大徳寺 大仙院
大徳寺 大仙院(だいせんいん) 2008年05月19日訪問
瑞峯院を出て、興臨院の前を通り、勅使門の横に出る。そのまま山門、仏殿、法堂そして本坊の西側を北に向かい進むと、正面に芳春院、右に大仙院と真珠庵が並ぶ。大仙院は常時公開している塔頭ではあるが、写真撮影不可である。そのため庫裏に入るところまでしか記録が残っていない。一番最初に大仙院を訪れたのは中学校の修学旅行の時であったように記憶している。前の住職である尾関宗園氏が昭和40年(1965)に33歳で大仙院12世住職・桃林宗園禅師となった頃のことである。ともかく大きな声で叱られる様に感じるほどの講話を頂いたことは鮮明に記憶している。あまりにも強烈な印象は残ったが、どのような内容のお話しであったかは全く覚えていない。今改めて大仙院の公式HPを拝見すると、意気の道場大仙院とある。まさに昔出会った尾関和尚は、その体現者であった。それ以来大学を卒業するまで何回か訪問し、庭園を撮影したように記憶している。大仙院も、その頃はまだ撮影が許可されていたようにも思う。
大仙院は、永正6年(1509)大徳寺76世古岳宗亘(大聖国師)によって創建されている。既に龍源院の項で触れたように、大徳寺の法脈では北派の本庵となっている。
古岳宗亘は寛正6年(1465)近江に生まれ、国守六角高四頼の実弟とされている。大徳寺56世實傳宗眞の法を嗣ぎ、大徳寺76世となる。後柏原天皇、後奈良天皇の帰依をうける。また堺に南宗庵(後の南宗寺)を開いている。天文17年(1548)84歳で死去。諡号は仏心正統禅師、正法大聖国師。
古嶽宗亘は詩文や筆も達つ人であったようだ。西桂著「日本の庭園文化 歴史と意匠をたずねて」(学芸出版 2005年)では、古嶽宗亘が大仙院庭園を作庭したことを、弟子の驢雪が師の没後に撰した「故大徳正法大聖国師古嶽和尚道行記」に求めている。
「禅余珍樹を植え、怪石を移し、以て山水の趣を作る。猶霊山和尚の如し。所謂先聖後聖揆を一にするのみ」
徳禅寺を作庭した霊山和尚に倣い、古嶽和尚も大仙院の作庭を行ったとしている。小野健吉著「日本庭園 空間の美の歴史」(岩波新書 2009年)でも先の「古嶽和尚道行記」をあげた上で、室町時代の公家・鷲尾隆康の日記「二水記」の享禄3年(1530)5月14日の記述に注目している。
「大全(大仙)の庭これを見る。近ごろ見事なり」
とある。大仙院の開創が永正6年(1509)とすると、その20年位後の記述であり古嶽和尚存命中のものである。現在、大仙院庭園は古嶽和尚が有力な作庭者とされているが、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、大仙院の創建と庭園について下記のような記述が残されている。
「(北)大僊院〔正法大聖禅師古岳宗旦和尚塔所、本山の北にあり。故に北派といふ、永正年中に建〕
庭中名巌 有二十員 林泉 相阿弥作」
相阿弥は室町後期足利将軍家の同朋衆の一人で、絵画制作、書画の鑑定、座敷飾の指導、連歌など幅広い技芸に携わっている。また多くの庭園の作者にも擬せられている。同じ都林泉名勝図会には方丈障壁画のことも触れている。
客殿中ノ間 墨画山水 相阿弥筆
礼ノ間 墨画耕作 狩野雅楽助筆
檀那ノ間 彩色花鳥 古法眼筆
衣鉢ノ間 墨画祖師之図 同筆
大書院 朱買人西王母大公望 同筆
古法眼とは狩野元信のことであり、相阿弥と共に手がけていたことが分かるが、最も格式の高い室中を相阿弥、他の部屋を狩野派が描いていることから両者の格式の上下関係が推測される。方丈障壁画を描いたことから相阿弥が大仙院庭園を作庭していてもおかしくない事となる。これらの絵画は永正10年(1513)に制作されたと考えられている。これは西和夫著の「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年)でも触れているように、方丈の棟札によって方丈の建設時期が特定されている。
