修学院離宮 その2
修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう) その2 2008年05月20日訪問
西側に建てられた御幸門の横から、下離宮(下御茶屋)に入り、寿月観とその前庭を参観した後、東側の門より出る。この門の正面から始まる松並木の参道に入ると、直ぐに上離宮と中離宮の分岐点が現れる。右に曲がり南に進むと中離宮の表門が正面に現れる。この表門の中に入ると白砂が敷き詰められた空間が始まる。正面左に南東に向かって緩やかな段が築かれている。これを上ると今度は90度左に折れ、少し勾配のある段が始まる。これも上りきると、再び路は右手に90度曲がり、中門を潜る。ここから楽只軒の庭園が広がる。
既に仙洞御所で触れたように、後水尾天皇が後陽成天皇から譲位された時期、朝廷と江戸幕府の関係は非常に緊張したものであった。
後陽成天皇の在位の前半は、豊臣秀吉との間に良好な関係を築いてきた。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したため、天皇を尊重しその権威を高めることで自らの権威も高まる仕組みを作り出した。そのため秀吉は自ら朝廷の威信回復に尽力することとなり、天正16年(1588)天皇の聚楽第行幸を盛大に行っている。
しかし慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開くと、朝廷と権力者の関係に変化が出始める。徳川幕府は京都を離れ東の江戸で権力基盤の形成を行う。室町幕府成立以降、秀吉まで政権を京都あるいは大阪に置き朝廷の距離をなるべく近づけていた。これに対して徳川幕府は一定の距離を朝廷との間にとる政策に変更している。そして権威抑制を図るため、朝廷に対する干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっている。
そして慶長14年(1609)猪熊事件と呼ばれる宮中女官の密通事件が発生する。これには複数の朝廷の高官が絡んでいたため、公家の乱脈ぶりが白日の下に晒されることとなった。激怒した後陽成天皇は全員に死罪を命じたが、公家の法には死罪は無かったためそれは叶わなかった。既に慶長10年(1605)に将軍職を辞し駿府城で大御所として幕府の制度作りに勤めていた徳川家康のもとにもこの事件の詳報は伝わる。後陽成天皇の生母 新上東門院からも寛大な処置を願う歎願が出され、関係する公家および女官達に死罪2名、遠島10名、恩免2名という処分を下した。
自らの全員死罪ではなく、幕府の処分案に同意せざるを得なくなった後陽成天皇は、これ以降しばしば譲位を口にするようになる。
もともと後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を跡継ぎとしていた。しかし秀吉が亡くなるとこれを嫌って自らの弟である八条宮智仁親王への譲位を望むようになる。智仁親王は家領の下桂村に別業として桂離宮を造営する人物である。これは豊臣家との距離を置くために行ったとも考えられるが、智仁親王もまた秀吉の猶子となった経歴があるため、幕府は難色を示した。関ヶ原の戦いで家康が勝利した後、良仁親王を仁和寺で出家させ、慶長16年(1611)第3皇子政仁親王に譲位し、仙洞御所へ退く。
新たな天皇となった後水尾天皇も朝廷の権威の復活を願ったと思われるが、状況はさらに困難なものであった。
即位した2年後の慶長18年(1613)に公家衆法度が制定される。これは先の猪熊事件の再発防止を図るために行われたもので、公家統制に踏み込む第一歩となった。この5か条の内容は、第一条に公家が家々の学問に励むのを勤みとすること、第二条に法令に背く者は流罪となることを示し、第三条に禁裏での勤務励行を、第四条、第五条はかぶき者的な行為の禁止を求めたものであった。ただし運用に関しては五摂家並びに武家伝奏より幕府に対して申し出があった場合に限り、幕府の沙汰として実施に及ぶということに留めておいた。つまり朝廷側から幕府に申し出ない限り効力を発揮しない法律であった。またこの時、紫衣事件の元となる勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定されている。
慶長20年(1615)5月8日に大阪城が落城し、豊臣氏が滅亡する。同年7月禁中並公家諸法度が二条城において大御所 徳川家康、将軍 秀忠、前関白 二条昭実の連署をもって公布された。これは家康が金地院崇伝に命じて起草させたもので、これにより天皇までを包含する徳川幕府の基本方針を確立した。太古より天子は法を越える存在であるとされ、大宝律令、養老律令をはじめとする公家政権の法制においても天子に関する条文は存在しなかった。これによって初めて法の枠組みの中に入れられてしまったのである。
元和2年(1616)家康が亡くなるが、幕府と朝廷の関係は変わらない。家康の生前から計画されてきた秀忠の5女和子の入内が秀忠によって受け継がれた。お与津御寮人事件が発覚するなど紆余曲折があったが、元和6年(1620)6月に後水尾天皇の女御として入内する。元和9年(1623)に女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。しかし和子との間に出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。 寛永3年(1626)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われる。この時小堀遠州によって行幸御殿と二の丸庭園が造営された。
この二条城行幸の直後、紫衣事件が発生する。慶長18年(1613)公家衆法度が制定された時、勅許紫衣之法度と大徳寺妙心寺等諸寺入院法度も制定された。さらにその2年後に、禁中並公家諸法度を定め、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。それにも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてきた。これを知った3代将軍 徳川家光は、寛永4年(1627)事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代 板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対した。また大徳寺住職 沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。寛永6年(1629)幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件とともに、徳川家光の乳母である春日局が無位無官で朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかねた天皇は寛永6年(1629)11月、二女の興子内親王に譲位した。病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例もあり、譲位のための口実であるとされている。
中離宮の空間は楽只軒と客殿、そして隣接する林丘寺からなる。東側に建てられた楽只軒は床を低く設え、座敷と庭のつながりを持たせている。楽只軒前庭は小規模であるが、創建当初のものとされている。 客殿は、もとは林丘寺の御殿で延宝5年(1677)に東福門院の女院御所の奥対面所で、それを延宝6年(1678)の東福門院の死後、天和2年(1682)に現在の地に移している。主室である一の間に、一間幅の床と一間半幅の違棚がある。5枚の板を高さや幅を変えて配した違棚は、醍醐寺三宝院、桂離宮新御殿の桂棚と並び霞棚と称される天下の三棚のひとつである。
今回は客殿の改修工事があったため、楽只軒の前庭を見ただけで、中離宮から出て行くような参観となった。順路図によると、本来は客殿の南から東側まで廻り込むため、客殿前庭も鑑賞できたのであろう。再び中門、表門の順に潜り出る。
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