嵯峨野の町並み その4
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その4 2009年11月29日訪問
嵯峨野の町並み その3では、後嵯峨上皇が建設した亀山殿を中心とした鎌倉時代後期の嵯峨野の都市構造を推測するために、その痕跡を現在の嵯峨野の町並みの中に求めてみた。2004年11月に纏められた「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)が提示している手法に従い、元徳元年(1329)に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」そして元禄5年(1692)の「天龍寺境内絵図」を重ね合わせてみると、亀山殿とその周辺施設とそれらを改装して完成した天龍寺の位置関係が必ずしも一致する訳ではないことが見えてきた。
現在の天龍寺の伽藍は、京都府道29号宇多野嵐山山田線に東面するように構成されている。ただし放生池と法堂を結ぶ軸線は東西軸と一致しているものの、府道29号線は南北軸から15度程度西に傾いている。すなわち前面道路に対して直行する形で建設されたのではなく、あくまでも東西軸を優先して計画されたことが分かる。相国寺、建仁寺、東福寺、大徳寺そして妙心寺など多くの禅宗寺院が、その伽藍を南北軸に沿って計画し南面するのに対して、ここでは東面している。天龍寺は幾度かの火災を被ることにより、創建当時の建物は残っていない。すなわち康永2年(1343)の開創以来、延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)そして応仁元年(1467)と鎌倉時代から室町時代にかけて6度の焼失にあっている。近世に以降に復興された伽藍も、江戸時代後期の文化12年(1815)の火災、さらには元治元年(1864)の禁門の変に際し、長州兵討伐のため薩摩兵によって全山ことごとく焼き払われている。現在の天龍寺の建築は明治に入ってからの再興であり、桃山様式を表わす勅使門が最古の建築物となっている。
貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」によると、創建時の天龍寺は現在の府道29号線の位置にあった出釈迦大路に面して建設されたことが確認できる。しかし大堰川に渡された橋の位置が現在の渡月橋とは異なり、上流部分に描かれている。またこれより20年近く前に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」には、出釈迦大路(朱雀大路)に対して、西側に並行する南北路の惣門前路が描かれている。残念ながらこの絵図には大堰川に架けられた橋の位置が記されていないが、この惣門前路に接続していたと考えられている。そして亀山殿とそれに付随する北殿御所、薬草院そして浄金剛院は、この惣門前路より西側に建設されていた。すなわち、かつての渡月橋と現在の天龍寺の放生池を結ぶ線より西側に亀山殿とその付属施設があったことになる。また亀山殿本体は、やはり現在の放生池と法堂を結ぶ軸線より南側に計画されていたようだ。
嵯峨南陵の項でも触れたように、亀山殿造営が完成し、後嵯峨上皇の移徒が行なわれた建長7年(1255)を亀山殿の創立としている。上皇が造営に着手したのは、恐らく移徒が行なわれる2ないし3年前だと推定される。「歴代皇期」の建長7年(1255)10月27日の条に下記のようにある。
上皇嵯峨御所御移徒。件御所両三年之間大炊御門大納言実雄賜讃岐国造進歟。頗天下経営云々。
このことより、西園寺公経の子の洞院実雄が讃岐国の功を以って造進したといわれている。「百練抄」の康元元年(1256)10月25日の条には、以下のようにある。
上皇御所嵯峨殿御堂浄金剛院供養也
これより浄金剛院の造立は移徒の一年後となったことが分かる。上皇は移徒後も持仏堂や御堂を増築し亀山殿の拡張を続けたようだ。如来寿量院と薬草院の創建時期も定かではないため、移徒後に建立された可能性もある。この2つの御堂は寝殿の北西角に東西に並んでいたとされている。
そして文永9年(1272)正月15日附けで作成された後嵯峨院御処分状には、大宮院(後嵯峨院后 西園寺実氏女)には亀山殿と浄金剛院、円満院宮(円勝法親王 後嵯峨院皇子)に如来寿量院と薬草院が相続されている。後嵯峨上皇はこの年の2月17日に崩御している。
