女紅場址 その2
女紅場址(にょこうばあと)その2 2009年12月10日訪問
丸太町橋の西南詰に建てられた女紅場について調べてみる。石碑の北面には、女紅場址の説明として「本邦高等女学校之濫觴」と記されている。そして西側に「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」とある。この女紅場は明治5年(1872)に九条家の別邸に建てられたもので、明治37年(1904)4月に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。そのため官立東京女学校として明治4年(1871)12月に設置された東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に次いで最も古い高等女学校の1つである。石碑の建つ地より西に93メートル南に90メートルとあるので、実際には土手町通に面した駒之町あたりに門があったのであろう。幕末千夜一夜の京都絵図に掲載されている「慶応四年戊辰二月再刻 書肆文叢堂竹原好兵衛版の改正京町御絵図細見大成」には九条殿御屋敷とある。さらに日文研に所蔵されている明治9年(1876)に作成された「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」には土手町通の東側に女紅場とある。ほぼ同時期の他の地図を調べると女学校という名称で記されていることが分かる。坂本清泉・坂本智恵子氏共著の論文「明治初期の女子教育と女紅場」にあるように、この女紅場は新英学校及女紅場として発足している。碓井小三郎著の「京都坊目誌」(「京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1969年刊行))では、府立第一高等女学校の説明として以下のように記している。
明治5年4月女子教育の必要を感じ。京都府之を創設す。之を新英学校女紅場と称し。同月14日開校の式を挙ぐ。本邦女学校の嚆矢なり。其創始の地は土手町丸太町下る駒之町。舊九條家別邸にして。敷地二千二百五十一坪余。棟数十七の舊建物を以て之に充て。華士族の子女七十八名を教育せり。
尋て一般生徒の入学を許し。百五十九名となる。同6月3日 明治天皇の臨幸あり。7年6月新英学校を改め英女学校とす。9年5月京都府女学校と称す同10年2月1日、天皇陛下再び臨幸し。9日皇后皇太后。両陛下の行啓あり。共に金円を賜ふ。11年9月教室。寮舎の増築を行ひ。13年2月女紅場を京都女紅場とす。15年6月学校と女紅場を合し女学校と為し。各種の教授をなす。20年1月更に高等女学校と改む。23年4月23日。皇后陛下三度の行啓あり。
碓井小三郎は明治31年(1898)に校地の移転を記している。この後のことは京都府立鴨沂高等学校の項で書くこととする。
女紅場址でも記したように、京都においては明治5年(1872)10月の学制布告に先立ち、明治2年(1869)には上京32、下京32、全市に64の小学校が既に開設されていた。しかし京都在住の華士族はその子弟を市中の小学校に通わせることには躊躇いがあったようだ。そのためか明治3年(1870)独逸学校、同4年(1871)に英学校と仏学校が開設されている。これらは明らかに時代の指導者を育成するための教育機関であり、先の華士族は子弟をこれらの外国語学校に通わせている。明治5年(1872)の各外国語学校の受験者数は独逸学校138名、英学校232名、仏学校76名であった。英学校の修学希望者が多かったことから、新たな英学校、すなわち新英学校が土手町に開設されることとなった。この新英学校に女紅場が付設されたため、新英学校及女紅場という名称になった。そして開設当初は男子生徒も修学できたようだが、明治7年(1873)には男子生徒を既設の英学校に移し、校名を英女学校及女紅場に改め、女子専門の教育機関となっている。ここで注目しておきたいことは、新英学校及女紅場の開設以前にも各外国語学校のような中等教育を行う場が既にあったこと。そして新英学校に女紅場を付設し、男女共学から女学校に改めたことの2点である。
新英学校及女紅場は伝統的な女子教育観を色濃く受継いで開設している。女紅場規則第一条には、一技一術に習熟した指導的な女性「教導」とともに、広く女紅を修めた「一家ノ良婦」の養成を目指したことがうかがえる。坂本清泉・坂本智恵子両氏の共著「あゆみ教育学叢書10 近代女子教育の成立と女紅場」(あゆみ出版 1983年刊)では、新英学校が「教導」の養成を、女紅場が「良婦」の養成を担っていたのではなく、「教導」と「良婦」の養成を共に目指したと述べている。文明開化の女子の教導たる者の育成には、広く知識を海外に求めることが不可欠であり、そのためには英学が必要とされている。また教導たる者は良婦であることが必須であると考え、女紅に習熟した教導の養成が期待されていたようだ。このように高い理想は存在しているものの、非常に理念的でその運用があまり検討されることもなく英学と女紅が結び付けて新英学校及女紅場が開設されたように強く感じる。
明治5年(1872)の女紅場規則によると、新英学校及女紅場の生徒は、英学生徒と女紅場生徒に分けられている。そして英学生は英学と女紅を必修としているが、女紅生は女紅必修、普通学選択という教科課程となっていた。そのため女紅生の授業料は英学生の三分の一であった。
