京都御苑 染殿
京都御苑 染殿(きょうとぎょえん そめどの) 2010年1月17日訪問
染殿については染殿井で少し触れたが、書くべきことが増えたため、改めて一項を起こすことにした。染殿があった場所については諸説あるが、近年の研究成果を纏めた「平安京提要」(角川書店 1994年刊)に従う。
大正5年(1916)に刊行された「京都坊目誌 上京第九学区之部」(京都叢書第14巻 京都坊目誌 上京 乾 光彩社 1968年刊)で、碓井小三郎は下記のように染殿第を説明している。
染殿院ノ址 染殿乃ち北を一条第とし。南を京極殿とす。本町(染殿町)西南の地より皇宮に係る。旧土御門の南。京極の西也。拾芥抄に正親町の南とあるも。今実測図に従ふ。忠仁公藤原良房の第にして。庭園幽趣を極む。今尚染井と称するもの皇宮地内に存す。又文徳天皇々后藤原明子良房の女曾て之に居す。世に染殿皇后と称す。枕草紙に家は染殿の宮とは是なり。明子。清和天皇を生み高子長良の女陽成天皇を生む。此殿永く藤原氏の所有なりしが。廃亡の年月を詳にせず。
碓井が言う実測図とは拾芥抄に掲載されている条坊図のことであろう。ここには清和院が左京北辺四坊七町に描かれているが、染殿の記述は無い。また、「拾芥抄に正親町の南とあるも。」は、拾芥抄の「正親町北京極西二町、忠仁公家、或本染殿、清和院同所」を誤って引用したのではないかとも考えられる。さらに「染殿乃ち北を一条第とし。南を京極殿とす。」と「旧土御門の南。京極の西也。」が矛盾している。前者に従うならば、東京極大路の西、一条大路側から南に一条第、染殿、京極殿すなわち土御門殿と並ぶので左京北辺四坊七町となる。しかし後者ならば、土御門殿と重なり左京一条四坊十六町となる。同書の清和院ノ址の条でも下記のように記しているが、北辺四坊七町と一条四坊十六町の2説が存在していることを現している。
清和院ノ址 染殿院の北にあり。拾芥抄京程図に正親町の南。京極の西。土御門の北。富小路の東にあり。清和母后の御在所とあり。或云染殿同所と。
東は京極。西は富ノ小路。南は近衛北は土御門に至り。東西四十丈。南北八十四丈の地なり。今の仙洞御所の東北半分より。凡そ北へ一町の所に当る。一に土御門殿。又上東門第と号す。其北は染殿ノ院にして東一条第とす。
とあり、土御門殿との関係は土御門大路を挟んだ北側にあったように記している。同書の巻末には、平安京之図が掲載されているが、この図の土御門院家の北側の町は東西に分割され、東に紫式部、西に清和院とし、染殿に関する記述がない。京都坊目誌の首巻を見る限り、染殿と清和院は同じ位置にあり、それは土御門殿の北側であったこととなる。京都坊目誌では、2説を併記し矛盾する記述となっているが、拾芥抄の記述
染殿 正親町北京極西二町、忠仁公家、或本染殿、清和院同所
清和院 正親町南 京極西 清和母后御在所
が、諸説を生み出す原因となったことは明らかである。太田静六は「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)の「平安初期における貴族の邸宅」の章の中の「自余の離宮および邸宅」で「染殿院と清和院との関係」という項でその位置について記している。太田は染殿と清和院が同一の位置にある二院ではなく、正親町小路を挟んだ独立した邸宅であったと考えている。春曙抄本を底本とした「枕草子」の第十九段には以下のように記されている。
家は 近衛の御門。二條、一條もよし。染殿の宮。せかゐ。菅原の院。冷泉院。朱雀院。とう院。小野の宮。紅梅。あがたの井戸。東三條。小六條。小一條。
ほぼ同時代の清少納言が「染殿の宮」と「せかゐ」を明確に区別していることや、「簾中抄」の以下の記述を論拠としている。
そめ殿 おほき町京極忠仁公の家
清和院 そめとのヽみなみ
さらに、図30 染殿と清和院 という図の中で左京北辺四坊八町に染殿、その南の七町には清和院を描いている。つまり染殿と清和院は南北2町・東西1町の二町の規模であったと考えている。
「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)は、拾芥抄の本文をそのまま採用し、「正親町小路の北、東京極大路の西二町」としている。ニ町の位置関係が分からないが、もし南北2町ならば、太田の説に沿ったものになる。「京都御所東、仙洞御所北にあたる。」としているが、本書が刊行された後に竣工した京都迎賓館の地と付け加えた方が分かりやすいだろう。
これに対して「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)では、染殿は最初に北辺四坊七町であったが一時期六町と七町を含む敷地に拡張している。つまり正親町小路の南側の東西2町の邸宅であったとしている。ほぼ同時期に出版された「平安京提要」(角川書店 1994年刊)も同じ見解である。
六町が村上天皇の皇子・具平親王の所有となり、土御門第と呼ばれるようになる。親王は応和4年(964)に生まれ寛弘6年(1009)に没しているので、親王の時代に土御門第が造られたとすれば平安時代中期のこととなる。
