京都御苑 桂宮邸跡
京都御苑 桂宮邸跡(きょうとぎょえん かつらのみやていあと) 2010年1月17日訪問
京都御苑内に残る親王家、摂関家とその他の公家の邸宅跡を見て行く。先ずは、伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮の四世襲親王家について。そもそも世襲親王家とは、江戸時代においては代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた上記の四つの宮家をいう。しかし世襲親王家のシステム自体の歴史は古い。院政期以降、天皇の子女で親王宣下を受けられない者には、臣籍降下をするか出家する道しかなかった。
しかし鎌倉時代に入ると、いくつかの宮家が新たに成立するようになる。第84代順徳天皇の皇子忠成王を祖とする岩倉宮、その兄弟の善統親王を祖とする四辻宮。第90代亀山天皇の皇子恒明親王を祖とする常盤井宮、第94代後二条天皇の孫で北朝初代光厳天皇の皇太子であった康仁親王を祖とする木寺宮、その兄弟の邦省親王を祖とする花町宮、光厳天皇の子で北朝第3代崇光天皇の皇太子であった直仁親王を祖とする萩原宮、大覚寺統と持明院統の2系統あった五辻宮などが挙げられる。なお、これらの宮家は世襲宮家ではあるものの、親王の身位が継承されるとは限らなかったため、世襲親王家とは言えない。この時代に宮家が増えていった背景には、承久の乱終結後から南北朝にかけての鎌倉幕府の朝廷に対する政治的な介入が見えてくる。つまり有力な皇位継承候補者を祖に持ちながら、政治的な闘争に敗れて皇位に就けなかった人々のために作られたシステムとも言える。この時代の宮家創設には江戸時代とは異なった理由があったといってもよいだろう。
北朝最後の天皇でもある第100代後小松天皇は、応永19年(1412)に第一皇子実仁親王に譲位(第101代称光天皇)し院政を開始している。これは南北朝の講和条件であった両統迭立を破ることであり、既に出家していた後亀山法皇は嵯峨を出て吉野に潜幸し、この地に6年過ごすという抗議行動を行っている。最終的に法皇は大覚寺に戻り、応永31年(1424)に崩御されたが、法皇の遺志は後南朝となってその後の時代に残ることとなる。
後小松天皇から譲位された称光天皇も生来病弱の上、弟である小川宮の死去や上皇との反目などもあり、精神的な安定を著しく欠いていた。皇子に恵まれることなく正長元年(1428)に28歳で崩御している。
後小松上皇と将軍足利義持は、後継者を持明院統光厳天皇流で唯一の男児である伏見宮家の伏見宮貞成親王に求めた。上記のように光厳天皇は北朝初代であり、後小松上皇にとっては曾祖父にあたる。光厳天皇の第一皇子である興仁親王が北朝3代崇光天皇となり、第二皇子の弥仁親王は北朝4代後光厳天皇となっている。伏見宮貞成親王は崇光天皇流であり、そして後光厳天皇、後円融天皇そして後小松上皇は後光厳天皇流に連なる。その後の北朝のもまた、この光厳天皇から後小松上皇の4代の間にも男児はいたが、皇位継承の可能性が無くなった時点で僧籍に入るなどを行ってきたため、称光天皇崩御時点で皇位を継承できる男児がいなかったということである。崇光天皇流は栄仁親王、貞成親王を経て彦仁親王に至る。
称光天皇の病状が悪化した応永32年(1425)貞成親王は54歳で親王宣下を受けている。これは貞成親王を皇儲の候補者とするためのものであった。この時は天皇が奇跡的に回復したため、上皇との間で確執が再燃し、貞成親王は僅か3か月で伏見指月庵において薙髮に追い込まれる。出家後の法号は道欽であったため、以後は道欽入道親王と名乗っている。そして3年後の正長元年(1428)再び称光天皇の病状が悪化すると、上皇は道欽入道親王の第一皇子・彦仁王を子とし、称光天皇崩御後、譲国の儀をもってこれを即位させ、後花園天皇とした。後小松院が崩御された永享5年(1433)以降、道欽入道親王は天皇の実父として影響を現すようになる。永享7年(1435)新しく伏見御所を造営し、文安4年(1447)後高倉院を先例として、道欽入道親王には不登極帝として太上天皇の尊号が奉られている。後崇光院として法皇に遇されるが、慎重を期して翌年には自ら辞退している。
このように四世襲親王家の一つである伏見宮の創設は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子・栄仁親王が持明院統の嫡流にあったにも関わらず皇位を継承することができなかったことによる。伏見宮第3代貞成親王が一時的にも皇儲の候補者となり、その第一皇子が第102代後花園天皇として即位し、念願の皇位継承を果たしている。そのため弟の貞常親王が伏見宮の第4代当主を継ぐこととなった。さらに江戸時代末期に至り、伏見宮から多くの宮家を輩出している。つまり伏見宮邦家親王の王子達が、山階宮、久邇宮、小松宮、北白川宮、華頂宮、東伏見宮と新たな宮家を創設し、梨本宮と閑院宮をも継承している。さらに後の時代には賀陽宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮などの支流も生まれている。幕末維新期に天皇の藩屏を担う人材を増やさなければならなかったためになされたことである。なお伏見宮邸は、京都御苑から今出川通を挟んだ北側にある同志社女子大学の敷地と今出川河原町の東南の敷地の2箇所にあった。
伏見宮に次いで成立した世襲親王家が桂宮である。織田信長は誠仁親王の第4皇子の邦慶親王を猶子とし、朝廷との権力関係を再構築しようと考えていたようだ。ただ天正10年(1582)の本能寺の変によって、その野望を果たすことはなかった。邦慶親王も天正19年(1591)に聖護院門跡に入り、得度して興意法親王となる。
