藤井右門邸跡 その2
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その2 2010年1月17日訪問
藤井右門邸跡では、藤井右門が関与した明和事件を説明する前に、宝暦事件の経緯を竹内式部中心に見て来た。この項では明和事件の思想的な核となる柳子新論とその著者である山縣大弐について書いて行く。宝暦事件の舞台が京都であるのに対して、この明和事件は江戸で発生している。山縣大弐は江戸で塾を開き江戸で捕縛されているため、この機会に説明しなければ他に書く所が無くなるためである。そのため、またもや藤井右門邸跡の説明からは離れてしまうことを容赦願いたい。
竹内式部に感化された中流の公家が、垂加流神道を桃園天皇に進講しようと働きかけたのが宝暦事件の発端であった。そして若い天皇の近習に主権を奪われること、あるいは幕朝関係の悪化が自らの立場を弱くすると考えた摂関家が竹内式部に罪状を作り出し、天皇の周辺から近習を一掃させようとしたのが、事件の本質であった。そのために苦悩されたのが主上であり、最終的には摂関家一列は主上に対して高圧的な態度を以って、正親町三条、徳大寺等の公卿の排除を求めた。17歳の青年天皇は、大官の総意と養母である青綺門院の要請を拒否できずに、近臣に落飾、永蟄居を申し付けることを許してしまった。これは安政の大獄での左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔煕、前関白・鷹司政通そして前内大臣・三条実万の処罰をせざるを得なくなった孝明天皇の苦悩とも一致する。この事件における幕府の役割は、常に摂関家からの要請を受けてのことであった。そのため幕府が朝廷を押し込めたという構図ではなく、あくまでも自己防衛に走った摂関家を幇助したに過ぎなかった。失望した桃園天皇は、宝暦事件の処罰が下された2年後の宝暦12年(1762)7月21日に享年21で崩御されている。
大事件を引き起こした張本人とされる竹内式部に関しては、その学説を示すような著作も残されていない。またその人となりを表すような詩歌なども少なく、どのような人物であったのかも未だ分かっていないようだ。これに対して明和事件の元となる山縣大弐には柳子新論という著作を世に出しているため、その思想は明確である。
山縣大弐は、享保10年(1725)甲斐国巨摩郡北山筋篠原村に生まれている。幼くして山崎闇斎の流れを組む加々美光章に学ぶ。光章は山梨郡下小河原村に住し、代々山王権現の詞官を務める家に生まれ、国典と漢籍に通じる学者であった。次いで巨摩郡藤田村の五味釜川に学んでいる。釜川は江戸小石川で塾を開き多くの門人を集めた太宰春台の弟子である。大弐の学問の基礎は、この2人の教えによっている。
大弐は甲府に於いて城士であった。弟が人を殺し、兄とともに弟の逃亡を手助けしたことより、甲斐を立ち退き江戸に赴いたとされている。しかし、その時期は明らかではないようだ。徳富蘇峰は寛保6年(1746)あるいは同8年(1748)としている。それ以前の寛保2年(1742)には京都に遊学し、高倉、花山院、日野、白川、綾小路等の諸家において有識典故の学を修めたという話にも触れている。また、佐藤種治著「勤王家藤井右門」(中田書店 1936年刊)は、大弐は宝暦6年(1756)に甲斐国を去り、江戸に出たと記している。さらに最新の歴史小説、江宮隆之氏の「明治維新を創った男 山縣大弐伝」(PHP研究所 2014年刊)では、宝暦元年(1751)頃に江戸に出、医業の傍ら生徒を集め教えることで苦しいながらも生計を立てていたとしている。このように大弐が江戸に出た時期にも諸説があるように、事件前の状況を明らかにする資料がないのであろう。
江戸に出た大弐は幕府若年寄の大岡忠光に仕えている。忠光は大岡忠房家4代当主で、江戸南町奉行として活躍した大岡忠相とは、ともに大岡忠吉の子孫に当たる。将軍家世子・家重の小姓となり、第9代将軍就任以後、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できことで信頼を受けた。そのため側近として異例の出世を遂げ、上総勝浦藩1万石の藩主を経て、武蔵岩槻藩2万石の初代藩主となっている。
江宮氏は、大弐が忠光に仕えたのを宝暦4年(1754)の事ととし、そして7人扶持を貰い代官として勝浦に赴任している。同6年(1756)江戸藩邸に戻り医員として大岡家に仕える。
宝暦10年(1760)に忠光が亡くなると、大弐は大岡家を辞し居を四谷坂町から八丁堀長澤町に移す。この地で柳荘と号する塾を開き、儒書、兵書を講じる。その門人は千人に及び、講義は政治、文学、兵法、点章、天文、歴史、その他あらゆる方面に広がるものであった。
大弐が柳子新書の著述に着手したのは、大岡家で勝浦の代官を務めていた頃と考えられる。宝暦事件において、桃園天皇への日本書紀の進講から摂関家が正親町三条などの近臣を一掃したのが宝暦7年(1757)7月であったので、この頃より始まり、宝暦己卯春二月、すなわち宝暦9年(1759)2月には脱稿している。甲府の自宅が洪水で流された跡の地中より発見されたと後文で記しているが、世人は大弐自身の作であることを疑わなかった。
