文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 鷹司邸跡 その3

京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その3 2010年1月17日訪問

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京都御苑 鷹司邸跡

 堺町御門での戦闘を決したのは、やはり火力であった。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には下記の様に記している。

凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲が一門備えてあった。わが人砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒隊と手はずをきめて、鷹司邸の西北角から攻め入ることを約束した。
十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門扉をうち破り、野村秀次郎らが門内に突入して、門内から扉をひらき、わが衆はことごとく邸内に進入した。大砲の打手たちも、同時に邸内におどり込んだ。
賊は狼狽して敗走した。

 ドエム(duim)はオランダの長さの単位で、センチメートルの旧称。十五ドエム砲とは口径15センチメートルの大砲のことである。当時の一般的な大砲とされる四斤山砲が口径86.5mmで砲弾重量4kgを使用したことからも15ドエム砲の大きさが分かるであろう。ただし十五ドエム砲の名称は「京都守護職始末」のみのようである。北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))には、そもそも会津藩が鷹司邸に対して砲撃した記述が見られない。

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真木・久坂軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 また青山霞村の「山本覚馬」(同志社 1928年刊)には以下のような記述が見られる。

長軍は遂に予定通り、三道から京都へ進撃して来た。伏見の軍は伏見街道で敗退し、嵯峨の軍が市に入つて茲に蛤御門の戦闘となり、勝に乗じて御台所御門の前まで迫つて来たが、説軍の為に横撃せられて、退いて鷹司邸に立籠つた処へ、山崎の軍も進んで来て此れに加つた。会津越前彦根諸藩の兵が此を囲んだが四方壁が高いので容易に抜くことが出来なかつた。先生はそこで砲兵隊を指揮し、壁の角に向つて滑腔六斤砲を連発し、暫らくの間に此を破壊したので、諸兵はそこから突入してこれを陥れることが出来た。

 まさに「八重の桜」で描かれた一場面の通りである。ただし「山本覚馬」には蛤御門の戦いについての記述がないので、覚馬が来嶋又兵衛を狙撃したというのはNHKの脚色であろう。
 越前藩の「続再夢紀事」では下記のように記している。

我大砲は今朝よりの戦に弾薬を打尽しけれは会津藩の陣所に至り大炮を借来り此時会津藩の士野村左兵衛二十四斤炮一門を曳かせ来る築墻の一隅を打崩し兵士等邸内に打入り此時会津藩の兵士も共に討入れリ同時に表門よりも我藩の兵士等同じく討入しか敵の残兵等敢て迎へ戦ハむとはせす落行けり斯て忽ち邸の一隅より火起り漸次延焼して殿宇残りなく焼亡しける

 野村左兵衛は会津藩士で長沼流を修め軍事奉行となった人物。甲子戦争後に京都会津藩筆頭公用人に昇進しているので、戦争時に大砲隊を率いていてもおかしくはないだろう。二十四斤砲とは砲台に設置する巨砲であり、これが「京都守護職始末」の十五ドエム砲と一致するのかもしれない。なお、「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀 二」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))に所載されている7月23日に提出した「松平越前守殿御家来差出候接戦之次第届書写(閥下騒擾始末二 54)」にも「大砲玉薬も不続候に付、松平肥後守様江御加勢申入候処、御家来野村左兵衛大砲引連、鷹司殿築地打崩し、越前人数小砲を以仕寄せ乗入候処、敵逃去候哉、其以後井伊家御人数よりも大砲打懸、其内火の手上り、敵全く敗北仕候哉」とあるので、会津藩の応援は野村左兵衛であったことは確かであろう。

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京都御苑 凝華洞 2014年10月8日撮影

 最後に「元治夢物語」の記述を見る。

此時、唐門の軍終りて、長州方、悉く宮中を逃去しかば、北の方より会津方多数加はり、隊長野村左兵衛、御花畠より大炮四、五門引て、鷹司殿の角を目当に一発しければ、塀くづれて、此所に下知してありし長州の隊長若杉弘之進、此炮先に中りて即死す。斯る所、又西の方より薩州勢、多人数走加はりければ、一橋殿にも自ら御出馬にて、四、五百人引率し、此所へ押来たり

