大徳寺 芳春院
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん) 2009年11月29日訪問
総見院を出て東隣りに並ぶ聚光院の前を過ぎると、目の前に大徳寺の庫裏と法堂が現れる。ここで左に曲がると大仙院と真珠庵へ続く道となっているが、今回は大仙院の方丈屋根が見えたところで曲がらずに、そのまま北に進む。ほどなくして芳春院の山門が現れる。芳春院は大徳寺の境内で最も北に位置する塔頭で、通常は非公開であるが、今回は秋の特別公開を利用して拝観する。
慶長13年(1608)加賀百万石の祖・前田利家の夫人まつが玉室宗珀を開祖として建立した塔頭。松子の法号・芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼から芳春院と名付けられ前田家の菩提寺となっている。
開山の玉室宗珀は元亀3年(1572)京に生まれている。俗姓は園部氏で父は常林、母は妙栄であった。また大徳寺第111世の春屋宗園とは俗縁とされている。玉室は西加茂の正伝寺の龍珠軒に訪ねている。その後、春屋の大徳寺帰山に従い、剃髪受具し遂に印加される。これは慶長3年(1598)の三玄院開山の時のことであったかもしれない。そして慶長12年(1607)2月19日に出世し第147世となるが、住山3日にして退く。そして上記の通り慶長13年(1608)芳春院を開山し、大源庵を開創する。慶長16年(1601)春屋宗園の示寂に伴い、三玄院を任される。 元和元年(1615)金地院の以心崇伝から第129世で大慈院の開祖である天叔宗眼、第137世で金龍院の開祖である松嶽紹長とともに二条城に呼び出され、元和の大徳寺諸法度に関わることとなる。これは五山十刹諸山法度、永平寺諸法度、總持寺諸法度、妙心寺諸法度と同時に発令されていることより、幕府は禅宗を曹洞宗(永平寺・總持寺)、五山そして大徳寺と妙心寺の両寺に分類して統治管理する意図が伺える。特に五山に比べ大徳寺と妙心寺に対して出世する資格を厳しく定めている。師について30年の修行を行い、公案は1700則を透過し、諸師に暦参した者が長老の推挙得て初めて開堂入院が許可されるという内容だった。これは両寺が朝廷の官寺として幕府の支配を受けず、伝奏を直接経て入寺を許可されていたためである。すなわち鈞命に依らず瑞世の儀を行い、修行未熟の者でも、みだりに出世し紫衣を賜っていると幕府は見做していた。しかし両寺にとって、上記の資格を厳格に守ると法脈の相続ができなくなる可能性を秘めていた。そのため法度が発令されても従いはしなかった。寛永4年(1627)4月12日に玉室の法嗣の正隠宗知が奉勅入寺し大徳寺第172世となる。その3ヵ月後に幕府は諸宗法度を出し、法度を厳守させる姿勢を示している。
寛永5年(1628)大徳寺諸法度五ヶ条の各条目についての問題点を指摘するため第153世澤庵宗彭が執筆し、第156世江月宗玩と玉室宗珀が連署した抗弁書が京都所司代に提出された。翌寛永6年(1629)3人は江戸に召喚される。幕府は藤堂高虎、以心崇伝、天海僧正らが参席した評議で、厳罰を主張する以心崇伝に従った裁断が、寛永6年(1629)7月25日に下される。すなわち紫衣事件により、澤庵は羽州上山藩(山形県上山市)、玉室は奥州棚倉藩(福島県棚倉町)、妙心寺の単伝士印は出羽本荘藩(秋田県由利本荘市)、東源慧等は奥州弘前藩(青森県弘前市)への流罪が決まる。江月宗玩は寛永6年(1629)8月5日に幕府年寄酒井忠世の屋敷に召し出され、紫衣一件に関する責任を宥免する旨が伝えられている。罰は問われなかった江月であったが、世人の風当たりは相当に厳しかったようだ。江月の墨蹟は破り捨てられ、市中に江月を誹謗する落書が晒されたとされている。
紫衣事件の赦免は寛永9年(1632)正月に逝去した大御所秀忠の大赦によるもので、同年7月17日に行なわれている。
加賀前田家の外護を得る芳春院は、元和元年(1615)の大徳寺所領目録によると、80石の高を持ち、玉室宗珀が住持していたことが分かる。元和3年(1617)の春に、玉室は横井等怡などの支援によって芳春院の北隅に呑湖閣を設け、春屋宗園の像を安置し昭堂としている。呑湖閣の前には飽雲池が造られ、打月橋と名付けられた橋廊が架けられている。池の周囲には奇岩が配され珍しい木々が植えられている。また池には後水尾天皇が下賜した一つがいの鵞鳥が放されていたされている。
