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妙心寺 塔頭 その6



妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その6 2009年1月12日訪問

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妙心寺 小方丈

 玉鳳院と龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院の本派四庵以外の43の塔頭を南西、北西、北東、南東そして一条通の北側の5つのエリアに分けて見て行く。

南東エリア
31雑華院 天正11年(1583) 開山 一宙東黙 妙心寺79世
                開基 牧村利貞
32福壽院 元和 5年(1619) 開山 竜天宗登
                開基 水野忠清の室(養賢院)
33如是院 ?      大愚庵開山 義天玄詔 妙心寺8世
      寛正 3年(1462) 中興 直指宗諤 妙心寺51世
                開基 奥平貞澄
34大心院 明応 元年(1492)?開山 景堂玄訥 妙心寺29世
      文明11年(1479)?勧請 景川宗隆 妙心寺10世
                開基 細川政元
35東林院 弘治 2年(1558) 開山 直指宗鍔 妙心寺第51世
                開基 山名豊国
36衡梅院 文明 元年(1469)?開山 雪江宗深 妙心寺9世
      文明12年(1480)?開基 細川改元
37養源院 文安 5年(1448) 開山 日峰宗舜 妙心寺7世
                開基 細川持之
38長興院 天正 9年(1581) 開山 九天宗瑞 妙心寺56世
                開基 滝川一益
39慧照院 元和 9年(1623) 開山 瑞雲宗呈 妙心寺103世
                開基 松平忠昌
40龍華院 明暦 2年(1656) 開山 竺印祖門 妙心寺223世
              勧請開祖 千山玄松 妙心寺178世
                開基 毛利秀就の室喜佐姫
41春浦院 寛永 5年(1628)?開山 空山宗空 妙心寺319世
      万治 元年(1658)?中興 空山宗空 妙心寺319世

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妙心寺 塔頭 雑華院 山門

31 雑華院 東海派

 雑華院は海福院の南、微笑殿と小方丈の東に位置する。天正11年(1583)牧村利貞が実弟の妙心寺79世一宙東黙を開祖に開創された塔頭。
 牧村利貞は天文15年(1546)稲葉重通の子として生まれる。外祖父牧村政倫の様子となり、牧村姓を名乗る。政倫の跡を継いで伊勢岩出城主となる。織田信長に仕え、天正5年(1577)雑賀攻め、同6年有岡攻めに従軍。信長の馬廻に名を連ねている。信長の死後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。天正12年(1584)高山右近の勧めを受けキリシタンとなる。小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州の役にも参加する。天正18年(1590)秀吉より伊勢岩手藩2万650石を与えられる。文禄元年(1592)文禄・慶長の役にも舟奉行として参加する。文禄2年(1593)朝鮮において病死。享年48。
 牧村利貞の出生については、稲葉重通を父とする歴史資料と斎藤伊予守を父とする茶道系資料があるようだ。斎藤伊予守説に従うと、長男:斎藤利三 次男:牧村利貞 三男:一宙東黙で斎藤利三と稲葉一鉄の娘との間に春日局となる福が生まれ、稲葉重通の養女となっている。牧村利貞も稲葉重通の娘を妻とすることで、重通が義父となっている。さらに斎藤伊予守の妻は明智光秀の娘とされている。これによって明智光秀から春日局までが姻戚関係でなく血縁で結ばれることとなる。
 この説については、山元醸造株式会社の公式HPに掲載されている 枯木猿工猴図の謎 を参照すると分かりやすい。なお、この説の出典は明らかにされていないが、「京都市妙心寺雑華院の寺伝によりますと、」という言葉が見えるので、それに関する資料があるのかもしれない。妙心寺の公式HPに掲載されている雑華院(http://www.myoshinji.or.jp/k/root4/13.html : リンク先が無くなりました )でも下記のように記している。
     利貞は明智光秀の重臣斎藤伊予守の子で、文禄の役に出陣し戦地で没した。

