文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 鷹司邸跡

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)2010年1月17日訪問

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京都御苑 堺町御門 門内から堺町通を眺める
真木・久坂軍が進行した柳馬場通は一本東側

 京都御苑 清水谷家の椋 その4では、来嶋又兵衛の蛤御門内での奮戦とその最期を見てきた。闘将来嶋の討死により、国司軍は崩れ落ちて行った。烏丸通を北から攻めてきた薩摩藩の圧倒的な砲撃に遭い、多大な損害を被った国司信濃は遂に支えることができず、中立売通を西に天龍寺を目指し敗走していった。その際に放置された国司信濃の具足櫃から黒印の軍令書が発見されている。野宮定功日記、7月22日の条に下記のように記されている。

一 十九日於中立売大路薩藩取得候国司信濃具足櫃内有之長門宰相父子軍令条一巻差出之由一橋差出之

 嵯峨実愛日記や飛鳥井雅典日記にも同様な記述が見られる。北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))では下記のように記している。

是より先、中立売門外の戦に、薩藩伊藤四郎左衛門が、分捕したる国司信濃が具足櫃中に、桐箱あり披き見れば毛利父子が黒印の軍令状なり、其書に曰く、
申聞条々
今度其方事上京申付、諸隊之者預け置候事故、無緩可管轄事、一伍中之者は、令を伍長に受け、伍長は令を隊長に受、隊長は総督之指揮を受、諸隊一和可為肝要事、
一 私闘は不申及、軽挙妄動大事を誤候義、尤厳禁之事、
一 凡而非礼非義之振舞有間敷事、
一 国家之動静を、猥に他へ洩間敷事、
一 奸淫大酒等、堅禁止之事、
一 僭上虚飾之衣服は勿論可為無用、惣而諸士匹夫貴賤之分限不可乱事、
右条々違背之者於有之者、軍律を以て相糺、品に寄り切腹可申付候也、
元治元年子六月             慶親黒印
                    定廣黒印
         国司信濃とのへ

 7月19日に捕獲された黒印の軍令状は禁裏守衛総督徳川慶喜に渡り、同月22日には朝廷に提示されている。これが長州征討の口実になったことは確かである。
 翌20日の朝、薩摩藩を主体とした掃討隊が天龍寺に向かった。この模様については「柴山景綱事歴」(山崎忠和著 非売品 1896年刊)にも記されている。また、天龍寺 その6でも書いておりますのでご参照下さい。

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真木・久坂軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

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山崎 離宮八幡 真木・久坂軍の集結場所
2014年10月12日撮影

 さてこの項では山崎を発った真木・久坂軍の戦況について記す。最初に御所に到達するまでの経路を明らかにしたいと思う。真木の弟にあたる真木直人が記した「天王山義挙日記」(「日本史籍協会叢書 維新日乗纂輯 二」(東京大学出版会 1925年発行 1982年覆刻))に進軍の経路が残されている。この日記は元治元年(1864)6月15日から始まり、甲子戦争の当日である7月19日まで続く。これに沿って当日の真木の足取りを辿ってみる。

西山ノ小道ニテ道幅セバク野戦砲台ヲ行スルニ甚ダ困ル也(山崎ノ駅ヲ過ルヿ半里ノ時淀城辺ニテツリ鐘ヲ大ニナラス京ニ合図ノ為メト存ス)数々人数ヲ止テ道ヲ押故兵卒大ニ疲弊ス半途ニテ夜九鼓頃也伏見辺ニ大炮声ヲ聞ク是時伏見手ノ戦争ノヿト見ユ七ッ時頃竪木原駅ニ著ス兵糧ヲツカイ甲冑ヲ著ス済テ行軍ス桂川ニテ物見ヨリ中軍ヘ注進ノ事ハ不分暫時押テ西七条ノ道ヲ北ニ押シ松原通ニ出ツ是時巳ニ暁天也
七月十九日 巳ニ樹林間ニ敵ノ人数大ニ狼狽ス洛中ニ入ル時北方ニ炮撃頻也天龍寺一手来嶋隊ノ戦争ト見ユ松原通ヲ押シテ柳ノ馬場ニ出ヅ丸田町ニ出デシ時同町ノ東ヨリ一隊ノ人数押来ル葵紋ノ旗ナリ我兵是ヲ因州ノ兵カト思ヒ前隊ノ大炮ヲ是ニ向ク時ニ前軍ヨリ内 丸田町ヘ進メト号令ス依ツテ全軍内丸田町ヘ入レリ然ル処丸田町ノ敵兵頻リニ後ヨリ発砲シ我軍ノ小荷駄ヲ遮ル先ニ因州兵ナリト思ヒシハ越前兵ナリ我兵既ニ鷹司殿ノ中ニ入リ表門ヨリ出デント欲スレドモ敵ヨリ炮ヲ連発スルニヨリ門内ニ隊ヲ備ヘタリ

