祇園閣
祇園閣(ぎおんかく) 2008年05月16日訪問
産寧坂から二年坂そして一念坂を下り、ねねの道を歩く時、町並みの屋根の上に見えるものは法観寺の五重塔(八坂の塔)と祇園閣である。
大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は大正15年(1926)老後保養の地として真葛ケ原に別邸を建てている。しかし喜八郎は、この地で普通の隠棲生活に入るのではなく、さらに展望台を兼ねた記念塔を建て、行く行くは一般に公開し、京都の名物にすることを考えていたようだ。こうして祇園閣は真葛荘の一角に伊東忠太に設計によって建てられた。伊東忠太は、既に明治28年(1895)に平安神宮を手がけ、同じ時期に大倉の依頼で大倉集古館を設計している。そして震災祈念堂が昭和5年(1930)、築地本願寺が昭和9年(1934)に竣工していることを見ると祇園閣や大倉集古館とほぼ同時期に伊東の代表作が設計されていたことが分かる。
喜八郎は伊東に設計を委託はしたが、全てを任せきった訳ではなく、自ら写真帳や画帳を広げ、いろいろ高閣の設計についてアイデアを出していたようだ。幼少の頃に見た、突風に吹かれて逆立った雨傘のイメージを祇園閣に求めたといわれるエピソードは有名である。結局、伊東はこの望閣を祇園祭の山鉾を思わせる形にまとめた。総高約34mの3階建塔状建築で,建物の形状からは創造しづらいが石張りされた下層及び基礎部分はRC造、中層以上はSRC造となっている。
大倉集古館で開催(2009/7/4~7/28)された「大倉喜八郎と大倉集古館―事業と美術品蒐集の軌跡」では、かなり大きな木製模型が展示されていた。下から仰ぎ見るのでなく模型と同じ高さで見ると、基礎に比べ上部の楼閣部分がやや大きく感じられる。以前にワタリウム美術館で開催(2003/4/12~8/31)された「伊東忠太の世界展」でも祇園閣の模型かドローイングが展示されており、同じような印象を得た。 この模型は非常に精密に作られており、実際の建物ではなかなか見ることのできないディテールまで分かるのと同時に、現在は外壁で完全に閉じられている2階部分が開放されていた。上部2層の楼閣部分に開放性があるため、石積み風の基礎部分と明確に分化している。また祇園閣の昔に撮影された写真にも、上部2層が開放されているs姿が残されている。
この建物の正面入口上に記された「祇園閣」の文字は西園寺公望公によるもので、上層正面「万物生光輝」の文字は大倉喜八郎の書である。
現在の祇園閣も建設当初は周囲から受け入れられなかったと言われている。山車としての山鉾の形状は見慣れていても、建築物として眼前に現れると人は異なったものと思うのだろうか。京都タワーや京都駅が建設されたとき以上の問題建築であったのだろう。そのため当初の大倉のイメージをそのまま実現していたら、かなり異形なものとなったことが想像できる。
この建物は平成9年(1997)に登録有形文化財に指定されているため、文化庁が運営している文化遺産オンラインに掲載(その1 その2)されている。ここでは昭和前あるいは昭和2年(1927)竣工としている。ただし伊藤忠太などと記述していることからも信頼してよいものか疑問も残る。また産経新聞に掲載された【もう一つの京都】信長父子弔う菩提寺の風変わりな塔 京の“銅閣”祇園閣(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090418/acd0904181301002-n1.htm : リンク先が無くなりました )の記事の最後に、
大正15年着工、完工は昭和2年12月と3年6月の両説ある。
としている。大倉喜八郎は昭和3年(1928)4月22日に亡くなっているため、昭和3年6月竣工だと祇園閣の完成を見なかったこととなる。一般に書かれている祇園閣の説明はこの説に拠っているのだろう。ちなみに、この工事を担当した大倉土木組の流れをくむ大成建設の社史では、
昭和二年(一九二七年)十二月鉄骨鉄筋コンクリート造り、高さ百二十尺(三六m余)の祇園閣が完成した。
としている。
喜八郎の没後、大倉財閥の事業と共に祇園閣は子息の喜七郎に継がれる。若くしてイギリス・ケンブリッジ大学に留学し、バロン・オークラと呼ばれた英国紳士であった喜七郎にとって祇園閣はキッチュな日本趣味に溢れた怪異な建物として映ったのではないだろうか。いづれにしても祇園閣を含む真葛荘は、ホテルニューオータニを開業した大谷重工業社長・大谷米太郎の手に移り、その後高島屋の所有となっていった。
現在の祇園閣の所有者である大雲院は、天正15年(1587)貞安が織田信長とその子信忠の菩提を弔うため烏丸二条に創建されるが、程なくして豊臣秀吉の都市政策により寺町に移っている。日文研に所蔵されている洛中絵図(成立年不明)にも移転後の姿が残されている。四条寺町通の東南、春長寺と浄教寺の東側に位置し、ほぼ四条通から現在の透玄寺のあたりまで広がる大きな寺院であった。昭和に入り商業・繁華街化し、昭和25年(1950)に高島屋は創業の地・烏丸高辻(現京都銀行本店)から四条河原町に店舗を移転する。そして昭和48年(1973)大雲院にとっては喧騒の地から離れ、高島屋にとっても店舗の増築による増床が得られることで、地所の交換が行われた。大倉喜八郎の真葛荘は大雲院の庫裏として保存されている。
大雲院は時々、一般に公開されるが、通常は祇園閣を含めて非公開の寺院である。
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