文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 鷹司邸跡 その2

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その2 2010年1月17日訪問

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京都御苑 鷹司邸跡

 京都御苑 鷹司邸跡では、真木・久坂軍の進撃経路について推定した。この項では堺町御門での戦闘状況と山崎への撤退について記して行く。
 山崎の軍の大将は家老の益田右衛門介であったが、進軍には加わっていない。「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には、石清水山上に滞在していた益田隊は社頭に貝曲を奉納すると称して申刻(16時半)後一曲を奉し一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し、双方に手配り軍令を発したとしている。真木直人の「天王山義挙日記」(「日本史籍協会叢書 維新日乗纂輯 二」(東京大学出版会 1925年発行 1982年覆刻))に従うならば、離宮八幡の社内に人数を揃えるために吹かれた一番貝は7月18日の夜五鼓ノ時(20時半)であったので益田隊が合流に間に合わなかったとは考え難い。予めの作戦行動であったのであろう。「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)でも、此の手の総督である益田右衛門介と宍戸左馬介は手勢100人を引率し天王山に登り、味方の戦況を伺い毛利広定公の着陣を待ったとある。
 三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)に従うならば、伏見からの福原越後軍が700(「元治夢物語」では500)、嵯峨からの国司軍が900そして山崎からの真木・久坂軍が500だった。その人数から見ても、攻撃の主力を国司軍に集めたことは明らかである。それであるからこそ、真木・久坂軍は国司軍が到着する以前に、守衛隊に対する陽動として戦闘を開始しなければならなかった。攻撃に時差が生じたのは已む得ないとしても、攻撃開始の順番が入れ違ってしまったことは、福原軍の大垣藩との交戦開始が早かったこと、さらには入京を果たせなかったことに次いでの失策とも言える。

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真木・久坂軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 真木・久坂軍には久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一以外にも品川弥二郎、有吉熊次郎、弘勝之助等の松下村塾出身者が加わっている。また真木の許には各藩を脱藩した浪士達が集まり長州藩への合力部隊・忠勇隊が結成されていた。「元治夢物語」に真木・久坂軍に加わった者の氏名が以下のように残されている

斯て今朝進軍の隊長には、松野三平道成(久坂玄瑞の変名)・川嶋小太郎弘致・牛敷春三郎昌昭(寺島忠三郎の変名)・青木与三郎良春・品川弥九郎勲義(義勇八幡隊長品川弥次郎か)、草莽の頭取には、浜忠太郎(真木和泉の変名)・松山深三正夫原陸太盾雄、此輩を頭として、
但し、野唯人無二(中村円太の変名)。田所荘輔・荘原登美衛等は、去月下旬、京師の形勢註進として追々本国へ趣けり。又、田代五郎は過日応援の催促として、丹の方へ赴けりと云。
其外、那須俊平重任伊東甲之助和義尾崎幸之進基上岡胆次正敏中平龍之助定雄柳井健次友政・三瀬源蔵・清岡半四郎・松田小六郎安定・佐原太四郎茂親・斎田三郎義尚・岡虎六・野口一丸無可、以上、筑前脱藩、海野貞蔵武鞆・沢田真蔵・同息真太郎・後藤正次・真木外記・同菊四郎・北嶋務・半田紋吉成久・淵上郁太郎・同謙蔵・津田愛之助安藤誠之助田岡俊三郎久恒小橋友之助以義宮部春蔵小阪小次郎・西村亀次・千屋菊次郎広田誠一郎・名和宗助・野村貢・酒井正之助・三宅次右衛門・今橋恭助。二見一鷗・若松弘之進・粟屋良之助良臣岸上弘武林八郎・飯塚亀五良・徳田隼人、此輩を初として、其勢都合五百余人

 明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)と照合すると、紫字が甲子戦争での戦死者及び捕縛後に亡くなった者、緑字が天王山での自決者である。他藩出身者で構成された忠勇隊により多くの死者が出たことが分かる。

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京都御苑 堺町御門

 守衛側から見た堺町御門での戦いについては、越前藩の「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))に記されている。