後嵯峨上皇に引き続いて亀山殿の主となったのは亀山上皇であった。恐らく母の大宮院より譲り受けて管理していたと考えられる。嘉元3年(1305)7月の亀山院御処分状には、照訓門院(亀山院妃 西園寺実兼女)に亀山殿と浄金剛院、後宇多上皇には薬草院、そして恒明親王(亀山院末子)に如来寿量院が与えられている。この処分状が作成された同年9月15日に亀山法皇が崩御している。その翌年の周忌に際して後宇多上皇は薬草院と如来寿量院の両御堂を壊し、その資材を以って灌頂堂を建立し供養を行なったとされている。この新堂は亀山殿内に造立されたのではなく、大覚寺にあったとも考えられている。このような移築があったため、元徳元年(1329)に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」には薬草院跡と寿量院殿跡と記されている。 元弘3年(1333)新田義貞によって北条高時ら北条氏一族を滅ぼされ、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇による親政が始まる。建武2年(1335)大多勝院で亀山院の曼荼羅供が行なわれた記録が残されている。このことから未だ亀山殿が存続していたことが分かる。しかし翌年の建武3年(1336)親政は瓦解し、後醍醐天皇は吉野に遷幸する。持明院統の光明天皇が践祚され、暦応2年(1339)に後醍醐天皇が崩御する。光厳院院宣が出され、亀山殿は後醍醐天皇を奉る寺院に改めることとなる。しかしこの頃には、住む人もなく破損はなはだしい状況になっていたようだ。
「夢窓国師語録」によると天龍寺創建当初の法堂は、亀山殿の如来寿量院の旧跡に建立されたことが分かる。「山科国亀山殿屋敷地指図」から分かるように、亀山殿の寝殿は如来寿量院の南側に建てられたことより、前述のように現在の天龍寺の東西軸線より南側に位置していたことが分かる。
川上貢著の「日本中世住宅の研究[新訂]」(中央公論美術出版 2002年刊)には鎌倉時代後半期における洛外院御所の研究として亀山殿についての考察が掲載されている。ここにおいて「山科国亀山殿屋敷地指図」からは伺う事のできない建物の規模と配置について、「門葉記」に掲載されている亀山殿広御所指図(文応元年(1260)7月5日)と亀山殿指図(文永5年(1268)10月23日)そして亀山殿寝殿指図(嘉元3年(1305)8月19日)を基に記述している。
復元図がないため明確に理解できなかったが、亀山殿の中央には東西桁行七間、南北梁行五間の南面する寝殿があった。この寝殿には東西の中門から渡殿で繫がれ、なおかつ北東より遣水が流れ、南庭を横切り池泉に注ぎ込んでいる。寝殿の南階前方には遣水を渡る石橋が架けられていたことが指図から読み取れる。寝殿の西方には梁行三間以上の持仏堂大多勝院が所在したと考えている。この持仏堂は西中門の北、寝殿の西庭池泉の近くに配置され、西中門や寝殿とは渡殿で連絡されていた。また寝殿の東側には、建物規模が不明であるものの広御所と呼ばれる施設があったと考えられる。これも西側と同じく東中門や寝殿と渡殿で繫がれていただろう。
亀山殿の寝殿、持仏堂そして広御所以外にも桟敷殿が建てられていたことが、「増鏡」や「五代帝王物語」から知られている。桟敷殿とは眺望を楽しむために建てられた建物を指す。「五代帝王物語」には下記のように記されている。
大井河嵐の山に向て桟敷を造て。向の山にはよしの山の桜を植えられたり
このような目的で建設された施設であるため、亀山殿の中で最も大堰川に望んで設けられたことが想像される。「門葉記」の文応元年(1260)7月5日の条には、桟敷殿から広御所の道場まで西中門と寝殿を経て参じている様に記されていることから、寝殿の西南部分に位置していたことが推測される。風光や自然美の観賞、遊興娯楽の会合や休息などを目的として建てられ使用されたことから、洛中御所に見る泉殿や釣殿と類似した施設とも見なされる。また鎌倉期上層公家の住宅において、居住することから開放され遊興を目的として造られた事より、川上氏が指摘するように数奇屋に連なる建築とも言えるだろう。
前述の「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)では大堰川に面した調査地から、亀山殿の桟敷殿の遺構の可能性が高い遺跡が現れている。建物基壇は桟敷殿と考えられるもので、石列で区画を造りその間に土を何層も入れ、つき固める版築という方法で形成されていた。この桟敷殿跡と推測される遺構から100メートルほど西側(小倉百人一首殿堂時雨殿 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-7)には、四阿風の建物と景石や斜面にある石組み遺構が発見され、亀山殿の南庭の可能性も考えられる。さらに亀山殿から天龍寺霊庇廟に改められた際に築かれた鳥居と柵の跡まで見つかっている。これらは、出釈迦大路が西に15度傾いているのと同じく天龍寺の南北軸線上から逸脱している。
これらを現在の地図上に落とすと下記のとおりとなる。
赤
1 A:天龍寺総門
2 B:浄金剛院の東北角
3 C:野宮大路の始まり
4 D:毘沙門天
