安寺の門の南にある。文明14年(1482)鉄船宗熙を開祖として創建された妙心寺境域外塔頭。
般若房とも称される鉄船は、妙心寺5世で龍安寺の開祖である義天玄詔に参じ、妙心寺6世雪江宗深に印可されたが、法嗣を出さず諸方を行脚していた。妙心寺12世で龍安寺を中興、西源院の開祖の特芳禅傑が、鉄船を惜しんで多福院を創建し住せしめた。なお鉄船は数多くいる龍安寺石庭の作庭家の一人にも上げられている。
妙心寺300世梁谷宗怡が中興を行なっている。
45 霊光院 霊雲派
霊光院は鏡容池の北に位置している。天正10年(1582)妙心寺44世月航玄津を開祖として細川昭元の室宗倩尼が創建した妙心寺境域外塔頭。
細川昭元の室の宗倩尼は、お犬の方とよばれる織田信長の妹である。初めは尾張国大野城主佐治信方に嫁ぎ、一成を産む。 天正2年(1574)に信方は戦死。天正5年(1577)に管領細川晴元の嫡男で京兆家当主の山城国槙島城主の細川昭元と再婚。昭元との間には、細川元勝・長女(秋田実季正室)・次女(前田利常の正室の珠姫の侍女)をもうけた。天正10年(1582)に死去。法名は霊光院殿契庵倩公禅定尼。美貌の誉れが高かく若くして没したお犬の方の肖像画が龍安寺に残っている。月航の賛文には、婦人がいかに美しかったか言葉を尽くして述べられている。
霊光院が創建され、お犬の方が亡くなった天正10年はお犬の方の兄である織田信長が本能寺の変で亡くなった年でもある。
2012年1月に霊光院を探し鏡容池を一周したが、見つけることができなかった。龍安寺の掃除をしていた方に伺うと霊光祖堂を教えられたが、これでよかったのだろうか?
46 大珠院 東海派
大珠院も霊光院と同様に鏡容池の北に位置している。明応2年(1493)妙心寺22世興宗宗松を開祖として創建された塔頭。当初は洛中にあり、大珠寺と称する一寺であった。
興宗宗松は、文安2年(1445)に生まれる。妙心寺11世悟渓宗頓の法を嗣ぐ。大徳寺69世の住持となる。明応3年(1494)美濃の守護代斎藤利国に招かれ、大宝寺を開いた。大永2年(1552)入寂。78歳。
天文年間(1532~55)頃までに龍安寺境内に移されている。慶長5年(1600)豊臣秀吉の旧臣で関ヶ原での敗戦後罪を謝し法体となった石川備前守光吉宗林が中興している。
石川備前守光吉宗林とは石川貞清で犬山城主を務めた人物。豊臣秀吉に使番、金切裂指物使番として仕え、小田原征伐で功績を挙げ天正18年(1590)尾張犬山12000石を領する。天正19年(1591)文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事を担う。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて西軍につき、居城の犬山城に稲葉貞通・典通父子らと籠城するが、東軍に内応していたため引き上げていく。貞清は城を出て本戦に参加し、宇喜多隊の右翼に陣取る。敗戦後所領を没収されるが、池田輝政の働きかけにより黄金千枚で助命され、剃髪して宗林と号する。京で隠棲し、茶人・商人として余生を過ごす。
なお貞清の妻は、真田信繁(幸村)の七女於金殿とされる。大坂の陣で戦死した信繁の正妻竹林院を生涯に渡って援助したと伝えられる。更に京都市右京区竜安寺塔頭大珠院に、信繁夫妻の墓を建て五輪塔を建立している。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会でも、以下のように五輪塔について触れられている。
同大珠院の林泉は、鏡容池西の方に巡りて庭中の美となる、池中の島へ石橋をわたして、島の中に綾杉といふ名木あり、株の皮目に杢ありて綾絹に似たり、葉は常の杉に等し、高さ三丈許、京師の珍木なり。其木下に墳墓あり、中に真田左衛門尉幸村の墓あり、五輪の石塔婆を建て法号を鐫ず。
幸村法号 大光院殿日道光白大居士 〔又当院の牌に慶長二十年乙卯五月七日歿〕
幸村の室 竹林院梅渓永春清大姉 〔幸村の女の牌に真巌院法楽宗蓮大姉、此人は石河備前守の室家にして、真田氏の家系に添て什宝を寄附す、今当院にあり〕
創建についても、
寺説云、当院は石河備前守殿の菩提所にして、太平の後親属の因をもつてこゝに建らるゝとぞ聞えし
と石川貞清の名が出ている。掲載されている図会には鏡容池の中島に石橋が架けられ、綾杉の傍らに幸村の五輪塔が描かれている。
47 西源院 霊雲派
西源院は大珠院の西に位置し鏡容池に面する。延徳元年(1489)細川政元が妙心寺12世で龍安寺中興祖である特芳禅傑を請じて創建している。その前身は、細川勝元が徳大寺家より地を得て清源庵を建て、のち高源院と改め、さらに移建されて西源院と号したものだという説もある。妙心寺25世大休宗休が中興を果たしている。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、西源院について下記のように記されている。
塔頭西源院を今仮方丈とす。〔近年方丈祝融に罹ればこゝに移す〕釈迦、迦葉、阿難の三尊を安じ、開山日峰和尚の像を安ず。襖の画は中の間惣金極彩色の仙人尽、東の間竹林に虎、西の間琴碁書画、杉戸(表)象(裏)亀倶に狩野永徳の筆なり。
祝融とは中国神話の火の神のことで、寛政9年(1797)の火災により龍安寺の方丈が焼失し、西源院の方丈を移築したことを言っている。これらの襖絵も同じく龍安寺に移されたものの、明治期の廃仏毀釈の困窮により売却されたため散逸している。現在龍安寺の方丈に描かれている龍と金剛山の襖絵は、皐月鶴翁が昭和28年(1953)から5年がかりで描いたものである。
上記の都林泉名勝図会には、
此院の林泉又風流にして、上段の地に茶室あり、額蔵六と書す、正法山桂南の筆なり。当寺の後山絹笠山めぐりて雪の日の壮観なり。
と記され、掲載された図会には茶室と衣笠山が描かれている。
明治に入り、西源院は天正年間(1573~92)開創の龍安寺塔頭東皐院を併合している。すでに今はない東皐院についても都林泉名勝図会では以下のように見晴らしの良い庭だったと記している
塔頭東皐院の林泉は遠景を興とす、坐にして八幡山崎淀川のながれ、小倉の江伏水鳥羽羽 束師など鮮かに見えて、風光微妙なり。
48 龍安寺 霊雲派
龍安寺は境内の最も北の高所に位置している。宝徳2年(1450)細川勝元が妙心寺8世義天玄詔を請じて創建した塔頭。義天はさらにその師である妙心寺7世日峰宗舜を勧請して開祖としている。妙心寺9世雪江宗深があとを嗣いだが、応仁の乱で焼失。細川政元が妙心寺12世特芳禅傑を中興祖に請じて長享2年(1488)に再建し、現存の石庭もこのとき整えられたと考えられている。寛政9年(1797)に再び火災により消失する。西源院の方丈を移して再建されたため、現存の方丈は慶長11年(1606)に西源院に建てられた方丈である。太平記十二冊(重要文化財)を有する。
1994年に古都京都の文化財としてユネスコの世界遺産に、妙心寺全域ではなく龍安寺として登録されている。
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