旧京都中央電話局上分局
旧京都中央電話局上分局(きゅうきょうとでんわきょくかみぶんきょく) 2009年12月10日訪問
行願寺の山門を出て、下御霊神社そして横井小楠殉節地の碑の前を通り、再び丸太町通に戻る。鴨川に架かる丸太町橋を目指し東に進む。河原町通、土手町通を越えると右手に吉田鉄郎設計の旧京都中央電話局上分局が現れる。
建築家吉田鉄郎は、明治27年(1894)富山県東砺波郡福野町の郵便局長を務める五島寛平の3男として生まれる。金沢の旧制四高を経て東京帝国大学建築学科を大正8年(1919)に卒業する。逓信省営繕課に入った鉄郎は、同年吉田芳枝と結婚し以後吉田姓となる。
逓信省は明治18年(1885)の内閣創設に際して発足した省で、農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継している。駅逓とは、もともと宿場から宿場へ荷物を送り届けることであり、郵便と同義でもある。因みに逓信省の名の由来は、この駅逓の逓と電信の信をあわせたものである。明治24年(1891)電気事業の監督行政を所管し、翌25年(1892)には内務省から鉄道行政を移管されている。その後、明治41年(1908)には鉄道行政を鉄道院に移しているが、大正12年(1923)陸軍省から航空行政を移管されている。そして戦時中の海陸輸送体制強化を図るため、昭和18年(1943)には逓信省と鉄道省が統合され運輸通信省が誕生している。郵便・貯金・保険・電信・電話の事業は運輸通信省の外局である通信院が所管し、海務院の海事行政は運輸通信省海運総局が所管、航空行政は運輸通信省航空局が所管する。そして電気行政は軍需省に移管している。このように戦時中肥大化した運輸通信省も戦後すぐに解体のメスが入れられる。昭和21年(1946)逓信院が廃止され逓信省が再設置される。戦前とは異なり海運・航空・電気は所管せず、通信事業のみの官庁となる。さらに昭和24年(1949)逓信省が廃止し、郵電分離により郵政省と電気通信省が新設されている。
郵政省は平成13年(2001)の中央省庁再編で郵政省が総務省郵政企画管理局と郵政事業庁に再編される。2年間存続した後、平成15年(2003)日本郵政公社となり、郵政事業庁は廃止されている。そして郵政民営化に伴い平成19年(2007)郵政三事業を含む全ての業務が日本郵政グループすなわちJP日本郵政として日本郵政株式会社及びその下に発足する4つの事業会社へ移管分割される。
一方、電気通信省も昭和27年(1952)には廃止され日本電信電話公社に移行している。こちらも昭和60年(1985)に民営化され日本電信電話となっている。さらにNTT東日本やNTTドコモなどに再編されたのが平成11年(1999)のことである。
逓信建築を調べる上で向井覚編著による「逓信建築年表 1885~1949」(東海大学出版会 2008年刊)は無くてはならない資料である。しかしどういう訳か古書市場に現れることもなく、区立や市立図書館にも収蔵されていないようだ。今回は広尾の東京都立中央図書館で閲覧することができたので、この書籍を中心に逓信建築の系譜について記してみる。
上記のように明治18年(1885)に逓信省が発足したが、最初期の逓信省の施設設計は工務部営繕局によって行われていた。しかし明治19年(1886)に逓信省職制が定められ、会計局用度課が設置されてからは自らの手で設計できるようになる。いわゆる逓信建設の始まりである。明治初期はお雇い外国人によって設計されたものが多かったが、中期にもなると工部大学が日本人建築家を輩出するようになり、日本人による設計が一般化する。逓信建築の初期は、そのような過渡期にも重なっている。工部大学第1回卒の辰野金吾、片山東熊、曽根達蔵たちと同期であった佐立七次郎が工部省、海軍省、藤田組を経て、明治20年(1887)に逓信省に入省している。佐立の在籍期間は5年間で、その中の1年3ヶ月は郵便及び電信局舎建築の研究のために欧米へ視察している。帰国後、名古屋郵便電信局、横浜郵便電信局、大阪郵便電信局をルネサンス様式で設計している。なお東京郵便電信局も佐立が設計する予定であったが海外視察に重なったため、片山東熊が引き継いでいる。