 牧村利貞は利休七哲の一人とされている。七哲とは、一番蒲生氏郷、二番高山右近、三番細川三斎、四番芝山監物、五番瀬田掃部、六番牧村兵部、七番古田織部。この内、生没の分からない芝山監物と伴天連追放令に従った高山右近を除き、文禄2年(1593)牧村兵部が文禄の役で病死、文禄4年(1595)瀬田掃部が豊臣秀次の粛清に連座し処刑、蒲生氏郷も同年に病死し蒲生家も4代目で廃絶、慶長20年(1615)大阪城落城後に古田織部が自害している。秀吉・利休に関係した中で結果的には細川三斎だけが安泰であったといえる。

 開山の一宙は妙心寺62世柏堂景森に参じ、その嗣虚庵慧洪を嗣ぐ。その弟子のうち、瑞巌寺中興開山で妙心寺153世の雲居希膺、海福院の開山で妙心寺135世の夬室智文そして大愚宗築はよく知られる。
庭園は小堀遠州の高弟で桂離宮の造営にも参画したと伝えられている玉淵坊の作。
 雑華院の敷地は、石川光重より譲り受けたものという記述があるが、これは天正11年(1583)妙心寺67世功沢宗勲を開祖とし、石川光重が開創した養徳院の広大な寺地に建っているという意味である。

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妙心寺 塔頭 福壽院 山門

32 福壽院 東海派

 福寿院は雑華院と大心院との間の道を進んだ先、雑華院の東に位置する。元和5年(1619)松本城主水野忠清の室が竜天宗登を開祖に請じて創建した塔頭で、当初は養賢院と号した。
 水野忠清は天正10年(1582)三河刈谷を領する水野忠重の四男として生まれる。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い直前に父忠重が加賀井重望に殺されたため、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなる。
 慶長19年(1614)からの大坂の両陣とも参戦し、元和元年(1615)夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げる。この際青山忠俊と行賞をめぐって争い、謹慎を命じられる。翌年家康死去の寸前に謹慎を解かれ、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、三河刈谷に移封される。寛永19年(1642)信濃松本7万石に加増移封される。正保4年(1647)江戸にて死去。享年66。
 開基となった水野忠清の室は前田利家の娘で、戒名を福寿院殿性宣妙演大姉とする。承応2年(1653)忠清の嫡子・水野忠職が再建し、性宣院と改称する。さらに享保3年(1718)水野忠幹の外護のもとに台嶽和尚が中興し、院号を福寿院と改める。この享保3年(1718)に父水野忠周が亡くなり、忠幹が水野氏松本藩5代藩主に就いている。この中興は父の菩提を弔うものであったかもしれない。英名の声高く期待されたが、享保8年(1723)に嗣子なく病没する。そして弟の水野忠恒が継ぐが、享保10年(1725)城内で刃傷沙汰を起こして改易される。
叔父の水野忠穀(水野野忠周の弟)に家名存続のみが許される。その子忠友が第10代将軍徳川家治の側近として活躍したため、明和5年(1768)三河大浜にて大名に復帰する。さらに安永6年(1777)には駿河沼津城を与えられ城持ち大名となる。大名復帰後は、当主が側用人や老中など幕府要職に就任する機会が多くなり、勢力を増す。
 現在の方丈は水野忠幹の時に建立されている。

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妙心寺 塔頭 如是院 山門

33 如是院 霊雲派

 如是院は海福院の西に位置する。妙心寺8世義天玄詔の開創した大愚庵を寛正3年(1462)に妙心寺51世直指宗諤が伊勢の奥平貞澄の援助を得て中興を果たし如是院と改称している。大愚庵は現在の東海庵の地にあったものを直指は現在の花園会館の地に移している。近世期は、院禄をもつ24箇院の一塔頭(であったが、明治に入って無住となる。現在地へ移建されたのは昭和32年(1957)のことであった。
 大愚庵がいつごろ開創したかは妙心寺の公式HP(http://www.myoshinji.or.jp/k/root4/39.html : リンク先が無くなりました )にも記されていない。妙心寺8世義天玄詔が生まれたのは明徳4年(1393)で偶然にも如是院に改称された寛正3年(1462)に入寂している。そして義天が開山となった龍安寺が創建されたのが宝徳2年(1450)であるから、それ程離れない時期に大愚庵が開創されたのではないだろうか?