5 E:野宮大路と現在の丸太町通の交差点
6 F:造路上の地点
7 G:亀山殿惣門
8 H:現在の小督塚
9 I:かつての渡月橋の北詰
10 J:芹川の河口
11 K:龍門橋
12 L:天下龍門
青
1 :亀山殿
2 :北殿御所
3 :如来寿量院
4 :薬草院
5 :浄金剛院
6 :芹河殿
7 :河端殿
青線 :かつての渡月橋の位置
赤線 :惣門前路
紫色 :朱雀大路・出釈迦大路
緑色 :造路
「嵯峨野の町並み その4」 の地図
嵯峨野の町並み その4 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ A:天龍寺総門 | 35.0159 | 135.6771 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0174 | 135.6753 | |
▼ I:かつての渡月橋の北詰 | 35.0134 | 135.6764 | |
▼ A:天龍寺総門 | 35.0162 | 135.6791 | |
▼ A:天龍寺総門 | 35.0162 | 135.6791 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0159 | 135.6758 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0159 | 135.6758 | |
▼ I:かつての渡月橋の北詰 | 35.0139 | 135.6764 | |
かつての渡月橋の南詰 | 35.0125 | 135.6766 | |
朱雀大路の南端 | 35.0166 | 135.6768 | |
亀山殿 右上 | 35.0149 | 135.6761 | |
亀山殿 右中 | 35.0139 | 135.6763 | |
亀山殿 右下 | 35.0134 | 135.6746 | |
亀山殿 左下 | 35.0141 | 135.6728 | |
亀山殿 左上 | 35.0151 | 135.6744 | |
北殿御所 右上 | 35.0159 | 135.6758 | |
北殿御所 右下 | 35.0152 | 135.6743 | |
北殿御所 左下 | 35.0154 | 135.6726 | |
北殿御所 左上 | 35.0161 | 135.674 | |
浄金剛院 右上 | 35.0169 | 135.6754 | |
浄金剛院 右下 | 35.0163 | 135.6749 | |
浄金剛院 左下 | 35.0166 | 135.674 | |
浄金剛院 左上 | 35.0172 | 135.6746 | |
芹河殿 右上 | 35.0138 | 135.6765 | |
芹河殿 右下 | 35.0135 | 135.6768 | |
芹河殿 左下 | 35.0139 | 135.6771 | |
芹河殿 左上 | 35.0141 | 135.6767 | |
河端殿 左上 | 35.0143 | 135.6786 | |
河端殿 左下 | 35.0138 | 135.6797 | |
河端殿 右下 | 35.0145 | 135.6804 | |
河端殿 右上 | 35.0151 | 135.6793 | |
01 | 亀山殿 | 35.0146 | 135.6744 |
02 | 北殿御所 | 35.0157 | 135.6748 |
03 | ▼ C:野宮大路の始まり | 35.0172 | 135.6745 |
03 | 如来寿量院 | 35.0158 | 135.6737 |
04 | D:毘沙門天 | 35.0195 | 135.6758 |
04 | 薬草院 | 35.0158 | 135.6733 |
05 | E:野宮大路と現在の丸太町通の交差点 | 35.0191 | 135.6738 |
05 | 浄金剛院 | 35.0169 | 135.6748 |
06 | F:造路上の地点 | 35.0161 | 135.6782 |
06 | 芹河殿 | 35.0139 | 135.677 |
07 | G:亀山殿惣門 | 35.0145 | 135.6763 |
07 | 河端殿 | 35.0144 | 135.6791 |
08 | H:現在の小督塚 | 35.0137 | 135.6764 |
10 | J:芹川の河口(「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」) | 35.0136 | 135.6806 |
11 | ▼ K:龍門橋 | 35.0164 | 135.68 |
12 | L:天下龍門 | 35.0166 | 135.681 |
この記事へのコメントはありません。