安楽寿院
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん) 2009年1月11日訪問
御香宮神社の山門を出て、大手筋通を西に下っていく。近鉄京都線桃山御陵前から乗車し、竹田駅で下車する。ここから安楽寿院へ徒歩で向かう。安楽寿院は通常非公開の寺院であるが、今回は第43回京の冬の旅で特別公開となっている。本日訪問した東寺は、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の本営となり、東福寺の退耕庵は長州藩の本営であり、後に菩提所となっている。そして伏見奉行所は旧幕府軍の伏見方面の本営であり、御香宮神社には新政府軍が駐屯した。このように洛南の地には鳥羽伏見の戦いに関係するものが点在している。そういえば、油小路事件や天満屋事件、そして不動堂村屯所にしても、この鳥羽伏見の戦いの僅か3か月位の間に生じた事件とそれに関係した場所である。
ちなみに本日訪問した東寺の五重塔と観智院そして退耕庵も京の冬の旅による特別公開である。
近鉄京都線竹田駅を出て、京都線の高架を左手に見ながら低層のマンションが立つ町並みを南に下っていく。道の右手に広々とした更地が現れ西側の眺望が開けると、木立の中に安樂壽院南陵の多宝塔が見える。これに合わせて西側に曲がり進むと安楽寿院の門前にたどり着く。現在、安楽寿院は真言宗智山派の寺院で山号はない。安楽寿院の創建の歴史を遡ると、平安時代末期に造営された鳥羽離宮に辿り着く。
もともと鳥羽は水郷が広がる風光明媚な場所だったため、狩猟や遊興の地としての開発も行われてきた。平安時代前期には賀陽親王の別業や藤原時平の鳥羽別業・城南水閣が造営されている。さらに平安京の南約3Kmに位置し鴨川と桂川の合流地点であることから、鳥羽は平安京の外港としての機能を持ち合わせていた。水路は淀川を経て大阪湾そして瀬戸内海へ通じ、平安京への物流の大動脈として大いに利用されてきた。さらに山陽道が通るといった陸路の要衝でもあった。
貞観14年(872)に作成された「貞観寺田地目録帳」では鳥羽の地名が登場しているし、承平年間 (931~938)に編纂された辞書「和名類聚抄」では止波/度波という訓が残されている。この頃より鳥羽は平安京の南の要衝として開発が成されてきたと思われる。そのため延暦13年(794)の平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長して鳥羽作道が作られている。水路で運ばれてくる物資の多くは鳥羽の港で陸揚げされた、この道を陸送することで平安京に到達していた。鳥羽作道については、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の鳥羽で下記のように記されている。
「四ツ塚より鳥羽に至る、今の道にあらず。四ツ塚より半町ばかり東に、羅城門ありて是より鳥羽に至る街道筋なり。今堀川の下流の東に一壇高き細路あり、これ作り路の遺跡なり。今の封疆薮は秀吉公の時作れるなり」
1町は109.9メートルだから、四ツ塚よりおよそ55メートル東に羅城門と朱雀大路があったとしている。現在の千本通はかつての朱雀大路とされており、確かに羅城門遺址から南に千本通が続く。(もっとも羅城門の遺構自体が見つかっていないが)国際日本文化研究センターに所蔵されている明治42年(1909)に作成された京都市実地測量地図を見ると、真中の川を挟んで西側と東側の道が並行して上鳥羽まで続いているのが分かる。西側の鳥羽街道は現在の千本通と一致するように見える。そして東側の道が、拾遺都名所図会の謂う「今堀川の下流の東に一壇高き細路あり、これ作り路の遺跡なり。」であろうか。そして、「秀吉公の時作れるなり」とは、伏見城築城の時に巨椋池に堤をめぐらせ交通体系を整備したことを指している。現在の下鳥羽・納所間の桂川左岸に堤を築き、鳥羽街道のルートを開いている。 また伏見からの淀堤の道と納所で合流し淀小橋を渡り、淀城下を経て、淀大橋を渡り淀川左岸に沿って大坂へ向かうという道も合わせて開かれている。
応徳3年(1086)白河上皇は藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して南殿を城南宮の地に造営している。京都の地名 検証2(京都地名研究会 2007年刊)によると、この造営は、平安時代の私撰歴史書・扶桑略記の応徳3年(1086)10月の条に以下のように記されている。
「五畿七道六十余州、皆共課役、池を堀山を築く」
「池広南北八町、東西六町、水深八尺余有り」
1町はおよそ1平方キロメートルであるから、南北に8キロメートル、東西に6キロメートルとなる。平安京が南北5.2キロメートルの東西4.5キロメートルであったことと比較すると、扶桑略記を信用するならば、平安京を凌ぐ規模であったことが分かる。
そして12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により、院御所として使用されてきた。南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所が建設され、寺院や広大な池を持つ庭園も築かれている。さらに院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至る宅地が、鳥羽殿周辺に与えられたため、あたかも新しい都が出現したかのようだった。先にも触れたように白河上皇による南殿建設に始まるが、その大部分は鳥羽上皇の代に完成されたとされている。
■01 南殿(証金剛院)
応徳3年(1086)白河上皇により最初に創建される。証金剛院は康和3年(1101)に建立。
現在は、鳥羽離宮跡公園として整備されている。公園の北側には、離宮の築山跡の遺構と考えられる「秋の山」が残る。
■02 北殿(勝光明院)
勝光明院は平等院阿弥陀堂を模して保延2年(1136)に建立される。鳥羽上皇により新しく創建された院御所。治承の乱の時、後白河法皇が幽閉されたところでもある。
■03 泉殿(成菩提院)
成菩提院は天承元年(1131)建立。
■04 馬場殿
応徳3年(1086)白河上皇により創建される。現在の城南宮の位置にあり、城南宮は離宮の鎮守社として祀られていた。境内に続く馬場では競馬や流鏑馬が行われた。
■05 東殿(安楽寿院)
安楽寿院は保延3年(1137)鳥羽上皇により創建された御堂。
■06 田中殿(金剛心院)
久寿元年(1154)鳥羽上皇により創建される。鳥羽上皇の皇女八条院の御所。釈迦堂・九体阿弥陀堂・小御堂・寝殿・庭園・築地跡などが発掘されている。
■07 中島
馬場殿の南の地域
鳥羽殿は、その立地から洪水による破損なども多く受けていたと思われる。しかし治承3年(1179)平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したことにより、御殿の破壊が進んだ。鎌倉時代に入り後鳥羽上皇がしばしば鳥羽離宮へ行幸したため、再び建物の修理が行われたであろう。そして承久3年(1221)には、承久の乱が鳥羽離宮の城南宮で発生している。そして上皇側が敗北すると御殿の荒廃は進む。台風や洪水による倒壊が生じても放置され、ついに南北朝の内乱で兵火にかかり炎上し灰燼に帰している。この後、鳥羽離宮は廃虚と化したとされている。
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