洛中の町並み その7 富小路通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問
南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。
麩屋町通の1本西側の通りが富小路通で、丸太町通から六条通までの約2.8キロメートル。もともとの平安京の富小路を麩屋町通と呼ぶようになり、その西側の道を富小路通とするようになった理由は良く分からない。江戸時代には鍛冶屋、目貫小柄屋、白皮屋、塗師などの職人衆が多く住んでいたと言われている。
丸太町通から車屋町通に入り夷川通を過ぎると、京の町並みには不似合いな尖塔が現れる。京都ハリストス教会の生神女福音聖堂が、この地に建設されたのは明治34年(1901)のことであった。
生神女福音聖堂は木造平屋建で下見板張の建物。建築様式はロシア・ビザンチン様式で、幅15m、奥行27m、総高22m。玄関、啓蒙所、聖所、至聖所が一直線に並んで聖所を中心にして平面的に十字架を形成していることが航空写真からも確認できる。
京都ハリストス教会の南側には、富小路通から柳馬場通まで突き抜けている富小路殿公園がある。あまり大きな銀杏の木が植わり、気持ちの良い公園となっている。前回ここを訪れた際、俄か雨にあい、大樹の下で雨宿りした思い出がある。密集した洛中にあってエアポケットのように存在する富小路殿公園は、公園内にある京都市立商業実修学校跡の碑から、昭和23年(1948)の新学制により廃校となった学校の跡地であることが分かる。商業実修学校は明治33年(1900)京都府立簡易商業学校として始まる。翌年京都市に移管され京都市立簡易商業学校に、そして明治40年(1907)にはさらに京都市立商業実修学校と改称される。そして商業実修学校がこの地に校舎を移転したのは明治41年(1908)のことである。その後昭和11年(1936)右京区西院馬場町に新築移転して市立四条商業学校と改称されている。 公園の北側には富小路通に面して旧京都府中京庁舎が建っている。京都市立御所南小学校グランド用地となるため、既に解体が始まったかもしれないが、この建物の北端に二条富小路内裏址の碑があるように、この地は,鎌倉中期に西園寺実氏の邸宅の一つ冷泉富小路殿があった。正元元年(1259)閑院内裏焼失すると後深草天皇の皇居となり,その後も上皇・天皇の御所として頻繁に使われたようだ。しかし再び起きた徳治元年(1306)の火災以降は再建されないままであった。正和元年(1312)鎌倉幕府から造内裏費用が献上され、平安宮内裏の殿舎構成に准じた里内裏が建設された。これが二条富小路内裏で,のち20年にわたり花園・後醍醐・光厳天皇の内裏となった。しかし建武3年(1336)建武新政崩壊による戦乱で再度焼失する。
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