 7月18日の夜五鼓ノ時(20時半)離宮八幡の社内に人数を揃え一番貝、諸所に篝火を炊き攘尊の合言葉が中軍より伝えられ二番貝、そして三番貝で出陣している。しかし山崎を半里出たところで、既に京に異変を伝える早鐘が淀城下で起きており、夜九鼓頃(午前0時)には福原軍と大垣兵の戦闘が藤森あたりで発生している。真木・久坂軍は西山ノ小道を進んだため野砲の運搬に手間がかかり、予定の時刻を遙かに過ぎていたようだ。暁七ッ時(3時半頃)に竪木原駅すなわち山陰街道の樫原に到着し、兵糧を食し甲冑を装着している。ここでもまた時間を費やしている。

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西国街道 向日町五辻 2014年10月12日撮影
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粟生 光明寺
丹波街道の光明寺前 2009年12月9日撮影

 山崎を出た真木・久坂軍が西国街道をそのまま進めば、現在の久世橋あたりで桂川を越えることとなる。しかし真木直人の日記では樫原で休憩したとあるので、向日神社の北で西山寄りの物集女街道に入ったことが考えられる。そして樫原から現在の京都府道142号沓掛西大路五条線で北東に進み、桂で川を越え、西七条すなわち西大路七条に出ている。ここより西大路通を北上したのであろう。七条通を東に直進すると洛中に入れるし、さらには有名な丹波口もあったが、真木・久坂軍はここからは洛中に入らず、洛外の道を北に進んでいる。七条通を越えたあたりで御土居は100m位西側に張り出し、丁度新千本通上を北に進む。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、七条通、丹波口に続いて新千本通上の御土居には、野道、六条通、中堂寺通そして松原通と仏光寺通から洛中に入ることができた。この中で松原通から洛中に入っているのは、洛中の警備している諸藩の目を避けるためであろうか。洛中に入り敵兵の姿を目撃することが増え始めた頃には、既に夜が明け国司軍の戦闘が始まっている。自分達の到着がかなり遅れたことが明らかになり、かなり慌てたことであろう。桂から御所までは凡そ8km、普通に歩いても2時間はかかる。また西大路松原からでも5kmはあるので、国司軍の戦闘が開始しても、真木・久坂軍の参戦にはまだかなりの時間を要したことが分かる。松原通を真直ぐに東に進み柳馬場通で北に向けて進軍している。
 真木・久坂軍が丸太町通に達したときに東側に一隊の兵士を認めている。これを因州兵と思い違いをし、これに対する攻撃を避けている。後に触れることとなるが、因州藩は、甲子戦争の裏側で交わされていた密約により長州藩の便宜を図る予定であった。つまり堺町御門前に示し合わせたように出兵された兵隊を、長州軍は因州兵と誤解したのである。この兵士達は堺町御門を固める越前兵であったので、ここで戦闘が始まる。真木・久坂軍は堺町御門を力押しで攻め入るのではなく、御門の東側に位置する鷹司邸の裏口から入り込み、ここから戦わずして堺御門内に進入しようとしたが、既に越前兵の備えは完成しており、邸内の長州兵は表門から打って出ることができなかった。これも全て行軍の遅れが原因となっている。

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物集女街道 樫原

勤王家殉難の地の碑とかつての小泉仁左衛門宅跡 2009年12月9日撮影
 三原清尭は「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)で、真木・久坂軍の行軍経路は物集女街道よりさらに西側であったとし、「粟生の光明寺前を通過して、山側を迂回し樫原村に達した。」としている。これではかなりの遠回りとなる。三原は長岡京市調子一丁目すなわち西山天王山駅辺りから、わざわざ丹波街道に入り、光明寺前そして大原野を通過し大枝に至ったと考えているようだ。この道を選べば遅刻するのは明白である。
これに対して「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)では以下のように進軍を説明している。

