大徳寺
臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺(だいとくじ) 2008年05月19日訪問
若宮神社の楼門から銀杏並木の今宮門前通を南に下る。市立紫野高校の角で小堀遠州が開設した孤篷庵から東に延びる道に交差する。この道を左に入ると広大な大徳寺の境内に入っていく。今も孤篷庵の周辺には、寸松庵・梅巌庵趾の碑、大光院趾・瑞源院趾の碑、金龍院趾の碑が建つ。これらの碑からも、現在は大徳寺の境内から離れて建つ孤篷庵も東西に広がる大徳寺の境内にあったことが分かる。
大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山で山号は龍宝山。開基は正中2年(1325)大燈国師宗峰妙超である。臨済宗の大寺院の歴史を見ると、まず建仁寺が建仁2年(1202)日本に臨済宗を伝えた栄西によって創建されている。次に東福寺が嘉禎2年(1236)九条道家の発願で大寺院の建立を始めている。南禅寺は正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改め、妙心寺は花園天皇の開基、関山慧玄開山で暦応5年(1342)に創設されている。続いて天龍寺が康永4年(1345)足利尊氏開基、夢窓疎石開山で始まっている。そしてやや遅れて相国寺が永徳2年(1382)足利義満開基、夢窓疎石開山となっている。大徳寺は他の臨済宗の大寺院と同様、鎌倉時代の末期から室町時代の初期にかけて創立している。
大徳寺の開山である宗峰妙超は弘安5年(1282)播磨国の守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれている。11歳で播磨の書写山円教寺に入り天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め鎌倉の万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任する高峰顕日や南浦紹明に参禅する。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るのに宗峰も鎌倉入りしている。徳治2年(1307)26歳で印可を得ている。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行を行う。その後、同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315)紫野の地に小堂を建立している。これが現代の大寺院大徳寺の起源とされている。
後醍醐天皇も妙超に深く帰依し、元亨4年(1324)頃に雲林院の広大な跡地を賜わり堂宇を建立している。また花園上皇も帰依し、正中2年(1325)大徳寺を祈願所とする院宣を発している。これはこの年に宮中で行われた正中の宗論において、妙超は延暦寺の天台僧ら他宗派僧を論破していることも影響しているだろう。建武元年(1334)後醍醐天皇は大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。そして建武3年(1336)頃、下総国葛西御厨の替地として妙超ゆかりの地である播磨国浦上庄が、後醍醐天皇から大徳寺に寄進される。
建武4年(1337)病に伏した妙超は、花園法皇の求めに応じて、弟子の関山慧玄を花園法皇の導師に推挙している。そして花園法皇が花園の離宮を禅寺とするに当たり、山号寺号を正法山妙心寺と命名している。そして妙心寺は関山慧玄を開山として、妙超が入滅した建武4年を開創の年としている。
このような後醍醐天皇との深い関係は、やがて政権を獲得した足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまう。そして至徳3年(1386)には、五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位とされている。大徳寺は座禅修行に専心する道を選び、室町幕府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱する。そして五山十刹の寺院を叢林と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を林下と呼ぶようになる。
大徳寺は幕府の庇護を受けない代わりに、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受け、一休宗純をはじめとする名僧を輩出している。享徳2年(1453)の火災と応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で当初の伽藍を焼失するが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興している。このように戦国武将による相次ぐ塔頭の寄進や豊臣秀吉の帰依を受けて大徳寺は興隆を極める。
また侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人々が一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係を持っている。今も大徳寺の塔頭には有名な茶室が多く残されている。
そのような大徳寺と権力者との関係の中で2つの事件が起こる。
最初は千利休と豊臣秀吉との関係である。天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれ、豊臣秀吉の世となる。これ以降、茶堂としての利休の役割も政治的なことが増えていく。この頃、利休は大徳寺門前に屋敷を構え、茶の湯活動の拠点をこの屋敷の中に作った不審菴としている。天正13年(1585)禁裏で行われた秀吉の関白就任記念茶会において、正親町天皇に茶を献上した秀吉の後見役を利休は務める。この時期には既に利休の茶の湯は大成の域に達していたと考えられており、 正親町天皇より利休居士号を下賜されたことと合わせて、天下一の宗匠としての地位を確立する。
天正15年(1586)秀吉の聚楽第が完成すると、葭屋町通り元誓願寺下ル町(現在の晴明神社の近隣)に屋敷をつくる。現在の表千家残月亭は、この聚楽屋敷にあった色付九間書院の茶室を写したものといわれている。天下統一をほぼ完了した秀吉は、その権勢を天下に知らしめるため、天正15年(1586)10月1日北野天満宮の境内で北野大茶湯を催す。利休は津田宗及、今井宗久らとともにこの茶会の茶頭を務めた。定御茶湯之事と題された七か条の触書が五条などに出された。この二条目に「茶湯執心の者は身分を問わない。茶道具を持つものは持参し、無い物は替わりになる物を持参して参加すること」と記したため、当日は京だけではなく大坂、堺、奈良からも大勢の人々が駆けつけ、1000人にも達したと言われている。
そして天正17年(1589)12月5日利休の寄進による大徳寺山門 金毛閣の修復が完成し、同8日に聚光院で父の50回忌の法要を営む。天正19年(1591)突然秀吉の勘気に触れ、2月13日堺への追放令が出される。堺で蟄居となった利休は、再び京へ呼び戻され切腹を命じられ、2月28日聚楽屋敷で切腹し果てる。死後、首は一条戻橋で梟首される。
利休の死罪の理由は定かではない。大徳寺に寄進した金毛閣の2階に自らの木造を設置し、その下を秀吉に通らせたからとも言われている。話しとしては面白いが、どうも事件の真相とは考えられない。いずれにしても噂話のレベルであったとしても、利休の死に大徳寺が関わることとなった。
いまひとつは、大徳寺住持・沢庵宗彭を含む大寺の高僧と徳川幕府の間に生じた紫衣事件である。古くから高徳の僧や尼は紫色の法衣や袈裟を朝廷から賜ってきた。これは尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっても収入源の一つでもあった。慶長18年(1613)徳川幕府は、寺院・僧侶の権力の低下と朝廷と宗教界の結びつきを弱らせる目的で、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定める。さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じる。このような幕府の規制にもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府は、寛永4年(1627)法度違反とみなし、勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に紫衣を取り上げるよう命じている。これに対して朝廷は、既に授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対する。また大徳寺住職・沢庵宗彭は前住持の宗珀、妙心寺の単伝や東源らと図り、幕府に抗弁書を提出している。幕府は寛永6年(1629)沢庵らを始めとする反抗した高僧を出羽や陸奥、津軽への流罪に処している。
流罪から3年後の寛永9年(1632)将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者達は許される。そして寛永11年(1634)頃には沢庵も宗珀も大徳寺に戻っている。その後、上洛した第3代将軍徳川家光に沢庵は謁見するなど、徳川幕府の沢庵に対する懐柔工作が行われた。最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院を再興している。
大徳寺の伽藍は、北大路通から150メートル位入った先に現れる勅使門から始まる。そして三門、仏殿、法堂が禅宗建築様式に従い一直線上に並ぶ。この勅使門から法堂までの建築はいずれも国の重要文化財に指定されている。
勅使門は慶長年間(1596~1614)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640)に移築されている。
