天龍寺 その3
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その3 2009年11月29日訪問
亀山殿最後の継承者である恒明親王は、大覚寺統の亀山上皇の末子として嘉元元年(1303)に生まれている。嘉元3年(1305)の上皇崩御に伴い、如来寿量院を相続したことが「亀山院御処分状」に記されている。亀山殿と浄金剛院は、恒明親王の母である昭訓門院(西園寺実兼女)に、薬草院は兄の後宇多院に渡っている。翌年の嘉元4年(1306)に亀山院の周忌が行われた際に、後宇多院によって薬草院と如来寿量院の両堂が壊され、その資材を以って灌頂堂が建立されている。また亀山殿を継いだ昭訓門院も延元元年(1336)に亡くなっていることから、最終的には恒明親王が亀山殿を相続していたと考えられている。
暦応2年(1339)8月16日の後醍醐天皇崩御を契機にして、亀山殿を寺院に改める旨の院宣が持明院統の光厳院から出されていることから、ここに於いて恒明親王の相続権は失われたこととなる。また下記のような記述が天龍寺文書に残されている。
亀山殿事、為被資 後醍醐院御菩提、以仙居改仏閣、
早為開山、被致管領、殊令専仏法之弘通、
可奉祈先院之証果者、院宣如此、仍執達如件、
暦応二年十月五日 按察使 経顕奉
謹上 夢窓国師方丈
このようにして亀山殿は後醍醐天皇の菩提を弔うための寺院へと改装されていく。暦応3年(1340)4月より仏殿、僧堂、庫裏、法堂そして山門の建立が始まる。当初の寺名は年号と後醍醐天皇の菩提を資薦する意味より、暦応資聖禅寺とされてきた。しかし尊氏の弟の足利直義が大堰川に金龍が現れる夢を見たことから、天龍資聖禅寺に改められたといわれている。
暦応4年(1341)12月には元に天龍寺船が派遣され、翌康永元年(1342)12月には上棟を迎えている。そして康永3年(1344)正月に霊庇廟が創建される。文和3年(1354)に建立された塔の碑文である「夢窓国師塔銘」によれば、
(康永)三年正月初二日夜。夢 八幡大菩薩來衛法亀山。
乃建祠于寺左
と疎石による創建の動機が記されている。また「夢窓国師碑銘」にも
(康永)三年。建八幡菩薩霊廟於寺側
と記述されている。つまり疎石の初夢に八幡大菩薩が現れ、建設中の法亀山すなわち天龍寺を守ると託宣した。そこで寺の左(南側)に祠を建てたということになる。疎石の弟子である春屋妙葩が編纂した「天龍開山夢窓正覚心宗普済国師年譜」にも、康永3年(1344)の事跡として、疎石のみた夢の内容と廟名の由来を次のように記している。
春正月剏建霊庇廟。始師夢見新廟壮麗在亀山旧舊趾。
傍有一人非常者作禮而云。謝和尚與吾起 此新廟也。
覚而謂神求。故乃經始新廟。
且以佛光祖翁來化本國亦頼茲神霊乃庇故。以霊庇為号焉
疎石が夢で見たものは、亀山殿の旧跡にあらわれた壮麗な新しい廟であった。そして傍らに一人の尋常ならざる者が立ち、「わがためにこの新廟を起こしたことを感謝する」と礼をして云われる。夢から覚めて、このことは神の求めと国師は思い、仏光国師が来朝して我国を教化したことも「神霊の庇」を頼むもので、これにちなんで霊庇をもって号としたと妙葩は記す。
仏光国師は鎌倉の円覚寺の開祖である無学祖元である。弘安2年(1279)執権北条時宗の招請により、南宋から渡来する。「元亨釈書」によれば、来朝前に鴿(鳩=八幡神の神使)が膝上に飛来するなど奇瑞があった。そして来朝すると八幡神が祀られており参詣したといい、これら神異譚が、八幡神の神縁、すなわち霊庇を示している。
天龍寺の造営には暦応3年(1340)から康永3年(1344)までの、およそ5年の日数を費やしている。そして康永4年(1345)8月29日、後醍醐天皇の七回御聖忌に落慶法要が営まれる。この日、光厳上皇と光明上皇も臨幸されることとなっていたが、叡山僧徒による嗷訴により当日の臨幸は取り止めになった。改めて翌日に両院の臨幸があり、覚皇殿の慶讃が行われている。
霊庇廟は神を祀る鎮守社である。現在の感覚からすると禅宗寺院に社があることは奇異に映るが、東福寺の成就宮、南禅寺の綾戸廟、建仁寺の楽神廟、相国寺の護国廟、そして妙心寺の斎宮社などがあることから、明治時代の神仏分離以前は一般的なものであった。既に何度か取り上げているが、天龍寺所蔵の貞和3年(1347)に作成された山城国臨川寺領大井郷界畔絵図には霊庇廟が天龍寺の伽藍の南側に描かれている。この絵図に描かれた大堰川に架かる橋は現在の渡月橋より西にあった橋と考えられる。この橋の北側の延長線上には天龍寺へとつながる門があった。この天龍寺の門は、亀山殿当時の主要幹線であった惣門前路上にあったと思われる。亀山殿の跡地に建設された霊庇廟は、旧惣門前路の西に位置し東面していたように見える。また旧惣門前路の突当りに設けられた門の傍らには神主家と記されていること。また東面する明神鳥居の両脇には柵(玉垣)が巡らされ、神域が形成されていたことが分かる。
財団法人京都市埋蔵文化財研究所が2004年7月より行なった調査(「史跡・名勝嵐山」 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)で、亀山殿桟敷殿跡に建てられたと推定される霊庇廟の鳥居の右柱(社殿に向かって左側の柱)と、これに連結する南北方向の柵の穴6ヶ所を検出している。柵の間隔は平均1.5mであることから、鳥居から大堰川方向に9mの玉垣が設けられていたことが分かる。鳥居間を5mとし北側にも同じ玉垣があったとすると神域の間口はおよそ23mとなる。上記報告書内に掲載されている嵯峨井建氏の論文によると500m2を越える寺院鎮守社で多く見られる小社ではなく、独立した中規模の神社であったと推測している。そして宗祖創建に関わる神社、すなわち摂社以上であったと考えている。この他にも調査より下記のことが分かる。
1 亀山殿桟敷殿の廃棄年代は、出土遺物から13世紀末~14世紀初頭と考えられる。
2 検出した地業は大規模なもので、何れかに基壇を伴う建物があったと考えられる。
3 しかし出土遺物からは建物を検出し得なかったため、後世に削平された後に整備・整地されものと考えられる。
4 霊庇廟造営は天龍寺造営と一体であり、整地を伴う霊庇廟造営は、天龍寺造営時に行われた整備とほぼ同時期に行われたと考えられる。
5 鳥居右柱から南に続く柵穴は、調査域外まで続くと考えられる。鳥居と柵は、ほぼ南北軸上に載っていることから、亀山殿の遺構ではなく天龍寺の伽藍に方位を合わせたと考えられる。
重要文化財に指定されている「応永鈞命図(絵本著色 240×272センチメートル)」を見ると創建当初の天龍寺の規模が、いかに広大なものであったかが分かる。その有様は塔頭子院百五十カ寺とも表現されていた。
応永鈞命図の添状には以下のように記されていることから応永33年(1426)9月に第4代将軍足利義持の命によって臨川寺の住持月渓中珊が作成したものとされている。
此絵図嵯峨中御院也奉鈞命写焉、
応永丙午9月日、臨川住持比丘中珊
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