向町へかかり、鶉道を越へ、桂村へ出し頃、横雲たなびき、早明方も近からん程に、又もや京師の方に当り、鉄炮の音すさまじく聞ゆるにぞ、「嵯峨の手も早すすめり」と心苛ち、金鼓をならし、走すすみ、京地近く成ぬる頃、夜はほのぼのと明にければ、千本通を松原へ出、其より柳馬場を北へ堺町御門まですすみたりしかば、蛤御門・中立売御門前は嵯峨の手襲来りて、合戦の最中にして、九門何れも堅く閉て、兵士厳重に固めたれば、鷹司殿の裏門より、久坂義助・真木和泉・寺嶋忠三郎・入江九市・松山深三等、参入せしかば、

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山陰街道 樫原宿 2009年12月9日撮影

 向町とは現在の向日市向日町のことで向日神社のあたりまでは山崎から西国街道を北上したことが推定される。鶉道は調べても分からなかったが、向日神社の北側で西国街道と物集女街道が分かれるので、物集女街道のことかもしれない。さらに「甲子戦争紀」にも下記のような記述が見られる。

向日町江掛り同所御警衛郡山候御人数江応接手間取夫より鶉道を越へ桂村江出し此ハ既ニ卯之刻前也千本通松原江出来りし時ハ御所辺既ニ炮声厳敷聞へけれハ此所より早太鼓を打て差急き松原通を烏丸へ出四条通を柳馬場北江押登る鷹司殿裏御門より久坂儀助の一隊先第一番ニ押込松山源深カ蔵真木和泉守以下継て込入益田右衛門介カ殿之家来一大隊ハ柳馬場竹屋町辺ニ控へ居ル

 「甲子戦争紀」も「元治夢物語」とほぼ同じ記述であるが、行軍の遅れが向日町に出兵していた郡山兵に対する応接があったこと、松原通から直接柳馬場通に入ったのではなく、四条通までは烏丸通を北上した点であろう。いずれにしても、真木・久坂軍は東寺口から丹波口の間で洛中に入り、洛中の千本通を北上した点が、真木直人の日記と大きく異なっている。

赤:「真木直人日記」 

 「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))でも「山崎方面に在ては長兵西街道より進で松原通に出で柳馬場を北にして鷹司邸の裏門に抵り兵半ば邸内に入る」と真木直人の日記に従っているが、「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)では行軍経路を下記の様に記している。

山崎の方はドウかと云ふに、是の一手が一番遅かつた、三方から進むのに、時刻が一致せぬから、それが為めに不利益が多かつた様にも思はれます、此の一手は夜の十二時頃山崎を発しましたが、其の道筋は矢張り分りませぬ、此の手に加つた黒岩直方君杯に聞いたこともありましたが、其の頃は京都の地理を知らぬものであるから、何処を通つたか一向分らぬ、但し桂川で朝飯の兵糧を使つたのは善く覚えて居る、多分東寺辺から這入つた様に考へると言はれた、其れから京都の町に入ると、ドンく鉄砲の音がするから、久阪が何でも急げと言ふて、堺町御門に向ふと、越前の兵が十分に固めて居る、久阪は軍さをする気がなかつたのか、直ぐに号令を発して路を曲げ、鷹司家の裏門から邸内に繰込んで仕舞つた

 桂川を越える前に朝飯を食べているが、洛中には東寺辺りで入ったとしている。真木直人の日記との違いが見られるが、京都に不案内の上、夜の行軍であり景色の確認もままならなかったことが想像される。もし東寺辺りから洛中に入ったのならば、山崎から西国街道を進み向日町を通過して久世で桂川を越えたのであろう。その後も西国街道を進み吉祥院あたりを過ぎたとも考えられる。不確かな記憶が基となっているので、これ以上は分からない。以上のように各史料毎に真木・久坂軍の進軍経路は異なっているが、実際に行軍に参加して生き残った真木直人の「天王山義挙日記」を信じるのが妥当ではないだろうか?

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桂川 桂大橋の夜明け 2009年12月20日撮影

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