藤井右門邸跡 その5
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その5 2010年1月17日訪問
藤井右門邸跡 その3及び、その4で明和事件の主犯とされる山縣大弐と藤井右門の宣告とその最期を見てきた。この項では宝暦事件の主犯で明和事件にも連座した竹内式部の最期と事件終結後の藤井右門の末裔とその自邸の変遷について書いてみる。
山縣大弐、藤井右門に続き竹内式部にも刑が与えられた。その宣告は以下の通りである。
勢州宇治今在家町御師鵜飼又太夫方に居候
式部事 竹内正庵
五十六歳
其方儀、永澤町浪人山縣大弐、並同人方に居候京都正親町三条中将家来之由申立候藤井右門と、反逆一味の者の由、訴人有レ之候所、大弐、右門儀も反逆にては無レ之、其方儀右両人知人にも無レ之、旁疑はしき筋も無レ之候へども、先年京都に於いて重き追放に相成り、京都は御構場所に有レ之候処、住居いたさず候へば、苦かる間敷と存じ、御構場所へ立入候段、不届に付遠島申付る。
明和四丁亥年十一月廿日、八丈島え流罪
勢州宇治今在家町御師鵜飼又太夫方に居候
式部事 竹内正庵
亥五十六歳
船揚りより濕病相煩、亥十二月五日病死。
流竄の途中、三宅島の役人からの報告である。11月20日に寄港上陸し12月5日に同所で病没している。竹内式部の墓は東京都三宅村と生地である新潟市中央区二葉町日和山にある。
獄中で没した後に獄門に掛けられた藤井右門の首級は、浅草今戸妙高寺の住職日瓔が岡本某と請い受けて寺内に葬っている。日瓔は右門と同郷の富山の人で、旧知であったため幕府に請願したとされている。浅草の妙高寺は関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)世田谷区烏山に移転し、この地に本堂を建立している。現在、藤井右門の墓は烏山の妙高寺の墓地入口近くにある。なお昭和11年(1936)に妙高寺より分骨し、藤井右門墓所が富山県射水市戸破に建立されている。
最後に藤井右門邸について記す。宝暦事件において、藤井右門が京都から失踪したため位記は返上され、藤井家は家名断絶となり右門自身も御尋ね者の身となった。当時、右門と妻の梅子との間には2歳の忠三郎がいた。右門失踪の翌年、梅子が病没すると、忠三郎は母の弟の藤井高方に育てられている。明和4年(1767)京都室町頭柳原町の無学寺に入寺、僧・宗益となる。安永9年(1780)に還俗して名を彦右衛門と改める。藤井家を再興して柳辻子の右門邸に住する。父右門と同じく八十宮家に仕え、従六位下大和介直温と称する。直温は文政に3年(1820)12月24日に没している。享年74.
天保8年(1837)、直温の子である藤井藤右衛門直嵩(安政6年(1859)没)と歌子の間に藤井九成が生まれる。九成は幕末の京都において勤皇派への支援を積極的に行う。文久元年(1861)和宮内親王の関東御降嫁に際し、九成は岩倉具視に従って供奉の役を勤めている。この直後岩倉が所謂、四奸二嬪として尊攘過激派の弾劾にあい、岩倉村に蟄居すると九成は度々岩倉を訪ね不遇を慰めている。九成は藤井右門邸に住んでいたため、この邸が勤皇派の溜まり場となっていった。しかしこの行動は幕吏の知る所となり、度々検分が行われている。母である歌子が玄関に続く表の間で幕吏の応接している間に、鐘を叩いて奥にいる志士に急を告げたとも言われている。多くの志士達は押入れの床下を剥いで裏の相国寺に逃げ込んでいる。やがて九成は勤皇派に右門邸を提供するだけではなく、岩倉村で蟄居している岩倉具視との取次役を行うようになり、間接的ではあるものの倒幕運動に貢献している。文久2年(1862)二本松に薩摩藩邸が完成すると、藤井右門邸への志士の出入りが盛んになる。薩摩藩邸と藤井右門邸とは目と鼻の先であり、相国寺の薮つたいに行き来ができるため、西郷隆盛、大久保利通、香川敬三、桂小五郎、田中顕助等が密談に使用している。またここで行われた密議の結果を密書とし都落ちした三条実美とともに、九成の手によって岩倉具視にも届けられていた。
