錦市場 その2
錦市場(にしきいちば) 2008/05/14訪問
錦市場は鎌倉時代以降は商工業街として発展した。室町時代には、酒屋をはじめとする多種多様な職種が存在した。しかし文明年代(1469~1486)に応仁の乱により錦小路も衰退する。再興されたのはおよそ100年後の天正年代(1573~1593)のことであった。
錦小路が魚鳥の市場となったのは豊臣秀吉の天下統一後と考えられている。この地の人口が多いこと、御所への納入が容易であったこと、そして清く冷たい地下水が涌き出ることが、この地に市場が生まれるもととなっている。
錦市場の公式HPによると本格的な魚市場となったのは江戸時代に入ってからである。元和年間(1615~1623)幕府より魚問屋の称号が許され、万治・寛文(1658~1672)の頃、上の店、錦の店、六条の店の3ヶ所が最も繁栄を極め、三店魚問屋と呼ばれた。特に錦小路の商人は、公儀から鑑札を得ることにより独占的な営業が行われていた。明和7年(1770)錦小路高倉に青物立売市場が奉行所により認められ、安永8年(1779)魚問屋のそばに野菜の市場が開かれた。
明治維新とともに三店魚問屋の特権も廃止され、魚問屋も自由に営業されるようになった。同業者間の競争が激しくなり、倒産する店が相次ぎ、明治16年(1883)頃には7店程になったとも言われる。同業組合等を設けることで過度の同業競合を避け、再び繁栄を取り戻すことができた。
昭和2年(1927)に下京区朱雀分木町に京都中央卸売市場が開設されたことで、錦の卸売業者の多くも移転した。錦小路に残った店と新しく入った店々の協力により、戦後の移り変わりの激しさにも耐え、錦小路は京の台所の位置付けを守ってきた。
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