佐立の後を継いだのは工部大学第5回卒の吉井茂則である。吉井は明治25年(1892)逓信技師となり、明治30年(1897)初代課長に就任、大正2年(1913)まで21年間、逓信建築を主導し、その基礎を創り上げた人物でもある。吉井の代表作は明治43年(1910)3月に竣工した逓信本庁舎であった。新橋停車場に相対する敷地に建つ煉瓦造3階建、中央に120尺の塔を持つ本格的ルネサンス様式の庁舎であった。関東大震災で被災し、最後は工兵隊によって爆破処理された建物でもある。
明治29年(1896)の野口孫市と明治31年(1898)の三橋四郎が吉井の後を継いでいる。帝国大学卒業後、文部省を経て逓信省に入省した野口は、三番町交換局や明治村に移築された札幌電話交換局を手掛けている。三橋四郎は「和洋改良 大建築学 全4巻」の著者として早くから建築学を大系づけ、鉄網コンクリートの開発者として知られているが、京都郵便電信局、現在の中京郵便局を明治35年(1902)に手掛けている。このように明治中期から後期にかけての逓信建築はルネサンス様式を中心とした歴史主義建築として完成度の高い建築を産みだすことが出来る組織になっていた。これらは欧米における歴史主義建築の習得を終えたことは、次の時代のための準備期間でもあった。
大正2年(1913)経理局営繕課が廃止され、経理課営繕係となったが、大正5年(1916)の第3次電話拡張計画によって電話局を中心とする建築業務が拡大する。そのため大正8年(1919)経理局営繕課が復活する。この時課長に就任したのが明治34年(1901)に入省した内田四郎であった。内田の代表作は明治43年(1910)に竣工した東京中央電話局京橋分局で、中央に大塔、周囲に小塔を配したゴシック風の意匠で纏められている。煉瓦造であるにもかかわらず、外壁に白色テラコッタを用いたことから赤レンガとは異なった新鮮な印象を与える建築となった。残念ながら関東大震災で倒壊している。また内田は明治44年(1911)に逓信建築として最初の鉄筋コンクリート造の建築を電気試験所として木挽町の本庁舎構内に建てている。新しい技術や材料へも積極的に挑戦する進取の気質に溢れた設計組織となっていた。内田の下には和田信夫、武富英一、渡辺仁、大島三郎などが集まっていた。渡辺仁は大正7年(1918)の聖徳記念絵画館の設計競技に2案を応募し、2等と3等に入っている。渡辺は歴史主義に留まるだけではなくゼセッションやアールデコなど新しいデザイン潮流を自らの設計に取り入れている。独立後の銀座の服部時計店が代表作である。
また渡辺仁の担当した高輪電話局(大正7年)と日本橋電話局(大正8年)、さらに武富英一による東京中央電話局小石川分局(大正6年)や名古屋東分局(大正6年)には様式的な細部装飾を簡略化する傾向が見られるなどゼセッションの影響が現れている。組織設計の中で新しいデザイン手法を積極的に取り入れる逓信省営繕課は、当時の建築学科生にとっても憧憬の的であり、就職したい設計組織の筆頭でもあった。
この様な自由な雰囲気を持つ逓信省営繕課に、大正6年(1917)大島三郎、同7年(1918)岩元禄、同8年(1919)吉田鉄郎そして同9年(1920)山田守が入省し、逓信建築の黄金時代が始まる。大島三郎は構造と設備で手腕を発揮し、昭和11年(1936)和田信夫を継いで営繕課長に就任している。岩元禄は入省してすぐに東京中央電話局青山分局(大正9年)と京都中央電話局西陣分局(大正10年)の名建築を手掛け、逓信建築を歴史主義建築からモダニズム建築に導く契機を作った。岩元の作品は単に様式の新しさだけを追求したものではなく。建築と芸術の融合を目指したものであった。残念ながら病のため大正10年(1921)に退官し、東京大学の助教授に迎えられたものの翌11年(1922)に29歳の短い生涯を閉じている。岩元禄が設計した作品は上記の2点と箱根観光旅館のみで、現存するものは2006年に重要文化財に登録された京都中央電話局西陣分局のみである。岩元禄は明治26年(1893)の生まれだから、明治24年(1891)生まれの村野藤吾より年少である。健康を害さなければ十分に戦後まで作品を作り続けることが可能であったはずである。それだけに岩元のその後の展開を見ることができないことは残念で仕方がない。