藤井九成は戊辰戦争で東山道鎮撫使・岩倉具定に従って軍監として征討軍に加わっている。後に岩倉家家令を務め、太政官、宮内省等に出仕。明治43年(1910)7月13日没。74歳。幕末維新時の功績が評価され、大正4年(1915)に従五位が追贈されている。
藤井右門邸は大正11年(1922)に行われた市電烏丸線の延長のために、立ち退かざるを得なかった。この由緒ある史蹟が失われること惜しんだ実業家・下郷伝平によって買い取られ移築されている。徳重浅吉著の「京都の維新史蹟」(京都市教育局文化課 1943年刊)では、山科毘沙門堂春秋山荘、大阪毎日新聞社京都支局編の「維新の史蹟」(星野書店 1939年刊)は山科稲荷山春秋山荘とし、写真を掲載している。京都市山科区安朱稲荷山町6の春秋山荘であるが、現在の建物は昭和54年(1979)に琵琶湖の北部、滋賀県伊香郡木ノ本町にあった明治3年(1870)築茅葺の民家を移築しているので藤井右門邸は現存していないようだ。 移築された後に建てられた記念碑が、贈正四位藤井君旧蹟碑の碑である。大正12年(1923)4月に子爵藤波言忠の篆額、文学博士西村天囚時彦の撰文、木村得善の書、芳村茂右衛門の刻による高さ235cm、幅95cmの大きな石碑である。昭和14年(1939)刊行の「維新の史蹟」によれば「七八年前金物商大原正次郎氏が同碑敷地を殆どを買取り店舗を建て、碑を現在のところに移した」とある。昭和初年には、藤井右門邸の西側にあたる現在地に移したことが分る。またこの時、邸内にあった髻塚の小輪塔を寺の内千本西入ルの大幸寺に写したと同書は記している。この髻塚は、「勤王家藤井右門」に出てくる。先にも触れた京都室町頭柳原町の無学寺の中興の祖とされる良純和尚は藤井右門に漢学を学んでいる。宝暦8年(1758)山内に右門等を匿ったことが露見しそうになり、越前永平寺で修行を名目に同年6月30日に京を去っている。修行後、江戸遊学中に右門が処刑されたため、幕吏より右門の遺髪を貰い請け、永平寺を経由して京の天寧寺へ帰山している。明和6年(1769)荒廃していた無学寺に入り復興している。右門の遺児・忠三郎は事件の発生した明和4年(1767)に入寺している。 良純和尚によって京に戻った藤井右門の遺髪は、右門が拝領した愛木の柑の盆栽を右門の舅であった文右衛門邸、すなわち元の藤井右門邸に植えて葬っている。その後焼失等があり、柑の木は柚木に変じて残ったとしている。安政年間に入り、右門の慰霊祭が遺髪地である柚木の元で祭祀が孫の直嵩によって営まれている。また慶応2年(1867)8月21日には無学寺で百年忌の大法会が九成の時代に行われている。「勤王家藤井右門」には藤井右門邸の写真とともに贈正四位藤井右衛瘞髪処にあった石塔も掲載されている。
藤井九成以降の右門の末裔について記しておく。「勤王家藤井右門」は第十三章の藤井家の家系家譜と現代で、九成には娘がいたが九州に嫁いだとしている。しかし藤井家を相続する者がいて、滋賀県膳所に住居している。戦前に纏められた「維新の史蹟」(大阪毎日新聞社京都支局編 1939年刊)では、山科厨子奥で産婦人科を営んでいる藤井彦次が右門の直系に当たるとしている。厨子奥で始まる地名としては京都市山科区厨子奥矢倉町、厨子奥尾上町、厨子奥若林町の3町であるが、この町内には藤井姓の家はあるものの残念ながら藤井医院は残っていないようだ。また藤井彦次の妹の静が柳馬場蛸薬師下ル産婦人科医横田亮雄に嫁いだとも記しているが、こちらも現在見つけることはできない。
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