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妙心寺 塔頭 大心院 山門
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妙心寺 塔頭 大心院 切石の庭
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妙心寺 塔頭 大心院 切石の庭

34 大心院 龍泉派

 大心院は雑華院の南に位置する。妙心寺10世景川宗隆を勧請開祖、妙心寺29世景堂玄訥を開祖として細川政元が創建した塔頭。開創年次については、明応元年(1492)説と文明11年(1479)説があり、開創場所についても妙心寺山内説、上京清蔵口説などがある。大心院は山外に所在した時期があったことは明確とされている。
 開基の細川政元は既に、大心院衡梅院の項でも触れたように、これらの塔頭を創建した政元は細川勝元の子で、足利幕府の管領、応仁の乱終結後の細川京兆家繁栄を築いた人物である。年次的にまとめると、以下のようになる。
  衡梅院 文明12年(1480) 開山 雪江宗深 妙心寺 9世
  龍泉庵 文明13年(1481) 開山 景川宗隆 妙心寺10世
  西源院 延徳 元年(1489) 開山 特芳禅傑 妙心寺12世
  大心院 明応 元年(1492) 開山 景堂玄訥 妙心寺29世

 文正元年(1466)に生まれた政元は、文明5年(1473)に家督を相続している。そして文明10年(1478)元服し、8代将軍足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。明応2年(1493)に起こった明応の政変で、足利義高を第11代将軍に就任させ、自らは管領に就いている。しかし永正4年(1507)に家臣に暗殺される。元服後から明応の政変までの間に4つの塔頭を創建したこととなる。
 天正年間(1573~92)頃の細川幽斎の助力による材岳宗佐の中興の際には、山内において寺観が整備されたと考えられている。さらに妙心寺の公式HP
には、下記のように記されている。

     寛永十一年(一六三四)、蒲生家の援助を得て嶺南崇六が再興をなした。

とあるが、寛永11年(1634)8月18日、蒲生氏郷から4代目にあたる蒲生忠知が参勤交代の途上、京都藩邸で急死している。享年31。死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子が無かったため、蒲生氏は断絶となる。寛永11年(1634)は蒲生忠知が亡くなった年であり、近江蒲生氏が消滅した年でもある。この中興は忠知の供養のためだったかもしれない。
 鎌倉時代の「羅漢図」(重要文化財)を有する。

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妙心寺 塔頭 東林院 山門
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妙心寺 塔頭 東林院 庫裏

35 東林院 霊雲派

 大心院と玉鳳院の東に位置する。弘治2年(1558)妙心寺第51世直指宗鍔を開祖とし、山名豊国が開基となり、創建された山名家の菩提所塔頭。その前身は上京清蔵口にあった細川家屋敷内の三友院で、直指が妙心寺山内に寺基を改め、東林院としている。
 山名豊国は、天文17年(1548)但馬山名氏豊定の子として生まれる。生母は室町幕府の管領細川高国の娘であった。永禄3年(1560)に豊定が死去、山中幸盛(山中鹿之助)ら尼子氏残党軍の支援を得て因幡山名氏の家督を継承する。しかし天正元年(1573)毛利氏に攻められて降伏して毛利氏の軍門に下る。
天正6年(1578)から織田信長と誼を通じたものの、天正8年(1580)に羽柴秀吉の侵攻によって、一旦は鳥取城に籠城するが、一人で降伏する。豊国は秀吉を通じて助命され、天正9年(1581)には、秀吉と共に吉川経家が籠もる鳥取城攻めにも従軍する。
 天下統一後は秀吉の御伽衆となり、天正20年(1592)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣。秀吉の没後は徳川家康に属し、関ヶ原の戦いの戦功により、慶長6年(1601)には但馬の一郡を与えられ6700石を領している。家康、秀忠に仕え、寛永3年(1626)死去。享年79。
 名門の出身ゆえに、有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化面には精通していたといわれる。
 天保3年(1832)諸堂宇が大破するが、山名家によって本堂、庫裏などが再建されている。

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妙心寺 塔頭 衡梅院 山門
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妙心寺 塔頭 衡梅院 庫裏
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妙心寺 塔頭 衡梅院 四河一源の庭