しかし同書では最初に建設された衣鉢の間の奥行きは一間であったとし、現在の一間半の奥行きは天文4年(1535)に行われた増築の時に拡張されたと考えている。そして衣鉢の間に描かれている狩野元信の壁画は一間半の奥行きに合わせて描かれているとしている。つまり狩野元信が大仙院の方丈壁画を描いたのは天文4年(1535)以降のことと推定している。
もし相阿弥による壁画の制作と作庭が同時期のことで、方丈増築以降のこととすると、先の鷲尾隆康の「二水記」の記述より後の事となる。
現在の大仙院庭園は、方丈の四周を巡るように造られている。しかし方丈南庭を除くと、古嶽和尚が造ったとされている庭は方丈の東北隅を中心とした北東面と東面である。この場所には付書院を備えた大書院、その西隣に寝室と納戸である眼蔵が作られている。つまり方丈本来の用途である住居がこの東北の角に入れられ、その書院から座って鑑賞できる庭として造られている。そのため、この庭は座観式庭園と呼ばれ、枯山水庭園の嚆矢とされている。
先にあげた小野健吉著「日本庭園 空間の美の歴史」(岩波新書 2009年)では枯山水の成立を3つの要因に求めている。
第一の起源を作庭記に求めている。平安時代に書かれた日本最古の庭園書である作庭記の作者や編纂時期については諸説がある。寝殿造の庭園に関することが書かれ、意匠と施工法を全て文章で記している。この作庭記には、
「池もなく遣水もなき所に石を立つることあり、これを枯山水となづく。その枯山水の様は、片山のきし、あるいは野筋などをつくりいでて、それにつきて石を立つるなり。」
ここでの枯山水は、池を中心とした寝殿造庭園の一部分に使用された手法である。片側が切り立った築山の麓や帯状に作られた地形のアンジュレーションの裾に造られた石組などを指し示すもので、現在のように白砂の上に築かれた石組を呼ぶものではなかった。既に平安時代から使われてきた枯山水が現在のような姿となったのは、室町時代前期のものであったと推測されている。夢想疎石が築いた西芳寺の洪隠山や天龍寺の龍門瀑の石組は、自然景観を再現した庭園の中において、十分に独立した石組と成り得る抽象性を持ちえていた。このような先駆的な試みによって、室町時代中期頃に様式としての成立を迎えたと考えられている。
第二の要因として、考えられるものは中国山水画の伝来である。足利幕府初代将軍の足利尊氏が創設した天龍寺船による日元貿易に始まり、3代将軍足利義満の明との勘合貿易により、唐物と呼ばれる書画。陶磁器の輸入が増加する。また当時中国に渡った禅僧達は本場で鑑識眼を磨いた上で、唐物を日本に持ち帰り自らの禅房に飾っていたと思われる。山水画には限られた紙幅の中に千里の景を収める「咫尺千里」という縮景の理念、画面に描き込まれないものについては何も描かない「残山剰水」の技法によって成り立っている。敢えて雲や霧、霞、靄などによる何も描かない余白を残すことで見る者の想像に委ねることにより、目の前には広大な景色が現れてくる。15世紀中頃の禅宗寺院庭園はこの山水画の理念を三次元化することに向かって行ったとも言える。
相国寺鹿苑院内蔭涼軒主の日記で、永享7年(1435)から明応2年(1495)までを記録した「蔭涼軒日録」の文正元年(1466)3月16日の条には、善阿弥が蔭涼軒内の睡隠軒の庭に池を作らず「小岳」だけを築いたものを第8代将軍足利義政が見物したことが残されている。善阿弥は相阿弥と同じ将軍家の同朋衆であり、河原者でありながら庭師として重用されている。
「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯礀、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」
という賞賛が残されている。恐らく善阿弥の造った庭は現在の枯山水に近いものであったと思われる。大仙院の庭が造られる40年以上前のことであった。