 ここは鷹司邸の西北築墻を砲撃によって破壊する場面である。ここでも砲撃を指揮したのは会津藩士・野村左兵衛となっている。それでも鷹司邸は直ぐには陥落しなかった。公卿共に長州との和睦を言い寄られた一橋慶喜が、長州兵を完全制圧するために鷹司邸へ火をかけることを命じている。このことが後に戦闘後に生じた京都の大火につながり、その怨嗟が会津藩に向けられることとなる。「官武通紀」の「京都出火焼失家数調書写(閥下騒擾始末二 79)」によれば、八百十一町と一村一ヶ村、二萬六千九百二十四軒の焼失とされている。この様な大火となったのが全て鷹司邸焼き討ちだけでなく、河原町の長州藩邸の自焼や敗残兵掃討における放火なども含まれていた。それにもかかわらず、その殆んどが会津藩によって行われたように言われたことに、京における会津藩ならびに幕府自体の人気の無さに拠っている。鷹司邸に対する焼き討ちは下記の様に行われた。

官軍悍り立、鷹司邸の寝殿の屋根へ破裂玉を頻りに打掛れば、忽ち猛火さかんに立上り、殿内一面に煙充て、遠近分たず。又、近辺の町家へも、此所彼所放火して燔立れば、四方より火攻となり、其上官軍充々て、前後左右より鉄炮・大銃打かけければ、長州の残兵益々憤激し、心は矢たけにはやれども、殿内所々に火おつり、黒煙りにむせび、息さへならず。「今は叶はじ」と観念し、「さらば、いさぎよく打て出、禁閥の内に尸を留めん」と覚悟を極め、必死と成て打出たり。

 この後、「元治夢物語」では久坂玄瑞の言に従い、真木和泉、松山深蔵、品川弥二郎等が最後の脱出を図る場面が記されている。

真木和泉・松山深蔵・品川弥九郎等の隊長の者は、久坂等の言に従ひ、「彼是と時刻をうつし、今此所に命を捨て、何の益かあらん。一先此地を退き、伏見・嵯峨の手と一手になり、盛返さん」と、諸士を集め、一度にどつと打て出、一方を打破り、逃れ出んとせしかども、表門の方には一橋・薩州・会津方充々て、大勢押寄、大炮を数多差向、銃隊の兵士は筒先をそろへ、逆賊をそしと待掛たり。又裏門の方には、井伊家の士、貫名筑後・新野左馬介、是も同く多勢を卒し、「門内より打て出なば、只一撃」と待居たり。斯の如く鷹司殿の館を十重二十重に取囲み、片端より燔立ければ、長州方は籠中の鳥の如くに見へたりしが、斯る所へ長州方は裏門をさつと押開き、松山深蔵・池尻茂四郎・松田五六郎・入江八千兵衛・三輪木工之助等を始として、其他の人数、一度に打出しが、此勢ひに官軍色めく所へ付入、大炮二門うばひとり、筒先を返して打放せば、彦根藩、矢庭に四、五人撃倒され、備へ乱れて敗走せり。長州、得たりと無二無三に切立、突伏、難なく敵中を切抜、漸く一方を開きつつ、心々に落行、尚も嵯峨・伏見の手に応じ合、再挙を計らんとなしけれども、国司が手も破れ、信濃も行方知れずと聞へ、伏見の手は深草にて大垣勢に食止られ、福原も如何成しや詳ならず。又、河原町の藩邸には留守居乃美織江味方の軍破れ氏と聞て、「時を過さず官軍押来りなば、とても防戦叶ひ難し」とや思けん、内より自焼せしと見へて、黒煙天に沖り、炎さかんに立上り、味方の諸手、何れも利を失ひければ、「今はかなし」と皆山崎さして落失けり。左れば此手の軍、諸手に勝りて強かりければ、卯の中刻に始まりて、巳の下刻に終れリ。

 堺町御門の戦いは卯の中刻(5時半)頃に始まり巳の下刻(10時半)には終っている。この「元治夢物語」の記述は誤っているように思われる。「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))には鷹司邸内外の戦いは、卯の半刻(11時前)より始まり午の刻(12時)にはまだ勝敗が決していなかったと記しているの、もう少し終結までに時間を要したことと思われる。

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京都御苑 宜秋門 公家門前の戦闘が行われた場所

 さて馬場文英の「元治夢物語」を読んで行くと、勇猛果敢な長州兵が数の上では勝るものの烏合の衆であった諸藩守衛隊を散々に打ち負かしたようにも取れる。しかし実際には福原・国司そして真木・久坂軍は本望を遂げることなく撤退を余儀なくしている。三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)に従うならば、伏見からの福原越後軍が700(「元治夢物語」では500)、嵯峨からの国司軍が900そして山崎からの真木・久坂軍が500だった。総勢2100余名に対して、守衛側も会津藩は八月十八日の政変と同じく1500、薩摩藩も直前かに国許から到着した兵を加え1500、これに越前、桑名、彦根そして一橋の兵を加えれば圧倒的な兵員数となる。しかし防御線上の各所に兵を配置する為、全数で御所一帯を守衛していた訳ではない。その上、各藩毎に軍制が異なり、装備の火器にも違いが生じている。今回の戦いで、薩摩藩の活躍に比べ戦死者が非常に少ないのには、その火力の高さにあったと考えてよいだろう。これに対して会津藩や桑名藩に戦死者が続出したのは、装備の西洋化が遅れていたと考えるしかない。