36 衡梅院 霊雲派

 衡梅院は龍泉庵と東海庵の間に位置し、蓮池に面する。文明元年(1469)あるいは文明12年(1480)に細川改元の外護を得、妙心寺9世雪江宗深を開祖として創建した塔頭。
 衡梅院の創建された文明12年(1480)は、応仁の乱が終結した後の時期に当たる。衡梅院の開山である妙心寺9世雪江宗深は、応永15年(1408)摂津に生まれている。幼い頃に京都建仁寺五葉庵に入り、文瑛に師事して出家する。後に五山より離れて、尾張国瑞泉寺の妙心寺7世日峰宗舜に師事している。瑞泉寺は、海清寺で妙心寺3世無因宗因に師事した妙心寺7世日峰宗舜が、無因の没後の応永22年(1415)尾張国犬山に開創した寺院である。義天玄詔、雲谷玄祥、桃隠玄朔は印可状を受けて日峰のもとを去っていったが、雪江は日峰より印可を受けることはなかった。
 妙心寺養源院の搭主となった雪江は、龍安寺の開祖であり妙心寺8世義天玄詔に師事した。義天は大変厳しい人で、軽々しくて印可を与えなかった。雪江は養源院から毎日、龍安寺に後輩に交じり参禅した。雪江は寛正3年(1462)2月22日にようやく義天玄詔より印可状を受けている。雪江宗深、時に55歳。その26日後の3月18日に義天玄詔が没しており、雪江は義天玄詔から印可状を受けた唯一の人物となった。
 義天が没すると、雪江は龍安寺を継ぐ。義天玄詔、雲谷玄祥、桃隠玄朔が相次いで遷化したため、その門下はすべて雪江宗深の門下に入ることとなる。雪江宗深は、南浦紹明、大徳寺開山宗峰明超、妙心寺開山関山慧玄の流れをくむ関山派の第一人者となった。寛正3年(1462)8月、大徳寺に奉勅入寺する。これは外護者である細川勝元の尽力の結果であろう。そして義天の例にならって3日間で退いている。応仁の乱の間、雪江は義天が開創した丹波国龍興寺に難を逃れている。丹波は細川勝元の領国でもある。雪江は文明年間(1469~87)の初めに龍安寺を再建し、文明9年(1477)後土御門天皇より妙心寺再興の綸旨を得て再建している。米銭納下帳をつくり寺院経営の合理化と経済的基盤の確立をはかり、門下に景川宗隆(龍泉派祖)、悟渓宗頓(東海派祖)、特芳禅傑(霊雲派祖)、東陽英朝(聖澤派祖)を輩出し、4派4本庵による教団統括運営組織の基礎を築く。また,妙心寺の寺史や開山などの伝記を選述している。文明18年(1486)示寂。79歳。

 文明18年(1486)に雪江が遷化すると遺命により衡梅院は雪江の塔所とされる。その後止住の僧を欠き衰微したが、慶長9年(1604)に天秀得全が真野蔵人の援助を得て中興を果たす。現在の方丈はこのとき建立されたもので、同年8月の紀年を有する棟札が残されている。

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妙心寺 塔頭 養源院 山門
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妙心寺 塔頭 養源院 庫裏

37 養源院 霊雲派

 衡梅院より蓮池を挟んで東側に養源院は位置する。文安5年(1448)妙心寺7世日峰宗舜を開祖とし細川持之の外護を得て創建された塔頭。
 妙心寺7世日峰宗舜は応安元年(1368)に山城国に生まれている。俗姓は藤原氏。9歳で天龍寺本源庵の夢窓疎石の門弟岳雲周登に投じている。その後は諸国をめぐり摂津国海清寺の妙心寺3世無因宗因に師事して参禅する。無因の各地歴住に同行し法を嗣ぐ。応永17年(1410)無因の没後、美濃・尾張の数寺に仮寓し大蔵経を閲する。応永22年(1415)犬山に瑞泉寺を開き、無因を開山とする。永享元年(1429)荒廃していた妙心寺に請われて入寺する。大内義弘の応永の乱がもとで、足利義満に妙心寺は没収され30年を経ていた。日峰は細川勝元の支援を受け、妙心寺の復興に尽力する。妙心寺中興の祖と称される。文安4年(1447)関山派としては初めて大徳寺に住すが、翌文安5年(1448)入寂する。81歳。