柳子新書は全十三篇より成る。孫子の構成と同じことから、大弐はこれに倣ったと考えられる。第一の正名篇は以下の言葉より始まる。
柳子曰く、物、形無くして名有る者は有り。形有りて名無き者は、未だ之れ有らざる也。名の以て已む可からざるや、聖人之に由つて、以て教へを其の中に寓す。
これは明らかに名分論であり、大弐はこの正名篇で、「夫れ文以て常を守り、武を以て変に処する者は、古今の通途にして、天下の達道也。如今、官に文武の別無ければ、則ち変に処する者を以て常を守る。固より其の所に非ざる也」と述べている。つまり戦乱を収める筈の武が、泰平の世でも政治を行っているのは間違っていると大弐は主張している。これは鎌倉以来の武家政権、すなわち徳川幕府への異議申し立てである。また第二の得一篇でも「天に二日無く、民に二王無し。忠臣は二君に事へず、烈女は二夫を更へず」と朝廷が幕府に対して優位にあることを明確に提示している。そして第十二の利害篇におかえる「苟も害を天下に為す者は、国君と雖も必ず之を罰し、克せずんば則ち兵を挙げて之を討つ」は、討幕の可能性への言及でもある。このような急進的意見もあるが、大弐の基本的な思想は、中国の古い理想国家を目標とした復古主義である。そしてこの柳子新書において、鎌倉幕府や室町幕府の記述はあるものの徳川幕府や諸大名を直接名指しすることはない。それでもこれを読む者は皆、大弐の尊王斥覇の考えを理解していた。老儒の松宮主鈴は柳子新書を両都向背の論と批判し、江戸京都両本位説を掲げている、そして大弐に筆禍の恐れを強く警告している。大弐も十分に理解し、自らの作品であることを否定してきた。ただそれだけで危険を回避できたかは、その後の歴史が明らかにしている。
果たして幕府は山縣大弐を危険思想の持ち主と正しく判断していただろうか。柳子新書は漢文で書かれたため、幕府の小役人が理解できたかは疑問の残るところである。ただ、大弐の門戸に浪人や軍学者、坊主、諸大名の家来とか種々の人物が出入りしていたので、当然当局の注意は向けられていたはずである。
竹内式部が古に託して現在を述べるに留めたが、山縣大弐は過激な言葉を用いて現状の変革を明らかに求めている。その達成に兵学を持ち出すこともあったようだ。式部の「朝廷自から學を修め、徳を立てなば、天下自から之に集まらん」という態度とはかなり異なっている。そのため大弐の講義を聞いた者全てが、彼の主義を信奉する同志と成り得たかには疑問が残る。つまり彼の尊王の思想を理解し共感したとしても、斥覇の主張に躊躇う人がいても何ら不自然ではないはずである。
このような危険を顧みない大弐にも、遂に禍の兆候が訪れる。それは直接本人に降りかかったのではなく、彼の交友あるいは門下にであった。当時、上州小幡藩二万石の藩主は織田信長の末裔、織田信邦が務めていた。信長の次男・信雄の四男・織田信良が小幡藩の藩祖となり、代々徳川家から国主格の待遇を受けてきた。第7代藩主・信邦は吉田玄蕃を家老に登用し藩政改革と財政再建を目指した。この家老の吉田玄蕃は山縣大弐の門人で、主君信邦の師範として大弐を推薦しようとした。玄蕃に反目していた用人の松原郡太夫が小幡村の崇福寺の梅叟に大弐推挙について相談したところ、一度は大弐の門人となり、かつて講義を聞いたことのあった梅叟は、「それは宜しからず」と答えた。かつて聞いた大弐の講義では、城攻めなどの余談が出るなど、僧職の梅叟にとっては危惧の念を感じさせるようなものであった。
梅叟から大弐の講義内容を聞いた郡太夫は藩主信邦の父であり隠居していた信栄に報告している。元藩主の信栄は諸老臣と相談して事に当たるように命じている。内意を得たと考えた郡太夫は津田頼母、関野定右衛門、柘植源四郎、津田庄藏などと相談し、吉田玄蕃に不審の廉ありとして、邸内に監禁している。これが明和3年(1766)12月12日のことであった。織田家内の問題であり幕府へは知らせずに行った監禁であったが、やがて幕府の知るところとなり、国家老・津田頼母、江戸詰の関野定右衛門、年寄役・松村源四郎、用人・松原郡太夫、津田庄藏、その他吉田八蔵、高見沢与右衛門そして吉田玄蕃と崇福寺前住職梅叟などへの鞠問が行われた。勿論、この聴取から山縣大弐と吉田玄蕃による謀反の企てなどは現れず、山縣と吉田の交友を口実にして、松原郡太夫が吉田のことを快く思わなかったために罪に陥れたということが暴露されたに過ぎなかった。
これにより明和4年(1767)8月21日、松原郡太夫、津田頼母、津田庄藏、柘植源四郎に重追放の宣告が下されている。藩主の織田信邦も家来不取締の罪で家格を下げられ出羽高畠に国換を命ぜられている。さらに信邦自身も隠居の上で蟄居となり、家督は実弟の八百八信浮に相続される。信邦の実父も役儀召放され隠居を申し渡されている。そして監禁された吉田玄蕃には無罪が宣告される。小幡藩の改革を藩主と共に目指していた玄蕃にとって、自らが監禁されたことによって、織田家の家格の降下、国替えそして藩主の隠居・蟄居を引き起こしたことをどのように思っただろうか。特に自身が無罪となってしまっただけに忸怩たる思いが強かったと想像できる。
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