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東福寺 塔頭 その5



東福寺 塔頭 (とうふくじ たっちゅう)その5  2009/11/28訪問

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東福寺 栗棘庵 山門内

■18 東光寺

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東福寺 東光寺 2008年11月22日撮影

無為昭元の開創による塔頭。無為昭元は寛元3年(1245)京に生まれる。円爾弁円の法を嗣ぎ、博多承天寺、三聖寺、東福寺そして鎌倉円覚寺の住持を務める。応長元年(1311)寂。67歳。諡号は大智海禅師。

■19 桂昌院

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東福寺 桂昌院 2008年12月22日撮影

 元亨元年(1321)東福寺第12世双峰国師(宗源)が開創し、後宇多上皇より「万年桂昌精舎」の額寺を賜わる。その後、兵乱のために荒廃したが、幕末の天保年間(1830~44)現在の地に再建される。寺宝に重要文化財に指定されている絹本著色「双峰国師像」一幅を有する。

■20 荘厳院

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東福寺 荘厳院 2008年12月22日撮影

 文永年間(1264~75)聖一国師の法弟南山士雲によって創建された山内塔頭。南山士雲は建長6年(1254)遠江国の生まれ。円爾弁円について出家、大休正念、無学祖元に参禅する。その後に東福寺に戻り、円爾から無準師範より伝わる法衣を授けられる。永仁5年(1297)博多の承天寺の住持となり、延慶3年(1310)東福寺第11世住持となる。足利尊氏の要請により建長寺、円覚寺などの五山にも住し、鎌倉崇寿寺を開き、鎌倉幕府の帰依を集める。密教の伝法灌頂堂であった東福寺荘厳蔵院を自分の塔所に改め隠退所とする。建武2年(1335)寂。81歳。この頃より東福寺で密教が修せられなくなったとされている。また聖一派の2大門派のひとつである荘厳門派を興し、純粋禅を挙揚する。南山士雲墓は竹薮の生い茂る方丈背後の奥深い墓地の北にある。泉涌寺の開山塔の中国風なのに対し、これは純日本風の無縫塔である。
 寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には下記のように記されている。
林泉風景ありて奇岩あり、双鵝石、獅子石といふ。当院は乾峰和尚の開基にして、仏殿に乾峯の筆正続の額あり

 残念ながら双鵝石、獅子石(眼星懸テ百獣ヲ威ス 赤毫焔起テ群主ヲ照ス)と称する奇岩は現存していない。荘厳院の墓地には江戸後期の儒医吉益東洞・南涯父子墓および中西深斎・鷹山父子墓や兵学家の柏淵石門の墓等がある。

■21 願成寺

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東福寺 願成寺 2008年12月22日撮影

 願成就寺とも称する。始めは伏見稲荷あたりにあり、桓武天皇の皇孫阿保親王の建立とされる天台の寺院。その後の沿革は明らかでない。現在でも伏見街道本町22丁目の西側に深草願成町の名が残る。
 嘉元元年(1303)南洲宏海が再建し臨済宗に改宗したとされている。宏海は宋より帰朝後、鎌倉建長寺の兀庵普寧に師事し、その法を嗣ぐ。弘安4年(1281)鎌倉浄智寺の開山に招かれたが師の普寧を推し、自分は準開山となる。嘉元元年(1303)寂。諡号は真応禅師。
 第3代将軍足利義満により京師十刹の一に列するなど、願成寺の寺運は隆盛したが、中世の兵火よって荒廃する。現在の地に移ったのは寛延年間(1748~51)と伝わる。現在は東福寺塔頭の大慈庵と合併し、寺宝に重要文化財に指定されている絹本著色「仏通禅師像」一幅と遺偈を有する。

■22 正覚庵

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東福寺 正覚庵 2008年12月22日撮影

 正応3年(1290)東福寺第5世山叟慧雲の開創した山内塔頭。奥州の伊達政依は、師の道風を慕い開山に招請している。山叟慧雲は安貞元年(1227)武蔵国飯沢に生まれている。正嘉2年(1258)宋に渡り、帰国後に東福寺の円爾弁円の法を嗣ぐ。博多の承天寺などを経て、永仁3年(1295)東福寺住持となる。正安3年(1301)寂。75歳。俗姓は丹治、諡号は仏智禅師。
 現在の地より西南、字正覚にあったため、これに因んで寺名としている。現在でも伏見街道本町21丁目の西側に深草正覚町の名が残る。
 また文化年間(1804~18)境内に筆塚が築かれ、毎年11月24日に筆供養を行なうことから「筆の寺」とも称する。

■23 光明院

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東福寺 光明院 2008年12月22日撮影
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東福寺 光明院 波心庭 2008年12月22日撮影