 開基の細川持之は細川勝元の父である。応永7年(1400)細川満元の次男として生まれる。永享元年(1429)死去した兄の跡を継ぎ、永享4年(1432)斯波義淳の後を受けて管領に就任する。6代将軍足利義教の専制政治の中で管領を務め、関東で発生した永享の乱、結城合戦に対応する。
 嘉吉元年(1441)結城合戦祝勝会で、赤松満祐による義教暗殺に同席するものの難を逃れる。 持之は義教の嫡子の足利義勝を室町御所に移して第7代将軍に就任させ、赤松氏討伐を実施し、赤松家を滅ぼす。以後、幼い義勝に代わって幕政を主導する。嘉吉2年(1442)管領を辞任し出家する。同年死去。享年43。養源院が開創した文安5年(1448)には、持之は既に亡くなっている。家督は嫡男の勝元が13歳で継いだため、持之の弟の持賢が後見人となる。また管領は畠山持国が就任し、以後の幕政を主導する。

 応仁の乱で養源院も焼失する。文明年間(1469~87)に妙心寺9世雪江宗深が再興し、妙心寺13世で聖沢派の東陽英朝に付嘱する。その後相続者を失うなどして衰微し、天文年間(1532~55)以後は荒廃するままに任せられていた。
 近世に入り剛宗宗紀が父半井元成の援助のもとに再建に尽力し、中興を果たす。現在の方丈はこのときに再建されている、剛宗の師妙心寺80世鉄山宗鈍筆になる慶長4年(1599)の棟札が残されている。半井元成は医師の半井安立軒元成のことで、大阪市住之江区安立は半井元成が住んでいたことから地名になったとされている。

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妙心寺 塔頭 長興院 山門
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妙心寺 塔頭 長興院 庫裏

38 長興院 聖沢派

 長興院は蓮池の南に位置する。天正9年(1581)妙心寺56世九天宗瑞を開祖として滝川一益が創建した塔頭。
 滝川一益は織田四天王(柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀)の一人に数えられる名将。大永5年(1525)滝川一勝もしくは滝川資清を父として近江国甲賀郡に生まれている。尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明。しかし弘治2年(1556)頃には既に信長の家臣であったと考えられている。元亀元年(1570)長島一向一揆の鎮圧から三方ヶ原の戦い、一乗谷城の戦い、長篠の戦い、そして天正9年(1580)の伊賀攻めに参陣している。そして天正10年(1581)信長が本能寺の変によって横死すると、一益は信孝を擁立する柴田勝家勝家に与し、賤ヶ岳の戦いに出陣する。勝家は敗死、信孝も秀吉により自害させられ、秀吉に長島城を攻撃された一益は籠城戦の末に降伏する。所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、丹羽長秀を頼り越前国にて隠居する。小牧・長久手の戦いでは秀吉に呼び戻され秀吉方で戦い、戦功を上げる。天正14年(1586)死去。享年は62と云われる。
 長興院が創建された天正9年(1581)は本能寺の変の直前にあたる。一益は本能寺の変以降、勝家側に付いたことを考えると、織田家臣として権勢のあった時に開創したことになる。

 長興院は暘谷庵と称する一庵にあったといわれている。そのためか慶長11年(1606)に津田秀政が再興したときには暘谷院と号した。しかし秀政没後ふたたび長興院に戻る。
 津田秀政は戦国武将から江戸幕府旗本寄合となった人物で、妻は滝川一益の娘であった。天文15年(1546)津田秀重の子として生まれる。父秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。後に豊臣秀吉に馬廻として仕えるが、慶長3年(1598)の秀吉死後は徳川家康に仕える。慶長5年(1600)家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦い後、3000石を与えられ、計4010石余となる。慶長19年(1614年)大坂の陣にも従軍、4000余石の大身旗本となる。寛永12年(1635)死去。享年90。
 戦上手の岳父滝川一益が織田から豊臣への移行を読み誤ったのに比べ、津田秀政は織田から豊臣そして徳川へと的確に読めていたといえるだろう。