第三の要因は盆景などの室内飾りの影響である。盆景とは盆栽に石などを置いて山水を写したもの。あるいは水盤の上に土をこねて山や岩を作り、色砂で海などを表し自然の風景を写したもの。この時代、盆景は室内の飾り付けでありながら、もてなしの装置でもあった。水を使わずに山水を表現する手法と盆景を鑑賞する風習は、枯山水の発達への最後の一歩であったとも言えるだろう。
大徳寺本坊を過ぎると、大仙院と真珠庵に続く道が東に走る。この道の北側には大仙院の方丈南庭があるが、手前にある鬱蒼とした樹木で方丈屋根も見ることが出来ない。道の途中で小さな門らしきものがあるが、入ることが出来ない。そして真珠庵の表門の前を左に曲がると、大仙院の表門(一の門)につながる参道が始まる。表門を潜ると左に方丈玄関、右に庫裏の玄関が現れる。庫裏の中に入ると撮影不可となるので、ここが撮影の限界線となる。
平成19年(2007)12月から国宝方丈の屋根の葺替え工事が始まっている。銅版葺きの屋根を創建当初の檜皮葺に戻す工事であり、大仙院を訪問した2008年5月の頃は既に方丈の上部に仮設の屋根が作られ、方丈の中から上を見ると薄暗い小屋組みの中から光が見えていた。恐らく銅版の屋根が剥がされ、天井板も撤去されていたのであろう。普通では見ることのできない光景ではあるが、工事の真っ最中に訪れたようだ。国宝方丈を見学した後、礼の間から庭園に出る。仮設屋根の柱脚が庭園に落ちてきているため、通常の庭とは異なった光景となっている。
庭園の構成は北東部に観音石と不動石と称する二石の巨石立て、その奥に組まれた二段の枯滝の石組を中心としている。枯滝から出た流れは二条の渓谷となり、西と南に向かう。
南に出た流れは石橋の下を潜り川となる。途中に設けられた亭橋は、縮景としての庭園と実体の建築をつなぐために置かれたのではないだろうか?MuimiさんのHP 京都鴨川風光&京都寺社ガイド の大仙院によると、この亭橋は昭和35年(1961)中根金作によって復元されたものである。松平家が所蔵していた文政年間(1818~30)に書かれた絵図(「大仙院石庭起し絵図」 東京国立博物館蔵)に基づいて方丈書院東庭のほぼ中央に置かれている。この亭橋の先は庭全面が白砂となり、既に大河となったことが分かる。名物の宝舟石や宝山石が置かれ、この後は方丈南庭の大きな白砂の海に大河が続くことを想像させながら、庫裏と方丈をつなぐ廊下で庭は終わる。 西に向かった流れは、そのままの川幅を保つ。この流れに沿って座禅石、鞍馬石、独醒石そして仏磐石と名付けられた石が並ぶ。また観音石と不動石の左に鶴島、右に亀島が作られている。この他にも都林泉名勝図会には、次のような名称が残されている。
庭中名巌 有二十員 林泉 相阿弥作
法螺石 布袋石 神鞍石 観音石 沈香石
宝山石 伏虎石 釣舟石 臥牛石 仙帽石
払子石 仏盟石 仏子石 独醒石 明鏡石
不動石 霊亀石 座禅石 真珠石 扶老石
今回は鋼管足場が組まれ、光も入りづらく薄暗い庭となっている。この方丈東北の狭い空間に百石を越す石組が築かれている。前に訪問した時にも感じたように、あまりにも多くのものを詰め込んだ印象が強い。この庭については「残山剰水」がもう少しあっても良いように思う。
方丈北側には拾雲軒と呼ばれる書院があり、方丈との間に書院前庭が造られている。白砂の上に方形の井戸、椿の木、そして石組が拾雲軒に架けられた簾を背景にして平面的に並ぶ。この庭は後の時代になってから作られたものであろうが、方丈庭園の濃密で禅の心を体現する庭を見た後には心地よい。
五冨利憲一氏のHP たたずむ 五冨利建築研究所 の大仙院(http://www.geocities.jp/gobken89/t-060501-daisenin_03.html : リンク先が無くなりました )によると、この庭も方丈庭園の修復と共に昭和29年(1954)中根金作によって造られたとされている。確かに方丈庭園と喧嘩することなく南庭へと自然につながるように作庭されており、そう言われれば納得してしまう。また北書院の拾雲軒は慶長19年(1614)七世大仙院住職の沢庵宗彭によって創建された建物である。方丈の西側の縁側には狭い庭があったように記憶していたが、今回は建替えの説明パネルが掲示されていた。そして大仙院の南庭は、禅宗の方丈南庭の古い形を今も守っている。もともと儀式の場であり、また清浄に保つことが修行のひとつであったのだろう。