天正14年(1586)7月、東宮であった誠仁親王が薨去し、正親町天皇は同年11月7日に誠仁親王の第1皇子である周仁親王(後陽成天皇)に譲位している。同年に豊臣秀吉も信長に倣い、智仁親王を猶子としている。しかし天正17年(1589)秀吉に実子鶴丸が生まれた後、親王のために邸宅と知行地を献上し八条宮家を立て、豊臣家から距離を置くようになる。八条宮の創設は天正18年(1590)2月で、翌年正月に親王宣下が行われ、初代智仁親王となっている。
御陽成天皇の第1皇子の良仁親王は文禄3年(1594)に親王宣下を受ける。これは秀吉の後押しによって行われ、次期の天皇と目されていた。しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、御陽成天皇自らが親王を皇位継承者から外し、弟宮の智仁親王をあてる意向を示すようになった。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、豊臣政権色の濃い良仁親王を廃し、秀吉の猶子であった智仁親王をも避け、第3皇子の政仁親王を代わりに立てることを承認している。良仁親王は慶長6年(1601)に仁和寺真光院に入室し覚深法親王となる。
八条宮の石高は3000石余で宮家中でも最大であった。また主な所領が桂周辺にあったため、八条通の沿線上にあることから家名となった。下桂村に別業造営を始めたのは、元和年間(1615~24)の初期頃と考えられている。この時期は、慶長19年(1614)徳川和子の入内宣旨から、元和6年(1620)の入内までと一致する。この桂の別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれるようになる。智仁親王は寛永6年(1629)享年51で薨去している。
八条宮家は初代の智仁親王の後を第1王子の智忠親王が継いでいる。親王は桂離宮の造営期間中の元和6年(1620)に生まれている。寛永元年(1624)後水尾天皇の猶子となり、寛永3年(1626)12月親王宣下を受け忠仁と称される。しかし後に智忠親王と改称する。寛永6年(1629)2月元服して、中務卿に任じられる。上記のように同年(1629)4月智仁親王の薨去により宮家を継承している。
寛永19年(1642)9月前田利常の女富子を妃とする。しかし後嗣を儲けることはできなかったため承応3年(1654)後水尾天皇の第13皇子穏仁親王を養子に迎えている。父の没後、しばらく荒廃していた桂離宮を改修し、御殿を増築し庭園を整備したのは智忠親王の功績である。寬文2年(1662)43歳で薨去。
この後の八条宮家については、長岡の八条ヶ池 その2の項で書いているので、概略を述べるのみをとする。智忠親王は前田利常の四女富姫を妃とするが後嗣を儲けることはできなかった。そのため承応3年(1654)に後水尾天皇の第13皇子・穏仁親王を養子に迎えている。寛文2年(1662)智忠親王の薨去に伴い、穏仁親王が八条宮第3代として宮家を継承するが、寛文5年(1665)に後嗣のないまま薨去している。享年23。穏仁親王の後を後西天皇の皇子の長仁親王が第4代、そして長仁親王の弟である尚仁親王が第5代を継ぐが、ともに21歳、19歳と若くして薨去している。 元禄2年(1689)8月に尚仁親王が薨じたため、霊元天皇の皇子で同年に生まれた作宮が継ぎ、常磐井宮と改められた。しかし親王宣下のないまま4歳で夭折する。そのため、作宮を桂宮の代数に入れない記述も見られる。作宮の兄に当たる文仁親王は有栖川宮の養子となっていたが、元禄9年(1696)7月に新たに京極宮の宮号を賜り、翌10年(1697)5月に第6代文仁親王となった。
京極宮は文仁親王の子の第7代家仁親王と孫の第8代公仁親王が継いだが、公仁親王が王子女に恵まれなかったため、明和7年(1770)親王没後寿子妃(紀州藩徳川宗直の娘)を当主として宮家は維持されている。しかし寛政元年(1789)妃が死去したことにより、宮家は空主となる。
文化7年(1810)9月、光格天皇の第4皇子の盛仁親王が京極宮を継承し桂宮の宮号を賜る。文化8年(1811)親王宣下を受け盛仁と命名されるが、翌日に薨去している。また天保6年(1835)仁孝天皇の命により皇子が桂宮を継承する。天保7年(1836)親王宣下を受け節仁と命名されるが、先代と同じく同日あるいは翌日に薨去したため3度目の空主となる。
幕末の文久2年(1863)節仁親王の没後当主不在となっていた桂宮家を仁孝天皇の第3皇女の淑子内親王が第11代桂宮として継承している。これは、世襲親王家の当主を女性が継承した唯一の例でもある。淑子内親王は孝明天皇と和宮(親子内親王)の異母姉にあたり、婚約していた閑院宮愛仁親王が天保13年(1842)に薨去されたため長く独身であった。明治14年(1881)53歳で薨去すると、相国寺にて葬儀が執り行われ泉涌寺内に葬られる。これをもって桂宮家は継嗣不在のため断絶となる。
桂宮邸跡は今出川御門と朔平門の間の東側、すなわち近衛邸に西面していた。現在も築地塀と表門、勅使門の二つの門が残るが、建物は明治26年(1893)から翌年にかけて二条城本丸御殿として移築されている。桂宮邸跡には宮内庁職員の宿舎が建てられているため、公開されていない。
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