伏見の町並み その2
伏見の町並み(ふしみのまちなみ)その2 2009年1月11日訪問
旧幕府軍の伏見奉行所跡から、新政府軍の本営である御香宮神社に向かう。伏見奉行所跡の石碑が面する通りの名称は分からないが、京町通と本町通の延長すなわち国道24号奈良街道の間の道を北に進む。この道を歩くと実感することは、御香宮神社と伏見奉行所跡との位置関係である。南北に走る魚屋通から大手筋通まで約100メートル程度。この僅かな距離で旧幕府軍と新政府軍が対峙していたことは、実際にこの場所に立たないとなかなか理解できない。そして宇治川に面していた伏見奉行所から大手筋通に向かって地形は上っていく。この勾配は思った程強くない。むしろ秀吉の築城した桃山城に向かって上る勾配のほうが遥かに強い。すなわち南北方向に比べ、東西方向の方が高台になっていることが一目瞭然である。
この地を訪れる遥かに昔、司馬遼太郎の新選組血風録に収蔵されている四斤山砲を読んで描いていた伏見の地形とはかなり異なったものだ。
新選組幹部の永倉新八の下に師匠にあたると謂う大林兵庫が現れる。近藤と土方は永倉を信用し、兵庫を新選組に迎える。兵庫は洋式訓練にも明るいことを披露し、十郎との砲術試合を行う。この試合で遠くまで砲弾を飛ばした十郎が勝ちを納め、近藤によって隊の砲術師範頭に任命される。そして以前から砲術師範頭を命じられていた阿部十郎は、兵庫に下僚扱いされるようになっていく。そして十郎は伊東と共に新選組から離脱する道を選ぶ。その頃、新八も兵庫の出自に気がついてしまう。兵庫は新八の剣術の師匠ではなく、道場に通っていた象牙職人の倅であった。しかし政治に興味のない新八は、そのことを隊内には伏せていた。慶応3年(1867)11月18日に起きた油小路の変で伊東が暗殺され、七条油小路の辻において御陵衛士の毛内有之助、藤堂平助そして服部武雄が新選組によって殺害される。阿部十郎は篠原泰之進とともに薩摩藩に身を寄せる。そして慶応4年(1868)1月3日、十郎は新政府軍にそして兵庫は伏見奉行所の新選組にあった。そして開戦と共に十郎が撃ち下ろす砲撃はことごとく奉行所内に着弾する。鳥羽伏見の戦いの後、大林兵庫の行方不明になる。
細部に誤りがあるかもしれないが、確か上記のような粗筋だったように記憶している。近藤も土方もそして永倉新八も阿部十郎も実在する人物である。そして大林兵庫は司馬の創作である。この作品に兵庫の存在を持ち込むことによって、阿部十郎という印象の薄い隊士の姿が活き活きすることとなった。そして新選組内の内紛がある程度分かりやすくなったのではないだろうか?しかしそれ以上に、御香宮神社に陣取った薩摩軍砲隊からは伏見奉行所の中で行われていることが手に取るように見えたというイメージが強く残っている。そして、どうしてそのような不利な位置関係で戦いが始まったのか?という疑問が強く残った作品である。今から考えると、恐らく阿部十郎たちは桃山の東斜面上にある龍雲寺のあたりに配備された砲兵隊に属していたのであろう。御香宮神社の表門前からは、塀を築いた奉行所内は見えない。
Syoさんの伏水街道コラムの中に掲載された「両軍伏見市街戦概要図」を見ると、両軍の配置状況、進軍と退却方向そして戦火による焼失範囲が分かる。奉行所の内部はもちろんとして、奉行所の北側と東側の表示が濃いのは奉行所内に突入するための新政府軍と旧幕府軍の攻防によって発生している。そして魚三楼 その2の項で、記したように大手筋通上の西側から土佐藩、長州藩そして薩摩藩の小銃隊が並び、旧幕府軍の北上を防いでいたため、大手筋通より南、さらに魚屋通あたりから先の部分の焼失が増えてくる。また会津藩の本営があった東本願寺伏見別院の周辺から寺田屋にかけては、ほぼ全焼に近い状況であったことが分かる。
この記事へのコメントはありません。