京都御苑 九條邸跡 その4
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その4 2010年1月17日訪問
安政5年(1858)3月、関白・九条尚忠は老中・堀田正睦に対する勅答草案(第一案)を作成し、3月11日を以って宮中上層部の了承を得た。後は14日に堀田に渡す段取りとなっていた。勅答草案の内容は、既に京都御苑 九條邸跡 その3で書いたように、「何共御返答之被レ遊方無レ之、此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様御頼被レ遊度候事」であり、幕府が望んだとおりの一任であった。 ほぼ決したと思われた3月12日、廷臣八十八卿列参事件が発生する。つまり政治的発言力を持たない下層公卿が示威行為を以って勅答草案の修正を求めたのである。今までは考えもしなかった新たな政治勢力が1日にして出来上がったこととなる。「野史台 維新史料叢書 雑4」(東京大学出版会 1975年刊)の「銘肝録」あるいは「岩倉公実記 上巻」(皇后宮職 1906年刊)にも久我建通が富小路敬直より密勅を賜ったとされている。その密勅の内容について言及するものがないので、どのようなことを主上が望んでいたかは分からない。しかしこの密勅が存在したならば、主上の意思に沿うように、久我建通、大原重徳、中山忠能、正親町三条実愛、長谷信篤、大炊御門家信、五条為定そして岩倉具視等が行動を起こしたこととなる。また三条内大臣もこの件に関与していたことも十分に推測される。どのような力が舞台裏から働いたかは分からないが、このような示威行為が結果的には暗殺や天誅と共に政治の上で有効な戦術となることを明らかにしてしまった。そして一度開けられた扉は、二度と締め切ることはできなくなった。
この廷臣八十八卿列参事件が勅答第一案を破棄するに至った表側の要因としたら、裏側の要因は太閤・鷹司政通の翻意であろう。元々太閤は関東方と目され、また2月22日にも承久の乱を例えに挙げ、幕府に対する政権委任を主張している。もう少しで老中・堀田正睦への回答案を覆すところまで至った。しかし承久の乱の例えが主上の逆鱗に触れ、2月29日には自ら内覧を辞退する申し出を行うように仕向けられた。本来ここで失脚すれば、安政の大獄に連座することはなかった。しかし3月に入り、鷹司家の諸大夫の小林良典が、太閤に対し叡慮に背くことが不可であると諫めている。太閤は、諸外国と和しても乱の恐れは無くならないのであれば、開国する必要も無いと考え直し、これを以って叡慮に従うと改めた。右大臣・鷹司輔熙も太閤の翻意に従うこととなった。三国大学が小林良典を動かし、小林が太閤を京都方に導き込んだことになる。つまり民間の有志の活動の影響力が、政策決定者の公卿の変心を誘うまでに及んだことが分かる。
3月11日に近衛左大臣が賜った宸翰で、主上は勅答第一案を3月14日に堀田に申し渡すことになった旨を記しているが、この宸翰の最後の部分で太閤父子の変心について下記のように記している。
扨又誠ニ不審之事出来候。太閤之所、昨今一封両度計来、且右府入来、議奏エ演舌之工合、誠ニ以是迄之存念ト表裏強被レ成候事、誠ニ以珍重、乍二不審一、且中々油断ハ不二出来一ト存候。
鷹司父子の変心について歓迎はするものの怪しむ気持ちも強かったことが良く伝わる。
3月10日前後より太閤は再び動き出している。3月11日、太閤は関白に対して「一度奏聞に相成ったものを仕直すという例は無い」と勅答第一案の関東へ御任せの字句に変更したことを難じている。また武家伝奏の東坊城聡長の辞任についても、橋本左内が3月14日に認めた書簡によると、同じ11日に太閤が東坊城に退役願いを差し出すように内意にて申し付けている。つまり東坊城を排除し関白・九条尚忠を孤立させるように仕向けたのも太閤であった。さらに三条実萬が所労によってと称し参内しないように忠告したのも3月11日のことであった。これらの動きは示し合わせではないものの同じ考えの元での動きと見るべきであろう。
九条家諸大夫・島田左近から井伊家長野主膳に宛てた3月18日付の書簡にも3月12日から異変が記されている。つまり3月12日において、太閤が御沙汰止めを提案し青蓮院宮、左大臣、内大臣が賛同している。そして廷臣八十八卿列参事件も起こり百五人が九条邸に押し寄せたことも伝えている。
3月12日の夜、九条邸に押し寄せた廷臣に対して関白は、勅答の修正を取り計らうという言質を与えている。これ以降、九条関白作成の勅答第一案の撤廃と第二案の作成が行われている。3月16日、左大臣、右大臣、内大臣から所意書が提出され、勅答第二案が披露された。長文であったが大意としては以下のものであった。
一 奉二神宮始一、御代々ニ被レ為レ封候ては被二恐入一候事。
一 下田商館条約ヘ立戻リ候様被レ遊度事。
一 此方ヨリ戦争致掛候事ハ被レ禁候方之事。乍レ然向ヨリ兵端ヲ起シ候節ハ、
被レ遊方無レ之思召被レ為レ存候ト申御趣意。
この後、左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔熙、内大臣・三条実萬の間で文面に対する調整が行われ、3月19日に御一決が為された。
