天龍寺 その4
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その4 2009年11月29日訪問
夢窓疎石が定めた天龍寺十境は下記のとおりである。
普明閣
広大慈光照世間 善財当面隔重関
眼皮横蓋虚空界 弾指開門匹似間
絶唱谿
灘声激出広長舌 莫謂深談在口辺
日夜流転八万偈 灼然一字未嘗宣
霊庇廟
精藍分地建霊宮 専冀神風助祖風
莫怪庭前松屈曲 天真正直在其中
曹源池
曹源不涸直臻今 一滴流通広且深
曲岸回塘休著眼 夜闌有月落波心
拈華嶺
霊山拈起一枝蕚 分作千株在此峰
只見聨芳至今日 不如劫外幾春風
渡月橋
虹勢截流横両岸 一条活路透清波
渡驢渡馬未為足 玉兎三更推轂過
三級巌
分危布険作三重 水激雲遮路不通
無限金鱗遭点額 誰知偏界起腥風
万松洞
万株松下一乾坤 翠靄氛氳鎖洞門
仙境由来属仙客 莫言此地匪桃源
龍門亭
不借巨霊分破手 両山放出一洪川
三更夜半無来客 数片帰雲宿檻前
亀頂塔
樹生胎上緑毛長 頂戴浮図万劫祥
戸牖恢開不蔵六 重々法界目前彰
普明閣は三門の雅称で現在の勅使門の中、鳳凰池の奥に建つ楼閣であった。絶唱谿は大堰川の清流で、渓水湛えて藍の如く静寂な景色を示す。霊庇廟は夢窓疎石おN霊夢に現れた鎮守八幡宮。曹源池は疎石によって作庭された方丈の林泉。拈華嶺とは現在の嵐山であり、後醍醐天皇追福の道場として建立した天龍寺の境内嵐山に、吉野より蔵王権現と桜を移して霊を弔っている。渡月橋は現在より西側に架けられた橋で、朱塗欄干の美しい反橋であった。三級巌は嵐山の音無瀬の滝。後宇多上皇は
あらし山これも芳野やうつすらん 桜にかかる瀧のしら糸
と詠んでいる。万松洞は現在の総門前より渡月橋に至る間に、老松の松並木が洞門のように鬱蒼と生え繁っていた様を示している。現在では2、3本を残すのみとなっている。龍門亭は亀の尾山の麓、大堰川に接し嵐山を望むように建てられた茶亭。貞和2年(1346)春、光厳上皇臨幸の際、多宝院聖廟御参拝の後、疎石の先導により、この亭で点茶を喫し、桜花を賞覧されている。なお、2000年に開山夢窓国師650年遠諱記念事業として曹源池の南側に龍門亭が再現されている。亀頂塔は亀山の頂にあった九重塔。遥かに嵯峨野を隔て京都市内を望む眺望絶景の地でもあった。現在の嵐山公園亀山地区から大河内山荘のあたりであろう。
霊庇廟は夢窓疎石の天龍寺十境にも詠みこまれているように、天龍寺にとっても重要な施設であったことは間違いない。しかし、行幸・御幸・将軍の社参など公的参拝を受けるような社ではなかったようだ。「園太暦」貞和3年2月30日条によれば、光厳上皇が天龍寺に御幸された際、真新しい山門に下御、仏殿での焼香、法塔から客殿と巡拝し、疎石は東堂塔頭に伺候し迎えた。さらには山門上にも昇られ観音殿を参拝され、この間大井川東岸に設けられた「店」に幸される。上記の山門とは普明閣であり「店」は龍門亭のことではないかと思われる。この「店」は大堰川の対岸の嵐山がみえるところに作られたことから、恐らく霊庇廟からほど近い場所であったと考えられる。それにも関わらず霊庇廟への参拝の記述はない。疎石による創建の宗教的意義に関わる礼拝施設でありながら、対外的には現れない、寺内の補完的位置にとどまるものであったと先の嵯峨井建氏は推測している。
延文3年(1358)正月の大火により、天龍寺は全焼するが、雲居塔・後醍醐天皇を祀った多宝院・亀頂塔・霊庇廟のみ焼失を免れる。この年の4月30日に足利尊氏が亡くなっている。現在、八幡宮は塔頭の松巌寺の西側に建てられている。元治元年(1864)の禁門の変による全山炎上、そして明治10年(1877)太政官布告により社寺境内の上地など、天龍寺にとって再建の時期にあたる明治8年(1875)に現在地、すなわち旧雲居池辺に移されている。さらに昭和12年(1937)青峨老師の発願により増築改修されている。
夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟に、天龍寺の開創と共に後醍醐天皇と元弘以来の戦死者の霊を弔い平和を祈願するために国毎に一寺一塔の建立を勧めている。暦応元年(1338)に和泉の久米田寺を始めとし、貞和年間(1345~50)までの約10年間で66カ国2島(壱岐と対馬)に一寺一塔を設けている。各塔婆には朝廷から賜った仏舎利2粒が納められている。貞和元年(1345)光厳上皇の院宣によって安国寺利生塔と名付けられる。安国寺と利生塔は新しく造営されたものもあるが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もある。また利生塔は、真言・天台など旧仏教の大寺に設ける方針であったが、山城(法観寺)、相模(東光寺 廃寺)、駿河(淸見寺)などでは五山派の禅寺に設けられている。安国寺の創設は、禅宗の地方への波及、また、利生塔による禅宗以外の宗派の統制など、文化的、そして政治的意義が大きかったとされている。そのため室町幕府の没落と共に、安国寺と利生塔も衰退していった。
また天龍寺造営の大事業が始まっても、夢窓疎石は請われるままに寺院の開創や復興を手がけている。阿波の細川和氏の招請に応じて補陀寺を開き、真如寺の中興開山を高師直より請じられている。しかし康永4年(1345)8月29日、後醍醐天皇の七回御聖忌に落慶法要が営まれた翌年には、席を上足の無極志玄に譲り、雲居庵に隠退している。四条畷の戦いの後、西大寺の長老と計り、南北両朝の和議を一時的ではあるものの成立させ、尊氏・直義兄弟の不和の調停を行なっている。しかし観応2年(1351)病となり、勧められる医薬や滋養も採らないようになる。国師の死期近い事を知った人々は集って、垂示、受戒、法名を請うた。その数2500人とされている。
観応2年(1351)9月29日、辞世の偈を記し、
転身一路 横該竪抹
畢竟如何 彭八刺札
と書き終わり、翌30日示寂した。享年76。
夢窓疎石は七朝の国師として尊敬されている。すなわち夢窓(後醍醐)、正覚(光明院)、心宗(光厳院)の国師号が生前中に下賜されている。寂後も、普済(後光厳院)、玄猶(後円融院)、仏統(後花園)、大円(後土御門)と加賜されている。また門下嗣法の弟子には、無極志玄(天龍寺2世)、龍湫周沢(天龍寺15世)、春屋妙葩(相国寺創建 天下僧録司)、義堂周信、絶海中津ら52人。児孫の中より国師号を拝受するもの5人、禅師号19人の多きに達している。
夢窓の十境についての漢詩と辞世の句、出典を教えていただけないでしょうか。
drompa様
確か「古寺巡礼 京都 4 天龍寺」(淡交社 1976年刊)の「天龍寺の歴史と禅」関牧翁著を参照させていただきました。古寺巡礼は新版も出ていますが、使用したのは古いほうです。