江戸幕府は寺院の直接支配を図るため、元和元年(1615)に諸宗寺院法度を制定し、僧録・蔭涼職を廃止している。そして4年後の元和5年(1619)以心崇伝は改めて僧録に任命されると寺院諸式を改正するとともに、自らの金地院の方丈南庭の作庭を小堀遠州に依頼したのは寛永7年(1630)のことだったと考えられている。多くの禅宗の南庭に石組や築山が造られ観賞用の庭となっていくのは、この頃と宮元健次氏は著書「日本庭園のみかた」(学芸出版 1998年)で説明している。恐らく崇伝の南禅寺は早かったが、大徳寺や妙心寺はそれより遅かったとも宮元氏も同著で推測している。 大仙院の南庭の西南角には沙羅双樹が植えられ、そして方丈手前には盛砂がふたつ造られている。ただそれだけである。高密度な方丈庭園の対極的な空間を作り出している。
大仙院の公式HPに掲載されている歴代住職は以下の通りである。大徳寺世譜を参考にさせて頂きました。
■ 開山 古岳宗亘 大徳寺 76世
56世實傳嗣。天文17年(1548)84才で死去。自号は生茗、茗波、夕巣庵。大仙派祖。
■ 一世 傳庵宗器 大徳寺 88世
76世古嶽嗣。天文2年(1533)51才で死去。自号は懶驢。大仙派。
■ 二世 江隠宗顕 大徳寺102世
76世古嶽嗣。永禄4年(1561)56才で死去。自号は破沙盆、寒蝶子、福壽。大仙派。山内に祥林軒を開く。後奈良天皇より円智常照禅師の号を賜わる。
■ 三世 古渓宗陳 大徳寺117世
107世笑嶺嗣。慶長2年(1597)66才で死去。自号は蒲菴。大仙門下大光派祖。
天文元年(1532)越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。信長の葬儀に導師を務める。秀吉が信長の菩提を弔うため建立した大徳寺総見院の開山。千利休の参禅の師で、大徳寺門前の屋敷に作った四畳半茶室「不審菴」の名は、古渓宗陳が名付けたもの。「不審花開今日春(ふしんはなひらくこんにちのはる)」という禅語からつけられたと言われる。
しかし古渓宗陳は石田三成との衝突を契機として、天正16年(1588)9月4日聚楽屋敷において秀吉の怒りに触れ、九州博多に配流となる。千利休は、春屋宗園、玉甫紹琮、本覚坊同座で送別の茶会を開いている。その後、利休の取り計らいで京へ戻ることができた古渓は、天正19年(1591)豊臣秀長の葬儀の導師を務める。そして同年自刃する前の利休から「末期の文」という財産処分の遺言を託されている。また利休切腹に伴い、大徳寺破却から守ったのも古渓とされている。
大仙院のHPには、醍醐寺三宝院の庭園を築くため、秀吉は大仙院の庭園から庭石を取り上げようとした際、身を投じて防いだという逸話が掲載されている。三宝院庭園は、慶長3年(1598)に行われた醍醐の花見の後に作庭されていることから、この逸話を信用するならば古渓の死後の話しとなる。直接三宝院のためにと言うわけではなく、秀吉の名石蒐集から逃れたということかもしれない。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁している。
■ 四世 仙岳宗洞 大徳寺122世
107世笑嶺嗣。文禄4年(1595)51才で死去。自号は無底籃。大仙派。
■ 五世 蘭淑宗秀 大徳寺140世
117世古渓嗣。慶長4年(1599)死去。大仙門下大光派。
■ 六世 雲英宗偉 大徳寺141世
122世仙嶽嗣。慶長8年(1603)44才で死去。自号は乍住。大仙派。
■ 七世 沢庵宗彭 大徳寺153世
126世一凍嗣。正保2年(1645)73才で死去。自号は冥之・東海・暮翁等。大仙派。