そして室町時代に至るまで親王の子孫である村上源氏の本邸であったが、享徳元年(1452)右中将源有通が21歳で死去して村上源氏土御門家が断絶する際に、有通の父が土御門第を大徳寺如意庵に寄進し菩提を弔っている。
上記のように六町が土御門第となったことにより、染殿は再び七町だけとなる。さらに南北に分割され、北を染殿、南を清和上皇の後院である清和院となったと「平安京提要」は記述している。染殿は、良房の女の明子すなわち文徳天皇の皇后で惟仁親王(清和天皇)の母の里邸となったため、明子は染殿后と呼ばれるようになっている。文徳天皇は生来病弱であったが、天安2年(858)32歳の若さで急逝している。明子は天皇崩御後の貞観7年(865)頃より精神的に病んでいたようで、表に出てくることがなくなっている。今昔物語集巻二十第七に染殿后為には、物の怪に取りつかれ悩まされる染殿后の姿が生々しく描かれている。日本歴史地名大系は「三代実録」の貞観18年(876)5月23日の記述より、明子が染殿に移居したと書いているが、これが染殿で過ごし始めた時期と考えるのは難しい。恐らく表に出なくなった頃より、明子は染殿で暮らしていたのではないかと推測する。明子は当時としては非常に長命で昌泰3年(900)72歳で没している。父・良房の養子となり藤原北家の繁栄を築いた藤原基経が没したのが寛平3年(891)であるから、明子はその次代の藤原時平そして忠平までを目撃したことになる。染殿は藤原基経、忠平、師輔に受継がれ、村上天皇の皇后となった安子を経て、その子の為平親王の御所となっている。親王が染殿式部卿と称されたのは染殿に住したことによっている。先に書いたように土御門第の具平親王と為平親王は共に村上天皇の皇子であるので、同時代の出来事となる。
少し時代を戻すが、貞観10年(868)には基経の同母妹の高子が貞明親王(陽成天皇)を染殿で出産している。そして貞観18年(876)11月29日には、清和天皇が陽成天皇に譲位したのが染殿とされている。そして譲位した清和上皇の後院となったのが、染殿の南側の清和院とされている。ここに後院が設けられたのは、上皇の母となる明子が染殿の一部を提供したためである。譲位した清和天皇は元慶3年(880)に出家、畿内巡幸し丹波国水尾の地に入っている。法皇は水尾を隠棲の地と定めたものの、左大臣源融の棲霞観にて病を発し同4年(881)12月4日、粟田の円覚寺で崩御している。つまり清和院で暮らした時期はそれほど長いものではなかった。このような流れを見ると清和院は貞観18年(876)頃に成立したと考えられる。日本歴史地名大系は三代実録の元慶元年(877)閏2月17日の条の
山城国愛宕郡水田九町二百九歩、奉二太上天皇染殿宮一、以二便近一也
また同年3月24日の条
太上(皇)天皇於二清和院一、設二大斎会一
に清和院の名称が見えることから、この時期の上皇の御在所が染殿内あるいは染殿に隣接していた清和院にあったと推測している。確かに清和院が染殿と独立していたか、あるいは染殿をも含んだ名称として用いられたかは判明できていないようだ。
平安京提要では清和院は上皇崩御の後、左大臣源重信の手に移り、その孫の大納言経信、その子の道時へと伝領されたとしている。重信は源雅信の弟であり、円融天皇の治世のもと雅信が左大臣を、重信が右大臣を務める期間が長く続いている。ちなみに源重信の子である源道方が土御門第の具平親王や染殿の為平親王と同世代にあたる。
その後、白河法皇の皇女・官子内親王となったことから、内親王は清和院斎院と呼ばれている。さらに平安京提要では、清和院が寺院となり江戸時代の初めに現在の上京区七本松通一条上ル一観音町に移転したと記している。これを信じるならば、梨木通に三条家を始めとする公家町が形成されたのは、寺院の清和院が移転してからのことであろう。現在も京都御苑の門の名として清和院御門が残る。
「京都御苑 染殿」 の地図
京都御苑 染殿 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
京都御苑 染殿 左京 四坊 北辺 7 | 35.0244 | 135.7661 | |
左京 四坊 北辺 6 | 35.0244 | 135.7646 | |
左京 四坊 北辺 8 | 35.0256 | 135.7661 | |
左京 四坊 北辺 7 | 35.0244 | 135.7661 | |
01 | ▼ 京都御苑 土御門第 | 35.0244 | 135.7646 |
02 | 京都御苑 西北院 | 35.0256 | 135.7661 |
03 | ▼ 京都御苑 染殿井 | 35.0259 | 135.7662 |
04 | ▼ 梨木神社 染井 | 35.025 | 135.7673 |
05 | ▼ 京都御苑 縣井 | 35.0262 | 135.7595 |
この記事へのコメントはありません。