二層の三門は、享禄2年(1529)連歌師・宗長達の寄進により下層のみが竣工し、天正17年(1589)千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけている。
仏殿は応仁の乱で焼失した後に一休宗純によって再建されたものを寛文5年(1665)京の豪商・那波常有の寄進によって建て直している。
法堂もまた応仁の乱で焼失している。仏殿が再建されると法堂と兼用してきた。寛永13年(1636)小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立している。天井に描かれている雲龍図は狩野探幽35歳の作。
法堂の北には本坊の庫裏と国宝に指定されている方丈が並ぶ。そして方丈前庭には聚楽第の遺構と言われている国宝の唐門が置かれている。明治の中頃までは勅使門の西側にあった。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の大徳寺の図会には、勅使門の西側に置かれた唐門が「ひぐらし門」として描かれている。これは金地院の項や豊国神社の項でも説明したように、寛永4年(1627)から同7年(1630)にかけて崇伝は寺領の寄進を受け、金地院の改築、増築を行っている。この経緯は崇伝の日記・本光国師日記より分かる。崇殿は方丈の改築工事に先ず着手し、狩野探幽に方丈障壁画の発注、茶室や東照宮の普請を小堀遠州に依頼している。そして二条城の唐門を拝領し、金地院への移築も行っている。しかし明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地に社豊国神社の殿が完成すると、この金地院の唐門は豊国神社へと移される。既に明治初年には大徳寺から明智門と呼ばれる唐門が金地院に運び込まれている。この門は天正10年(1582)に明智光秀が母の菩提を祀るため、黄金千枚を寄進し大徳寺内に建立したものである。しかし寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には
「方丈の南の門なり、明智光秀建立。伝云、光秀天正年中其君信長公を弑して、自ら命の保ざるべき事を知て、白金千両を当山に納て冥福を祈る、故に此門を建て其名を呼ぶ」
とある。本能寺の変が天正10年(1582)6月2日なので、変の前後は別としてもこの時期に寄進したものであったのだろう。ここにも記されているように方丈南門として置かれていた唐門は金地院に移されたため、空いた部分を埋めるために、先の日暮門が方丈の南門となっている。明智光秀が織田信長の墓所のある大徳寺に寄進した門を、徳川家との関係が深い金地院に移し、徳川幕府が建てた二条城にあった唐門は金地院を経由して豊国神社の神社門となった訳である。この戦国時代の4人の武将の因縁が明治時代の初期にこのような複雑な移築となって再び現れたとも言える。
方丈は寛永12年(1635)玄関はその翌年に豪商・後藤益勝の寄進で建てられている。開祖大燈国師300年遠忌を記念したものである。通常の方丈建築は、南北2列、東西3列の計6室を並べる空間構成が多いが、大徳寺方丈は南北2列、東西4列の計8室をもつ様式となっている。大燈国師は「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」と遺言していたため、東から2列目の2室は、国師の塔所である雲門庵とされている。方丈の障壁画は狩野探幽の作。枯山水庭園は国の特別名勝および史跡に指定されている。作庭者は小堀遠州と天佑紹杲の二説がある。大徳寺本坊は10月上旬の曝涼展を除くと非公開となっている。また庭園も撮影禁止となっているようで、書籍に掲載されているものから知るのみである。上記の都林泉名勝図会には方丈庭園の図会が残されている。こちらには南庭の東隅の石組とともに天佑和尚作と記されている。宮元健次著の「日本庭園の見方」(1998年 学芸出版社)では、この庭にパースぺクティブと黄金分割の手法が見られることから小堀遠州の西欧手法による作庭としている。
確かに方丈の東庭は北から南にかけて、わずかだが庭幅を絞っていることはGoogleMapの航空写真を見ても明らかである。敷地自体が傾斜しているが、同じ幅に庭を造ることもできたのに、このような造りになっているのは意図的に行った結果であろう。また宮元氏の大徳寺方丈庭園に添えられたアクソメ図では生垣の高さにも南から北に向けて勾配をかけていることを指摘している。同じ著者の「京都名庭を歩く」(2004年 光文社)で、東庭の十六羅漢石組みにも石の高さを低くしていく遠近法が使われていることをあげている。これらの演出によって、幅の狭い東庭は奥行きの浅さを意識させるより南庭へのアプローチの長さを意識させている。また東庭は南庭に入るところで明確に区切られている。これは南庭の優位性を明らかにすると共に矩形の庭の形状を優先させたことが、東庭に与えられた役割を説明している。
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