錦市場
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問
四条堺町通の市原平兵衞商店から四条通を越え、堺町通を北に進むとすぐに京の台所、錦市場のアーケードに当たる。昭和38年(1963)に京都錦市場商店街振興組合が設立し、現在では寺町通から高倉通までの全長390メートルの道沿いに生鮮食品を中心とした約130の店舗が並ぶ。
東側は寺町に始まり、西は大宮西入るまでの部分に道が作られたのは延暦年代(782~806)のことだと言われている。もと具足を売る店が並んでいたため、具足小路と呼ばれていた。その後訛って、くそ小路と呼ばれたこともあったらしい。
宇治拾遺物語の第19話 清徳聖奇特の事の説話の中にはその由来に関するものが載っている。
昔、清徳聖という聖がいた。母親が亡くなったので、亡骸を納めた棺を愛宕山に運び、寝食を忘れて3年間念仏を唱え続けた。すると「お前の上げてくれた念仏のおかげで成仏できた」という母親の声が聞こえたので、棺を焼き、骨を集めて埋め、その上に石の卒塔婆を建てた。
京へ戻る途中、お腹が空いてたまらなくなった清徳は、田のふちの水葱を何本か食べてしまった。信心深い農家の主は、聖が生の水葱を食べているのを見て、どうぞ好きなだけ召し上がれと勧めた。清徳は飽きることなく三町歩もある田の水葱を全部食べてしまった。農家の主は驚き米一石を炊いて運んで来た。清徳はこれも全て食べ、礼を言って都の中へと向って行った。
農家の主は役所に事の次第を届けたため、時の右大臣 藤原師輔の知るところとなり、清徳は邸に連れて来られた。師輔には清徳の後ろに餓鬼・畜生・異形の者が連なっているのが見えるが、他の役人や町の人々には清徳ひとりしか見えなかった。師輔は家来に命じて米十石を炊かせた。師輔の眼には、清徳は一口も食べず異形の者たちが貪るように食べる光景が見えた。真の聖、仏が身を変えてお出でになったと師輔は感じ入ったが、他の者には 清徳ひとりが食べているとしか見えなかった。
師輔の邸を出た一行は、四条通のひとつ北の道へ入った。清徳の後ろの者たちは水葱と御飯で膨れたお腹からいっせいに屎をたれ、何処ともなく去って行った。町の人々は汚がって、この通りを くその小路と呼ぶようになった。
この話が広まって、天皇の御耳にも入ることとなった。天皇は御付きの者に四条のひとつ南の通りが「綾の小路」ならば、ひとつ北の通りを「錦の小路」と呼ぶようにと申し付けた。
天喜2年(1054)に後冷泉天皇の宣旨によって、具足小路は錦小路に改称された。
この記事へのコメントはありません。