沢庵は天正元年(1573)出石城主山名祐豊の重臣・秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡している。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で出石の宗鏡寺に入り、秀喜と改名している。天正19年(1591)出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いており、沢庵も宗忠に師事する事になる。
文禄3年(1594)沢庵は、薫甫に伴って大徳寺に入る。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し宗彭と改名し、薫甫の死後、和泉国堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事する。先にも書いたように南宗寺は、古岳宗亘の開いた南宗庵に連なる寺院で大徳寺90世の大林宗套が開山している。慶長9年(1604)この南宗寺で沢庵の法号を得ている。慶長12年(1607)沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持している。そして慶長14年(1609)37歳で大徳寺の第154世住持となる。しかし沢庵は名利を求めず、僅か3日で大徳寺を去り、堺へ戻る。
既に大徳寺の項で触れたように、寛永6年(1629)朝廷と幕府が対立する紫衣事件が起こると、沢庵も幕府に反抗し、出羽国配流となっている。寛永9年(1632)2代将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、沢庵の流罪は許される。しかし京に戻るのは寛永11年(1634)のことであった。そして寛永16年(1639)徳川家光は萬松山東海寺を江戸に創建し沢庵を住職として招聘している。正保2年(1646)沢庵は江戸で没している。
■ 八世 紫林宗芳
■ 九世 探玄義達
■ 十世 益州宗進
益州宗進は明治29年(1896)大分県西国東郡上真玉村で生まれる。11歳で滋賀県堅田町祥瑞寺の大友宗忠和尚につき得度。大正4年(1915)建仁僧堂に掛搭。竹田黙雷、竹田穎川両老師に参じ、昭和8年(1933)穎川老師に嗣法する。大正7年(1918)に祥瑞寺住職となる。昭和19年(1944)大徳寺山内大仙院の住職となる。翌昭和20年(1945)大徳寺執事長に就任するが、穎川老師遷化により同年建仁僧堂師家に就任。昭和29年(1954)建仁寺派管長に就任。平成元年(1989)死去。
■ 十一世 南岳恵京 大徳寺517世
■ 十二世 桃林宗園(尾関宗園)
前住職の尾関宗園和尚は昭和7年(1932)奈良県に生まれ、高校3年の時、仏門に入っている。昭和30年(1955)国立奈良教育大学国文学部卒業した後、奈良大和郡山慈光院住職となり、7年間の雲水修行を行う。昭和37年(1962)大仙院・尾関南岳和尚に師事し、副住職となる。昭和40年(1965)33歳で大仙院住職に就任する。
平成19年(2007)大仙院閑栖に就任する。閑栖とは隠居した禅僧のこと。
■ 十三世 良章宗貴(大和宗貴)
現住職である大和宗貴和尚は昭和34年(1959)福岡に生まれ。大阪で育ち、昭和57年(1982)同志社大学卒業し企業に入社した経歴を持つ。平成元年(1989)大仙院で得度し、平成4年(1992)退職し相国寺専門道場で7年間の雲水修業に入る。平成11年(1999)大仙院副住職となり、平成19年(2007)大仙院住職に就任する。
「大徳寺 大仙院」 の地図
大徳寺 大仙院 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | 大徳寺 大仙院 方丈 | 35.0445 | 135.7457 |
02 | 大徳寺 大仙院 方丈庭園 | 35.0446 | 135.7458 |
03 | 大徳寺 大仙院 南庭 | 35.0444 | 135.7457 |
04 | 大徳寺 大仙院 北書院拾雲軒 | 35.0446 | 135.7456 |
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