それでも生徒にとって英学の学習はかなり難しいものであったようだ。明治9年(1876)の報告書には、試験において英語で自案を作文することが困難であったことが記されている。そのため教師が相談の上、生徒に大意を書き取らせそれを翻訳させることに切り替えている。和文英訳は出来ても自分の力で論文をまとめることができなかったということらしい。当時の英語教育の実情が伝わるエピソードであるが、現在の英語教育がどれ位進展したかは大いに疑問の残るところである。
女紅教育は、衣料や被服製作の全工程、高級装飾的な手芸そして西洋女紅の3つに分類できる。このうち被服製作は養蚕、糸挽、機織などを含むため伝統的な農村の女性の仕事が主となっている。これは食力益世の理念が強く働いていると思うが、都市生活を送ってきた華士族や上層の平民家庭の子女には辛いものであっただろう。その証拠に、衣料被服製作は暫時裁ち縫いを中心とした都市型のものに移行して行った。これは生徒の希望が裁縫に傾斜していくことを反映した結果でもあるが、さらに消費的傾向の強い高級装飾的な手芸に移ることは必然である。
西洋女紅は合理的な思考方法や生活態度を養う上で有効なものであったが、明治10年頃になると欧風化の反動が現れるのと、西洋女紅を教える外国人教師の雇用が経済的に困難になり、次第にその効用についても疑問が投げかけられるようになる。そして英学についても同じことが生じる。「京都府教育史」には「英語を主とした点が社会の実際に適せず、一般にはもっぱら裁縫の教授を望み、手芸さえも歓迎する者が少ない有様であり、とくに英学の不評は激烈で段々学校が衰微する様になった。」と記されている。この不評を打破するため、明治9年(1876)11月から英学生にも和漢学を兼修させている。校名が新英学校及女紅場から京都女学校及女紅場に改められたのもこの年である。また明治10年(1877)から広く府下から優秀な生徒を給費生として募集している。そして明治12年(1879)には英学・女紅・女学の三学科が正式な学科として位置付けられる。英学兼修の説明が成されないままに給費生となった者が、入学後英学を学ばないならば退校せよといわれ、退校願を書くという事件が生じる。給費生は女紅と普通学を学べると思い入学したのであろう。このような事件を経て、明治15年(1882)文部省宛に女紅場の名称廃止と英学科廃止に関連して規則変更伺を提出している。こうして2度目の校名変更により、女学と普通学科を中軸とした京都女学校となる。そして英学に代わって設けられた小学師範科とともに手芸専修科が設けられる。女紅場の初期の理念は変わったものの、女紅場の歴史自体は手芸専修科が継承することとなる。
青山霞村著の「山本覚馬」(同志社 1928年刊)には「女紅場、府立第一高等女学校」という章に新英学校及女紅場の開校当時のことが記されている。その創立に関して山本覚馬が直接的に関わったような記述はない。当時既に京都府の顧問となっていた覚馬も女子教育の推進は提言していたことと思う。当初校長は決められておらず、京都府の役人が掛となったこと、教師は男女十名程度、英学の教師はイギリス人のイーバンス夫妻であったことが分かる。裁縫機織袋物押絵等の実用の手芸を教えたため、入学希望者の少なかった中学校とは異なり、最初から78人の生徒があった。そして以下のような日誌が掲載されている。
四月十日(坪内嘉兵衛太田岩之助署名)
一 女工場開校第七字生徒女相揃
一 参事君并国重殿柏村殿参校
一 三本木南町住梅田故源次郎妻千代江参事君御沙汰
之趣ニテ女徒取締相達ス同人女ぬい(三字難読)
千代ニ随従出校
一 生徒七十八人江印鑑相渡両人惣代ニ而受書調印
サシ出ス
梅田故源次郎妻千代とは安政の大獄で獄死した梅田雲浜の後妻の千代子のことであり、女ぬいは次女のぬい子のことである。「続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料」(東京大学出版会 1929年刊 1976年覆刻)の雲浜没後事略によると、明治5年(1872)4月より京都府女紅場(現今の京都府立第一高等女学校)に勤務し、明治15年(1882)まで勤続していたこと、また明治8年(1875)2月より京都府女紅場英語教員となり、明治12年(1879)10月まで勤務していたことが分かる。ぬい子は安政5年(1858)正月20日に生まれている。この年の9月に雲浜は捕縛されている。因みに千代子は明治11年(1878)8月に島津益五郎を養子に迎え、ぬい子と結婚させ梅田姓を譲渡ししている。しかし明治13年(1881)8月にぬい子は享年23歳で病死する。
青山の「山本覚馬」には、製品掛梅田千代と八等授業補梅田ぬいとあることから押絵細工を母子が教えた可能性を推測している。覚馬の妹の八重が新英学校及女紅場の権舎長兼教導試補を務めていたことも記されている。別の箇所でも新島襄に嫁ぐまでの八重は、女紅場の舎監であり、同時に生徒に蠶桑のことなどを教えていたともある。
この新英学校及女紅場の変質と同じくして、新英学校及女紅場を目標として設けられた市中女紅場や遊所女紅場も明治14年(1881)頃を境に次第に姿を消して行く。これは明治10年代後半に訪れた財政的危機が大きな引き金となった。京都市内の小学校の運営を担ってきた小学校会社が姿を消すのも、明治18年(1885)から19年(1886)にかけてであった。
さらに中央集権的な統制が教育分野に及ぶようになると、独自の教育理念を追求した女紅場は経済的な理由以外にも存続できない状況に追い込まれたとも考えられる。すなわち明治5年(1872)から始まった女子教育における非常に理念的な実験が明治20年(1887)に終焉を迎えたという見方もできるのではないだろうか?
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