野宮神社
野宮神社(ののみやじんじゃ) 2008年12月21日訪問
小倉百人一首文芸苑を過ぎ、嵯峨野の竹林に入り西に進むと、小路は北に折れる。その先で、天龍寺北門経由で大河内山荘へ至る道と、野宮神社やJR山陰本線踏切経由して落柿舎へと続く道に分かれる。
この分かれ道の角に、三宅安兵衛遺志の檀林寺旧跡・前中書王遺跡の道標が建つ。この碑の内容については、嵯峨野の歴史(嵯峨野の町並み)と共に説明することとし、先に進むと左手に黒木鳥居と小柴垣に囲まれた野宮神社の社域が現れる。
野宮神社は、伊勢神宮に向う前の斎王が潔斎をした野宮に由来する神社であると伝えられている。斎王とは伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕する未婚の内親王または親王の娘である女王を指す言葉である。厳密には内親王は斎内親王と呼び、女王の場合は斎王または斎女王と称したようだが、現在では両方をまとめて斎王と呼ぶのが一般的である。また伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は天武朝から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続した。
日本書紀の崇神紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたとある。これが斎王の始まりとされている。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行した後に伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭っている。これが後の斎宮御所の原型であったと推測されている。先に触れたように天武天皇の時代に、一時期途絶えた斎王の伊勢派遣が復活し、制度として確立している。
先代の斎王が退下すると、未婚の内親王または女王の中から候補者を選び出し、亀卜により吉凶を占い新たな斎王を定める。亀卜とは、亀の甲羅を火で焙り、その時入ったひびで判断する卜占であった。新たな斎王が定まると勅使が斎王卜定を告げ、斎王はただちに初斎院での潔斎に入ることとなる。この後、翌年の8月上旬に野宮に入り、およそ1年間斎戒生活を送り、9月に伊勢へ下向する。
野宮は京外の清浄な地を卜定し、その地に殿舎が一時的に造営され、斎王一代で取り壊される慣わしとされていた。この野宮は平安時代以降は主に嵯峨野に築かれ、野宮神社の地もこの野宮の跡地とされている。しかし厳密には野宮がどこに存在していたかは分かっていない。なお、野宮は黒木(皮のついたままの木材)で造られ、このため黒木の鳥居が野宮の象徴とされた。
上記のように斎王が退下すると、次の斎王が選ばれる仕組みとなっている。それでは、どのような状況で斎王の任が解かれるか?斎王本人の薨去によるものを除くと、天皇の崩御・譲位の際と定められている。これは天皇の代わりに神に奉仕する役割を担っているため、天皇が変われば斎王も代わることとなる。それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪、潔斎中の密通などの不祥事などが理由になった例もあるらしい。
毎回異なった場所に造営された野宮も、嵯峨天皇の代の仁子内親王の時から現在の野宮神社の鎮座地に造られるようになった。斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に廃絶している。斎王制度が無くなった後の野宮神社は天照大神を祀る神社として存続していたが、戦乱の中で衰退していった。後に室町時代から戦国時代にかけての後奈良天皇や江戸時代中期の中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けてきた。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の野宮神社には以下のように記されている。
野宮は小倉山の巽なる薮の中にあり、悠紀主基の両宮ありて、神明を祭る。黒木の鳥居小芝墻はいにしへの遺風なり。伊勢太神宮へ斎宮に立せ給ふ内親王、此所に三とせばかり住給ひて秡潔し給ふ。斎宮のはじめは垂仁天皇の御宇皇女によ倭姫の命みことなり。〔野の宮の別れとは、例によつて九月上旬吉日を卜定して、伊勢太神宮へ向ひ給ふとなり、後鳥羽の院の御宇に此事絶ぬ〕
本殿に野宮大神(天照大神)。境内社として本殿右に鎮火勝運の愛宕大神、本殿左に芸能上達の白峰弁財天、子宝安産と商売繁盛の白福稲荷大明神、交通安全と財運向上の大山弁財天、そして良縁結婚の野宮大黒天が祀られている。現在、多くの若者が参拝に訪れるのは、この良縁を祈願するためである。旧社格は村社。
野宮神社の象徴である黒木鳥居はくぬきを用い三年毎に建て替えを行ってきた。しかし用材の入手が困難になり、現在の鳥居は徳島の剣山から切り出した木に防腐加工を施している。このことが平成5年に建てられた案内板に書いてあった。
本殿の北側には、20坪程度の美しい苔庭がある。中央に2つの丘が築かれ、その間を小さな木橋がつないでいる。白砂が薄く敷かれることで流れを表現している。そして橋の傍らには木が植えられている。そして庭の奥には石燈籠と石組みが見える。
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