斯て同月十九日暁に至り長兵等今朝押て入京し 禁閥をも犯し奉るへき形状あるよし所司代より急に藩邸に通達ありけれハ直ちに諸手の兵士に出陣の令を発し別に軍事方堤五市郎青山小三郎を斥候として堺町守衛所に差遣し軍監村田巳三郎にも続いて守衛所に赴きけるに守衛所にてハ在直の兵士等既に早暁より戒厳してありけるか卯の上刻頃会津藩の斥候某伏見街道より来れるよしにて昨夜子の刻長兵等藤の森なる大垣藩の持場に押寄せ目下接戦中なりと告けれハ尚其実況を詳にせむとて大番隊堀江鹿門吉岡伝吾三岡友蔵中田懐蔵久野孫四郎を斥候として該地に赴かしめけりさて卯の半刻頃我守衛所の西北に方り俄に大砲小銃の音しけるか軈て堤五市郎権太宗七をして観察せしめしに長兵等既に蛤御門に押寄せ守衛会津藩か戦を始めたるなりと報しけれは然らは我守衛所にも必定寄せ来るへしとて軍監村田駆廻り指麾し防戦の手配中今暁軍事方軍監等か守衛所に赴きしに引続き藩邸を繰出したる補兵隊及ひ一番手の諸兵等到着しけれは在直の兵士に併せて其持場を部署し大砲隊及ひ一番手の諸兵に堺町御門外を守らせ補兵隊に同門内を守らせ各持場を固めて敵の来るを待けるか辰の上刻頃軍監村田巳三郎各兵の持場巡視中丸太町に於て柳之馬場通より弾薬と覚しき荷物を運ひ来り鷹司邸に入らむとする躰を見認め何方の荷物なりやと尋問せしめしに長藩のなりと答へけれは直ちに指揮して人夫を逐散らし其荷物を差押へしめしに続て夥多の長兵押来り或ハ小銃を放ちて戦を挑ミ或ハ鷹司邸の築墻を乗越え邸内に入らむとしけれは我兵は透かさす大砲小銃を打出し互に烈しく打合ひける中敵ハ我打出したる大砲に勢を挫かれ彼の築墻を乗越えむとせし者を始め崩れ立遂に逃亡せりされと長兵の尚近辺商家に潜み居りし者ありて階上又ハ路次口等より小銃打出し我よりも大砲小銃を放ちけるか巳の刻に至り敵ハ全く退きけり

 この記事によれば福原軍が藤森で開戦したのが子の刻(午前0時)で、その報せは卯の上刻(5時前)に越前藩にももたらされている。国司軍が攻勢に出た蛤御門での戦いが卯の半刻(6時半頃)であった。この頃より堺町御門に敵が押し寄せるのも時間の問題であると感じとっている。そして辰の上刻(7時)、最初に現われたのは人夫が運んできた荷駄であったが、程なくして長州藩兵が到着し戦闘が始まったことが分かる。しかし巳の刻(10時前)には丸太町通の長州兵は撤退し戦闘が終わったということだろう。なお、「元治夢物語」では国司軍の戦いを「寅中刻に初り、辰の中刻に終る」としているので、午前3時半から対峙が始まり午前7時半には嵯峨へ撤退していったということであろう。
 鷹司邸での戦闘についても「続再夢紀事」は次のよう記述している。

斯て又守衛所にては今朝柳の馬場より寄せ来りし敵は撃退けヽれとも守衛所の東側なる鷹司家の邸内に早朝より藩士躰の者数十人徘徊し且曩に同邸の裏門へ弾薬を運ひ入れむとせし躰をも目撃したれは或ハ長兵等邸内に潜み居るにはあらさるかと深く懸念し只管其動静に注目して在りしか巳の半刻にもやあらむ俄に邸の表門を閉ち邸内に大砲を据ゑ且銃手をも配る躰の見えけれハ軍事方青山小三郎門際に迫り何れの藩士なりやと尋問数回に及ひけれと何の答をも為さヽるに今ハ猶予しかたく速に開門せられよと大音にて呼はりけれは稍ありて長藩なりと答へ玆に始めて敵兵なる事を知りしかやかて長兵等鬨の声を揚ると斎しく表門の扉を開らき我守衛所に向ひ大砲小銃を打出しけれは我兵左右に開らき補兵隊を西殿町に繰入れ大番隊其他の兵を堺町御門外に繰出したり此時物頭岡部半兵衛隊石川文太夫岡部増次夫卒一人負傷せり

 丸太町通での戦闘は巳の刻(10時前)終わったが、既に鷹司邸に入り込んでいた真木・久坂軍本体が戦闘態勢に入ったのは、さらに半刻過ぎた巳の半刻(11時)からだったようだ。これは守衛側の越前藩に発見された後の反撃でもある。この辺りが中原邦平をして「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)で、久坂玄瑞は「軍さをする気がなかつた」という記述になったとも考えられる。

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京都御苑 九条邸跡

 ここより守衛側の「続再夢紀事」と攻撃側に同情的な「元治夢物語」を併せて見て行く。上記の「続再夢紀事」では長州兵が閉じていた表門を開き砲撃を開始したと同時に。鷹司邸の各所から砲撃を行っている。