後水尾天皇が芳春院に鵞鳥を下賜した事実を確認することはできないが、芳春院が加賀前田家と朝廷文化を結びつける場となっていったことは確かである。慶長6年(1601)後に第2代藩主となる前田利常は、徳川秀忠と継室江の次女である珠姫を正室に迎えている。珠姫はまだ3歳であり、徳川幕府と外様有力大名との間の政略結婚であった。珠姫は、後に京極忠高正室となる初姫や後水尾天皇の中宮東福門院和子の血のつながった姉にあたる。そして慶長19年(1614)徳川和子の入内宣旨が出される。この先に、大坂の陣、大御所家康の死去、後陽成院の崩御、そしておよつ御寮人事件が発生し、入内はどんどん遅れて行くが、元和6年(1620)後水尾天皇の女御として和子は入内している。
珠姫も前田利常との間には、慶長18年(1613)に長女の亀鶴姫(後に森忠広室)を始めとして、長男光高(第3代藩主)、次女小媛、次男利次(越中富山藩初代藩主)、三男利治(加賀大聖寺藩初代藩主)、三女満姫(後に浅野光晟室)、四女富姫を元和7年(1621)に出産している。非常に仲の良い夫婦であったが、元和8年(1622)に五女の夏姫を出産後に体調を崩し病没している。享年24。
四女の富姫は、寛永19年(1642)八条宮智忠親王の正室となる。このことは前田家と公家との結びつきを強くし、多くの公家、武家そして茶人が芳春院に集うこととなった。とりわけ後水尾上皇や片桐石州は、その中でも中心的な人物となり、寛永文化の発信源のひとつとなった。
創建時の建物は寛政8年(1796)に焼失している。この年の2月に芳春院13世として住した宙宝宗宇が初任の挨拶に加賀金沢に赴いている留守中に火災にあったとされている。そのため現在に残る建物は寛政9年(1797)から翌年にかけて加賀藩13代藩主前田治脩により再建されたものである。
なお墓地に所在する御霊屋は創建当初の遺構であり、北堂は慶長19年(1614)没の前田利長、南堂は元和3年(1617)に没した利家夫人を祀るもので、石造五輪塔を堂内に安置している。その没年順に建立されたと思われる。本堂南庭の西に中門が見えるが、これが墓所への入口(墓参門)になっているようだ。
北堂は東を正面とし、桧皮葺入母屋造の屋根の正面軒庇を唐破風に造った一間四方の小堂である。龍光院霊屋とは異なり四周に勾欄をつけた外縁を巡らしている。堂内は板敷高床にし、堂内外の柱、長押、頭貫、台輪、斗栱に文様彩色を施している。さらに堂内板壁には極彩色の四仏、天女の群像を描き、そして斗栱間の小壁や正面桟唐戸に透彫欄間を嵌め込むなど、絵画・彫刻的装飾を隙間なく施している。天瑞寺寿塔は横浜の三溪園で見ることができるが、規模の上では劣るものの、その装飾性と豪華さにおいては芳春院の霊屋が勝っているということができる。
呑湖閣も寛政時の再建において焼失したものの、その規模は踏襲したようで、二層の楼閣風建築である。初層は方三間四半瓦敷の礼堂と、開山尊像を安置し位牌壇を備えた祠堂を組み合わせている。礼堂の真上に方一間銅板葺宝形造屋根の上層を置いている。先にも触れてように本堂と呑湖閣の間に池には亭橋が架けられている。
川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、呑湖閣の建設が創建当初に行なわれたか分からないとしながらも、龍光院の昭堂が開山である江月宗玩の示寂後の翌年正月すなわち寛永21年(1644)に完成していることから、呑湖閣の造立も寛永18年(1641)の玉室宗珀の示寂以降と考えている。
「大徳寺 芳春院」 の地図
大徳寺 芳春院 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大徳寺 芳春院 山門 | 35.0443 | 135.7455 |
02 | ▼ 大徳寺 芳春院 中門 | 35.0449 | 135.7454 |
03 | ▼ 大徳寺 芳春院 庫裏 | 35.0451 | 135.7453 |
04 | ▼ 大徳寺 芳春院 玄関 | 35.0449 | 135.7452 |
05 | ▼ 大徳寺 芳春院 方丈 | 35.0451 | 135.7451 |
06 | ▼ 大徳寺 芳春院 呑湖閣 | 35.0452 | 135.7448 |
07 | ▼ 大徳寺 芳春院 書院 | 35.0452 | 135.7451 |
08 | ▼ 大徳寺 芳春院 迷雲亭 | 35.0453 | 135.7452 |
09 | ▼ 大徳寺 芳春院 如是庵 | 35.0452 | 135.7453 |
10 | ▼ 大徳寺 芳春院 花岸庭 | 35.0449 | 135.7451 |
11 | ▼ 大徳寺 芳春院 墓参門 | 35.0449 | 135.7449 |
12 | 大徳寺 芳春院 霊屋 | 35.0451 | 135.7444 |
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