岩元禄がウィーン分離派の建築と芸術の融合を日本に取り入れたのに対して、やや後輩にあたる山田守は東京中央電信局(大正14年)において表現主義建築を日本に実現している。鉄筋コンクリート造5階建、一部6階地下1階、延床面積11,027m2の大建築は、現存しないものの連続する放物線アーチを持つ外観写真は有名である。山田は逓信省に席を置きながら、石本喜久治、滝沢真弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂と分離派建築会を大正9年(1920)に立ち上げている。朝日新聞社東京本社(昭和2年)や白木屋日本橋本店(昭和6年)などを手掛けていることからも、当時の若手建築家の中で早くから才能を開花させていたことは明らかである。なお当時の逓信省営繕課には製図工として山口文象も在籍していた。石本達の分離派建築会の活動に刺激を受けた山口は大正12年(1923)10月に創宇社建築会を結成している。
上記のように吉田鉄郎は山田守より1年早い大正8年(1919)の入省であったが、直ぐに胸を病み1年間の療養生活に入っている。そのため逓信省営繕課の業務についたのは大正10年(1921)3月からであった。既に岩本禄は同年1月に東京大学の助教授となり逓信省を去っているので、向井覚の「建築家吉田鉄郎とその周辺」(相模書房 1981年刊)によると机を並べ設計することはなかったようだ。
吉田の最初期の作品は京都七条郵便局(大正11年)とこの京都中央電話局新上分局(大正13年)となる。この時期の吉田はハンブルグのフリッツ・シューマッヘルを始めとする北ドイツ建築の影響を強く受けていたようだ。前述の「建築家吉田鉄郎とその周辺」の中でも、山口文象が「机にドイツの参考書や雑誌をうずたかく積み上げ、それを見ながらハンブルグ派のシューマッヘルの亜流のようなデザインをしていたという。」語ったとしている。急勾配の屋根がかかり、弓形の屋根窓があるなどにシューマッヘルのロトセンハウスとの共通点が見られるようだ。そして新上分局では塔屋が強調されたデザインになっているが、これもロトセンハウスに見られる表現方法でもある。大正15年(1926)に竣工した京都中央電話局には、既に急勾配の屋根はなく陸屋根に変えられている。またゼセッション風のディテールも姿を消し、北欧風の雰囲気に変わっている。このあたりの変化は吉田の憧憬がハンブルグからエストベリのストックホルム市庁舎に移って行ったことを現わしている。京都中央電話局新上分局は平成元年(1989)よりレストランとして商業利用を開始し、平成16年(2004)からは挙式会場兼レストラン(カーニバルタイムズ)として使われてきた。平成22年(2010)より1階でスーパーのフレスコが営業している。京都中央電話局も平成13年(2001)に改装され商業施設・新風館として再生している。今回外観写真を探したがどうも今まで撮影していなかったことが分かった。なるべく早い時期に撮影しておかなければならないと強く感じている。
吉田鉄郎の最大の代表作となる東京中央郵便局は昭和6年(1931)に、そして大阪中央郵便局は昭和14年(1939)に竣工している。山田守による東京逓信病院(昭和12年)も含めてインターナショナルスタイルによる設計であり、再び逓信建築に歴史主義が戻ることはなかった。東京中央郵便局はファサード保存という形でJPタワー(2012年竣工)に建替えられ、エントランス廻りの一部を除き解体された大阪中央郵便局も平成31年(2019)には高層建築として生まれ変わることとなる。大変残念なことに、東京でも大阪でも竣工時点の吉田鉄郎の作品を見ることができなくなっている。村野藤吾、前川国男そして丹下健三より前の世代の初期国際建築様式を重要文化財に登録してこなかったツケがこのような再開発という形で廻ってきたことに他ならない。そういう意味でも、インターナショナルスタイルではないものの吉田鉄郎の作品として触れることが出来る数少ない建築が2つも京都に残ったことは嬉しい。
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