そして翌20日申上刻、小御所に於いて勅答御渡しが行われた。翠廉出御なし、御列座は関白・九条尚忠、左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔熙、内大臣・三条実萬で何れも御直衣。次の間には議奏・久我建通、万里小路正房、裏松恭光と議奏加勢の中山忠能、正親町実徳そして伝奏の広橋光成が控えていた。勅諚は左大臣から御渡され、「御延引に相成候早早帰府の上大樹公へ被申入候様」と伝えられた。東使は退いて拝見し諸大夫の間に退出する。ここで伝奏より勅諚の御趣意の説明があり、御請けの儀などが行われた後、御料理が出され酉上刻に退出している。勅諚は下記の通り。
墨夷之事、神州之大患、国家之安危ニ係リ、誠不二容易一、奉レ始二神宮一、御代々ヘ被レ為レ封、恐多被二思召一、東照宮已来之良法ヲ変革之儀ハ、開国人心之帰向ニモ相拘、永世安全難レ量、深被レ悩二叡慮一候。尤往年下田開港之条約不二容易一之上、今度条約之趣ニテハ、御国威難レ立被レ思召一候。且諸臣群議ニモ、今度之条約殊ニ御国体ニ拘リ、後患難レ測之由言上候。猶三家已下諸大名ヘモ被レ下二台命一、再応衆議之上、可レ有二言上一被二仰出一候事。
なお勅答御渡しの際、老中・堀田正睦は恐れ入り満面汗を流し戦慄して勅諚を拝見し誠に困り入った表情を浮かべ提出していったとのこと。そして勅諚御請については御猶予を願い出ている。再応衆議の上言上ある可しとは、堀田等の京都滞在が何の収穫にもつながっていない。なお3月21日を以って三条実萬が内大臣を辞している。これは3月初から望んでいたことであったが、墨夷に関する勅答が終わるまで延ばされてきたことである。清華家としては内大臣就任期間が半年余りとされていたので、安政4年(1857)5月15日に任官した三条としては、そろそろ辞官の時期でもあった。
3月22日に堀田正睦は、条約調印の期限が迫っていること、さらに英国人の来日が何時になるか分からない状況にあることから、御三家及び諸大名に対する諮問を行っても良策が現われないことを訴える伺書を出している。また宮中でも3月22日以降も会議を継続したが、外交政策に関する勅諚に変更は二度と起こらなかった。そのため交渉の焦点は次第に世子問題へと移っていった。
松平春嶽の命をうけて京に入った橋本左内は、青蓮院宮を始めとして鷹司家、近衛家そして三条家を廻り、一橋慶喜擁立のための運動を積極的に展開していた。元々水戸藩と鷹司家の間には婚姻関係があり、これを利用して徳川斉昭が鷹司太閤に幕府の外交政策に関する情報を流してきた。太閤もこの水戸からの幕府情報をそのままの形で孝明天皇にも開示していたようだ。いづれにしても朝廷において水戸徳川家は攘夷を行う者として認識され、幕府が御三家に諮問すれば開国には決して傾かないという確信が得られていた。そのため鎖国の御聖断を下さなくても、御三家の意見を言上させることで事が足りると考えたのであろう。このことは戊午の密勅にも通じる買い被りでもあり、斉昭が京都で宣伝しているほど、水戸藩に実力が伴っていた訳ではなかったことが次第に判明してくる。
三条家に対しては土佐藩や宇和島藩が関係を持っていた。当時の藩主の山内容堂の正妻は、烏丸光政の女を三条実萬の養女として妻に迎えている。近衛家には尾張徳川家、薩摩藩が通じておリ、左内の越前藩もまた鷹司家や三条家につながる経路をひそかに持っていた。このような各藩が確保していた京都への経路を橋本左内は巧みに使い、自らの入説に利用したのであろう。
3月中旬には、その行動をさらに有効なものとするため、春嶽の御直書の送付を3月14日に京から願い出ている。つまり左内が文案を全て作成し、これを江戸に送り更に江戸から逆輸入するものであった。橋本の手に渡ったのが3月21日であることから、この輸送は早打ち中の早打ちであった。内藤耻叟の「安政紀事」(「幕末維新史料叢書6 戊辰始末・安政紀事」(人物往来社 1968年刊))にはこのあたりの経緯を以下のように記している。
廿三日又延議あり。廿四日議奏又備州の旅館に至る。備州又文書を呈す。一昨日相伺候差向異変之節寛猛両様之御取計方之儀、此度勅答被仰出候迄之内万一異変有之節之心得相伺候義ニ付、右之御沙汰之内ハ衆議難仕トノ義ニハ無御座候事。
此日西城の事急便を以て関東に達すべきを命ず。時に水野土佐の意を以て長野義言等周旋、紀州を立るの論頻りに起る。関白殿又之に惑ふ。矯レ勅年長英傑人望等の字を除く。曰急務多難之時節養君治定西丸御守護政務御扶助に相成候はば御にぎやかにて御宣被思食候。今日幸之儀可申入旨関白殿、太閤殿被命候事。堀田、年長の二字を加んことを請ふ。張紙にて年長の人を以ての六字を加ふ近衛殿、書を江戸御台所に贈り南紀は幼弱叡慮に不叶旨を伝告とす云ふ。
堀田は3月24日に、朝旨を幕府に伝達するため岩瀬忠震を江戸に帰すことを申し出、翌25日に岩瀬は京を発した。そして29日に自らの帰府の朝允を求めている。そして4月3日、堀田は参内し小御所で天顔を拝し帰府の暇を賜る。そして5日に京を発ち、20日に江戸に到着する。そして翌21日に将軍徳川家定に拝謁している。その2日後の4月23日に井伊直弼が大老に就任している。
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