 開祖九天が長興院の隣接地に閲創した大雲院を併合し、貞享3年(1686)に、現在地へ移建されている。その跡地は本山が買い取り宝蔵を建立したということから、旧地は衡梅院の東側だったのであろう。

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妙心寺 塔頭 慧照院 山門 2012年1月撮影
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妙心寺 塔頭 慧照院 2012年1月撮影

39 慧照院 聖沢派

 慧照院は下立売通を挟んで花園会館の正面に位置する。元和9年(1623)妙心寺103世瑞雲宗呈を開祖とし松平忠昌の室花姫の菩提所として創建された塔頭。
 松平忠昌は越前福井藩初代藩主結城秀康の次男として慶長2年(1598)大阪に生まれる。父結城秀康は徳川家康の次男。元和9年(1623)兄の忠直が不行跡を理由に配流処分となり、越前福井藩50万石を相続する。正保2年(1645)江戸霊岸島の中屋敷にて死去。戒名は隆芳院殿郭翁貞真大居士。
 花姫は紀州和歌山藩主浅野幸長の女で忠昌の正室であった。花姫は慶長10年(1605)生まれで、忠昌が家督を継いだ元和9年(1623)に亡くなっている。忠昌との間に子供はなく、忠昌は後に武家伝奏を務める広橋兼賢の女・道姫を継室として迎えている。しかし寛永13年(1636)側室・お幾久との間に昌勝、継室・道姫との間に光通、そして寛永17年(1640)再び側室・お奈津との間に昌親が生まれる。この3兄弟の家督相続問題と絶え間ない幕府の介入こそが福井藩を悩ませることとなる。

 慧照院は当初、花姫の法号に因んで黄梅院と称した。瑞雲は美濃伊自良の東光寺の世代で、福井にも東光寺を開創し、忠昌の外護を受けていた。慧照院はもと北総門辺にあったが、まもなく衰退し、宝永年間(1704~11)に美濃・慈渓寺より大春和尚を請じ中興がなされた。このとき、ほぼ現在地に移建し、慧照院と改称している。さらに明治11年(1878)華嶽院を併合している。

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妙心寺 塔頭 龍華院 山門 2012年1月撮影
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妙心寺 塔頭 龍華院 庫裏 2012年1月撮影

40 龍華院 霊雲派

 龍華院は慧照院の南に位置し東を向く。明暦2年(1656)に妙心寺223世竺印祖門が毛利秀就の室喜佐姫の外護のもとに創建した塔頭。竺印は師で妙心寺178世千山玄松を勧請開祖としている。
 毛利秀就は長州藩初代藩主。文禄4年(1595)安芸広島で毛利輝元の嫡男として生まれる。長く実子に恵まれなかった輝元は、従弟の毛利秀元を養嗣子に迎えて世子としていたが、秀就が生まれると、秀元には長門長府藩を立てさせている。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、輝元と共に長門・周防37万石に減封、当主となるが、幼年のため政務は秀元が執る。慶長13年(1608)徳川家康の命により家康の次男・結城秀康の娘・喜佐姫を正室に迎える。秀就は越前松平家の一門となり松平長門守を称する。慶長20年(1615)大坂の陣には徳川方として参戦している。元和9年(1623)に父が正式に隠居し、藩主を務めるも後見人・秀元の影響力は強く、秀就の権力はほとんどなかったと思われる。次第に秀元と対立することが多くなり、寛永8年(1631)秀元の後見人辞任以降、深刻になる。事態を憂慮した幕府の仲裁で寛永13年(1636)秀元と和睦、対立は終息している。秀元の後見人辞任後は義兄弟の吉川広正が後見人となっているが、実際の藩政は重臣達に任せているため、秀元の辞任で藩主を中心とした長州藩独特の権力体制は確立したともいえる。慶安4年(1651)57歳で死去。戒名は大照院殿月礀紹澄大居士。