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京都御苑 蛤御門 最大の激戦地
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京都御苑 蛤御門

 今一度、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)を使い、甲子戦争の戦況を見て行く。「幕末維新全殉難者名鑑」の禁門の変の項は、「長州藩当日戦死 158人」、「長州藩後日死亡 94人」、「長州側他藩 29人」と「守衛側会津藩 58人」、「守衛側福井藩 20人」。「守衛側彦根藩 11人」、「守衛側薩摩藩 8人」、「守衛側桑名藩 4人」、「守衛側淀藩 2人」、「守衛側幕府兵 3人」に分かれ、それぞれ氏名、諱、出身、死亡日、年齢、墓所等が記されている。これには「長州藩江戸邸没収 53人」や「天王山玉砕 17人」そして「長州恭順 24人」を含まない。特に「長州藩後日死亡」の94人の内、23人が牢での斬首、61人が獄死と捕獲後の処置によるものだ。この84人を除く、197人が戦死者及び戦場で負傷したことによる傷病者となる。これに対する守衛側の戦死者と傷病者の合計は106人で、長州側の半数程度となっている。つまり長州側が勇猛果敢に善戦したものの数の上で破れたというよりは、守衛側に包囲され殲滅されたということが事実であったと思う。当然ながら敗戦した方が、負傷兵に対する処置が出来ずに戦死率があがるのは当然ではあるものの、総数2100人の内の10%弱が戦病死したということは大敗と云ってもよいだろう。
 さて守衛側を見ると、やはり会津藩の戦死者数が群を抜いている。これは蛤御門と唐門前の戦いでの損失によると見てよい。この2箇所の戦いがいかに凄惨なものであったかが伝わる。会津藩に次ぐのが福井藩すなわち越前藩の20人で、これも堺町御門と鷹司邸での戦いによっている。そして既に触れたように会津藩と匹敵する戦力を投入した薩摩藩の戦死者が僅か8人であったことが驚異的である。火力の優位性が戦死者を抑えたということ以外にも、大砲及び小銃隊を前面に展開し相手を追い立てる戦術が効を奏したのかもしれない。

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京都御苑 清水谷家の椋
来嶋又兵衛が戦死したと云われる場所 2014年10月8日撮影

 次にどの戦いにおいて戦死あるいは負傷したかについて分類すると、攻撃側及び守衛側共に「禁門の変」あるいは「」、「京都市内」という戦い場所を特定出来ない者の数が半分近くを占めている。攻撃側197人の内93人が「禁門の変」等である。その他「藤森」、「伏見街道」、「竹田街道」等の福原越後軍での戦死者が13人。そして「中立売御門」12人、「蛤御門」24人、「醍醐邸」他が7人と国司信濃軍に関連する部署での戦死者が43人と高い。そして真木・久坂軍の「堺町御門」及び「鷹司邸」が29人と国司軍に次ぐ。しかし真木・久坂軍は国司軍の半数程度だったことを考えると、堺町御門での戦いが守衛軍の圧倒的な戦力の前に消耗戦を強いられたことが分かる。またさらに「天王山玉砕 17人」を加えると国司軍に匹敵する数値になる。
 守衛側の戦闘箇所別の戦死者数も「禁門の変」の59人がほぼ半数を占めている。「伏見街道」での戦死者は計上されていないので、この方面での戦いは福原軍が何もできずに撤退して行ったという印象が強い。国司軍に対する戦闘での戦死者が32人と一際高いものとなっている。特に「唐門」で14人「蛤御門」で13人とこの2つの戦いに会津藩の戦死者が集中している。そして真木・久坂軍に対した戦闘での戦死者数は15人と攻撃側の29人に対して、それほど高くない。「元治夢物語」の描写のようにバッタバッタと守衛側を斃していったということは数字からは見えない。恐らく守衛側は新鮮な戦力を入れ替わり立ち代り出す事で、相手の損失を高めていったのであろう。

 戦死者の数字からこれらの戦況が見えてくる。

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京都御所 南側築地前 2014年10月8日撮影

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