さて同時に長兵等鷹司邸西北隅の築墻上及ひ東殿町に面する路次門等よりも大炮小銃を打出しけれハ表門の敵にハ大番隊其他の兵之に當り築墻上及び路次門の敵にハ補兵隊之に當り両所とも互いに烈しく打合ひけり此時軍監村田巳三郎院参町の方より一橋家の大砲二門を曳き来るを見認め是幸と直に其の炮手を促し相扶けて表門及ひ路次門の敵に向ひ発射せしに頗る命中し両所共敵ハ邸内に引入けり此発炮中村田ハ敵の霰弾にて数ヶ所の重傷を負ひ一橋家の砲手も負傷せり斯て其後敵は邸内より狙撃し我兵は堺町御門際及ひ九条邸五条邸の築墻より狙撃し互に打合い居りし

 長州藩から先制攻撃を受けた越前藩も立直し、表門とそれ以外の築墻上・邸外の持ち場を決め反撃に移っている。文久3年(1863)の内裏図を見ると、鷹司邸の北側の築地が東殿町で、堺町御門を挟んで西側の九条家北側築地が西殿町となっている。鷹司邸の東北隅が大宮殿となっているので、邸内からの攻撃は北西隅より行わざるを得なかったことが分かる。また院参町とは殿町の北側にある町で、さらにその北側は凝華洞となる。ここにあった一橋家の大砲二門を借りて鷹司邸を砲撃し戦果をあげたものの、敵の狙撃によりその後は使えなくなったようだ。維新史料編纂会講演速記録(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))の加太邦憲の発言の中にも、「此所には戦の始まる前に一橋の大砲が二門ありました趣でありますけれども、如何なる訳か、戦の時には此処に在りませぬ、外には大砲がありませぬから、暫く勝敗が決しなかつたのであります」とある。 同じ戦闘を「元治夢物語」を読むと攻撃側の様子が分かってくる。

粟屋良之助・安藤誠之助・真田四郎・玉川壮吉・上岡丹次等、究竟の若者ども十四、五人ばかり、はらはらと踊り出、「いで、目に物見せん」と手に手に鉄炮を持ちて、塀の陰より打出せば、続て、小橋友之助・酒井正之助・斎田三郎・津田愛之助・半田紋吉等、彼是二十人計り、越前勢の真中へ無二無三に打掛けるにぞ、越前方忽ち十二、三人ばかり打倒され、此炮丸をささへかねしに、又北墻の穴門の方より真木菊四郎・千屋荒蔵・武林八郎等打てかかりければ、越前方、又たまり得ず、持場を捨て逃はしる折から、桑藩兵頭八左衛門。筑間市左衛門・松浦秀八・新井常次等、彼是百人ばかり走来り、斯と見るより越前方へ応援せしかば、越前方は是に力を得て備へを立直し、桑・謁一手になり攻討程に、長州方、益々憤怒して、若杉弘之進・田村俊三郎・小坂小次郎・松田五六郎・佐藤太四良・那須俊平・大崎幸之進・清岡半四良等、追々に討て出、千変万化戦ひければ、官軍方散々に切まくれ、討死・手負少からず。軍敗れて逃はしれば、長州方、勝に乗て追廻り、此勢に凝花洞へ乗入んと勇みすすみける所へ、井伊掃部頭直憲、洛東頂妙寺の本陣を発して、ハ百余人の大軍を引率し、此所へ走加はり、木股土佐の一隊は、後備として北の方にひかへたり。越前方よりも山形三郎兵衛の一隊走加はり、勝ほこりたる長州勢に討てかかりしかば、又越前勢・桑藩も引返し、二藩一手になりて戦へども、長州方は事ともせず

 表門を固められた長州兵は鷹司邸北側の築地にある穴門より出て東殿町を占拠し、越前藩を一時駆逐したことが分かる。上記の加太の講演によると、鷹司邸の西北には桑名藩と彦根藩が固めており、特に西殿町に詰めていた桑名藩は、「地物の據るへきものがありませぬから鎗のみにて銃をもちませぬ、士分隊は一時九条邸の塀に據り附いて敵の銃丸を避け、又足軽は其北側の五条千種等公卿の構内に入り丸を込めては交々門を出てて打ちました」という状況だった。五条邸と千種邸は西殿町の東角に位置するので、東殿町と鷹司邸の北西築墻に対抗する拠点となっていた。
 このまま膠着状態が続いたが、桑名藩の赤松茂、伊藤繁、須藤勝治の三人が鷹司邸北西の四つ辻に討って出て刀槍での戦いを挑んでいる。各人数人の敵を斃したものの、三人ともこの地で討死している。「幕末維新全殉難者名鑑」によると桑名藩は甲子戦争で四人の戦死者を出しているが、その内の三人がこの四つ辻の戦闘で亡くなっている。このようにして戦いの決着はつかず、午の刻(12時)まで続く。

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京都御所 建礼門

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