 若い頃の秀就の素行はあまり良くなかったのに対し、秀元は3代将軍徳川家光の御伽衆として信頼されるほど声望も高かった。この差が秀就と秀元の軋轢を深刻にする要因の1つとなったであろう。また、後見人であった秀元だけではなく、弟の毛利就隆、喜佐姫出里となる越前松平家との間にも軋轢があった。
 喜佐姫は慶長2年(1597)結城秀康の娘、徳川家康の孫として生まれている。慶長8年(1603)将軍徳川秀忠の養女として、毛利秀就と婚約、慶長13年(1608)結婚。4男3女を生む。慶安4年(1651)の秀就没後に剃髪、竜照院と号する。明暦元年(1655)江戸で死去。59歳。龍華院創建の明暦2年(1656)は喜佐姫の没後となる。

 龍華院の前身は寛永年間(1624~44)開創の保寿庵または徳昌院であり、明暦2年(1656)の中興祖を松平綱広とする説もあるが、事情は不明確とされている。松平綱広は寛永16年(1639)毛利秀就と喜佐姫の間に四男として生まれている。慶安4年(1651)父秀就の死去で家督を継ぐ。父の代ではできなかった藩政の確立を成す。越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎える。
 関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた毛利輝元の孫という意識が高く、徳川氏に仕えることを恥とし、将軍に対して登城しないことさえあったとされている。改易を恐れた家臣は、綱広に隠居を要求するようになる。天和2年(1682)長男吉就に家督を譲り隠居している。また喜佐姫の娘土佐姫は松平忠直の長男で越後高田藩主の松平光長の正室となっている。

 明治12年(1879)寺の前にあった善性庵を併合して今日に至っている。

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妙心寺 塔頭 春浦院 山門 2012年1月撮影
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妙心寺 塔頭 春浦院 2012年1月撮影

41 春浦院 龍泉派

 春浦院は龍華院の南に位置し丸太町通に面する。寛永5年(1628)妙心寺319世空山宗空を開祖として創建。万治元年(1658)空山が永井佐渡守尚主の浄財により、荒廃していた一子院を再興したとされる。しかし上記の再興された万治元年(1658)でも空山の幼少期にあたるため創建・再興時期共に疑問が持たれている。

 空山には帰依者が多く、一柳末礼や横田重房など有力な外護者がいて、寺観が整備され、虎渓の三笑を模したという庭園で知られていた。
 一柳末礼は慶安2年(1649)播磨小野藩2代藩主・一柳直次の長男として江戸に生まれる。万治元年(1658)父が死去したため、翌年に跡を継ぐ。大番頭や留守居役、元禄16年(1703)5代将軍徳川綱吉の御側衆を務める。正徳2年(1712)64歳で死去。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。
現在は旧寺域の三分の一に縮小されている。室町時代の「福富草紙」(重文)を有する。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも同様な記述が見られる。
     春浦院〔同所の南車街の西側にあり、檀那一柳土佐侯〕〔当院方丈の画は都て雪溪の筆なり。又林泉は虎溪の三笑を象て妙景あり。こゝの什宝に福富と名づくる戯画の軸の物あり、妙筆にして画師詳ならず、往昔の土佐家の筆威なり。譬ば鳥羽僧正の書れし放屁軍に似たり、少しく上へに文段ありて、をかしく面白く席上に大笑ひを催す名画なり。時々高貴青雲家へも上覧に備ふ、世に名高し〕

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妙心寺 微笑殿 山門

「妙心寺 塔頭 その6」 の地図





妙心寺 塔頭 その6 のMarker List

No.名称緯度経度
31  妙心寺 雑華院 35.0235135.7211
32  妙心寺 福壽院 35.0232135.7214
33  妙心寺 如是院 35.0235135.7215
34  妙心寺 大心院 35.0229135.7212
35  妙心寺 東林院 35.0229135.7223
36  妙心寺 衡梅院 35.0221135.7207
37  妙心寺 養源院 35.0221135.7218
38  妙心寺 長興院 35.0219135.7212
39  妙心寺 慧照院 35.0208135.722
40  妙心寺 龍華院 35.0199135.7222
41  妙心寺 春浦院 35.0197135.7222

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