 明徳2年(1391)金山明昶の開創による塔頭。金山明昶は大道一以の法を嗣ぐ。明より帰朝後、播磨の円応寺、淡路の安国寺、駿河の清見寺、但馬の宗鏡寺を創建する。諡号は明祖禅師。
 方丈庭園は洲浜型の枯池に三尊石を巧みに配し、背後の高低差を利用してサツキやツツジの刈込を設けている。昭和14年(1939)重森三玲作庭よる枯山水庭園で「波心の庭」と称する。

■24 永明院

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東福寺 永明院 2008年12月22日撮影

 弘安2年(1279)東福寺第6世蔵山順空の開創による塔頭。蔵山順空は天福元年(1233)九州に向かう船中で生まれている。幼くして肥前水上山の神子栄尊に随侍。後に栄尊の紹介により円爾弁円の弟子となる。弘長2年(1262)北条時頼の勧めにより入宋する。帰朝後、肥前に戻り高城寺を開創する。正安2年(1300)東福寺第6世住持となり、徳治2年(1307)永明庵を興して退居する。統括的な禅・密の兼修を行った円爾の門下において、宋朝風の純粋禅を挙揚したことで知られる。延慶元年(1308)寂。諡号は円鑑禅師、別に無量房とも号する。聖一派下の永明門派の祖。この門派からは,画人吉山明兆が出ている。

 冷泉家ゆかりの浄如禅尼は、藤原俊成の菩提所として、九条家の月見殿を堂宇に、付近の山林十三町を寄進している。往時は寺域広大にして眺望も良く、花見時には多くの文人墨客の杖の引くところであった。残念ながら現在は昔日の盛観を失っている。
 なお寺宝に重要文化財に指定されている絹本著色「円鑑禅師像」明兆筆一幅及び「大道一以墨蹟」四巻を有する。

■25 南明院

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東福寺 南明院 2008年12月22日撮影

 応永21年(1414)第4代将軍足利義持が東福寺第111世業仲明紹のため、永明院の寺域を割いて建立し、その菩提院とする。なお画僧明兆は南明院の第2世住持である。
 江戸時代には徳川家康の室駿河御前の菩提寺となり、幕府の庇護受けて寺運は隆盛する。駿河御前とは、豊臣秀吉の異父妹とされている朝日姫のことで、尾張国の農夫のもとに嫁ぐが、秀吉の出世とともに夫が武士に取り立てられたとされている。天正14年(1586)秀吉が家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の継室として嫁がされている。その後、天正16年(1588)に母大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第に住む。晩年は病気がちで、天正18年(1590)母に先立って死去している。法名は南明院殿。墓地には駿河御前の墓があり、本堂には徳川氏歴代の位牌を安置する。
 明治維新後は衰微したが、今は本堂庫裏が再建されている。南明院は現存する東福寺の塔頭の中で最も南に位置する。この南明院から一谷越えた50メートル南の南明院山とよばれる丘の上に西向きの藤原俊成の墓がある。業仲明紹の墓を中央に、左側の大小2基の五輪石塔の大きい方が俊成の墓、小さい方が浄如禅尼の墓と伝えられている。またその右側にある自然石は吉山明兆の墓とされている。

■26 特別由緒寺院 最勝金剛院

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東福寺 最勝金剛院 2008年12月22日撮影

 最勝金剛院は久安6年(1150)摂政藤原忠通の室宗子が法性寺の東方に建立した法性寺中最大の寺院で、「東は山科境、南は稲荷の還坂の南谷、西は鴨河原、北は貞信公の墓所山」という広大な寺域を占めていたといわれる。
 法性寺は鎌倉初期には衰退しており、東福寺は嘉禎2年(1235)より建長7年(1255)にかけて摂政九条道家が、その法性寺跡地に創建したもの。その後の最勝金剛院は東福寺に吸収され、その塔頭となったが、室町期には消滅する。現在の最勝金剛院は、摂家九条家一族の墓の管理と法性寺復興を願い、昭和46年(1971)に旧地付近の現在の地に再興され、改めて東福寺の特別由緒寺院となったもの。中央の朱塗りの八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代11人の墓がある。東福寺境内で唯一、一般墓地も含めて墓の見られる場所。

「東福寺 塔頭 その5」 の地図





東福寺 塔頭 その5 のMarker List

No.名称緯度経度
18  東福寺 東光寺 34.9756135.7725
19  東福寺 桂昌院 34.9755135.7722
20  東福寺 荘厳院 34.9757135.7714
21  東福寺 願成寺 34.9751135.7725
22  東福寺 正覚庵 34.9749135.7736
23  東福寺 光明院 34.974135.7736
24  東福寺 永明院 34.9734135.7735
25  東福寺 南明院 34.9728135.774
26  東福寺 最勝金剛院 34.976135.7763

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