大徳寺 孤篷庵
大徳寺 孤篷庵(こほうあん) 2009年11月29日訪問
京福電気鉄道の北野白梅町駅で北野線を下り、駅前の京都市営バスの停留所から205号に乗車する。大徳寺へ行くのならば、7つ目の大徳寺前で下車すればよいのだが、塔頭の孤篷庵を訪問するならば、4つ目の千本北大路で下りる方がよいだろう。
京都市営バス205号を下車した後、北大路通を東に進む。南北に走る船岡西通と北大路通の角に大徳寺納豆と和菓子の紫竹庵本店が建つ。この紫竹庵本店の店舗前に大きな円柱状の「孤篷庵前」という道標が建てられている。ここから北側は住宅地となっているため、この道標は非常に有難い。北大路通から船岡西通に入り、2本目の東西道を過ぎると正面にフェンスで囲まれた駐車場の先に鬱蒼とした木々が現れる。船岡西通はここで突き当たる。地図で確認すると孤篷庵の南側の地続きの敷地となるようだ。東側からフェンスに沿って回り込むと孤篷庵の山門が現れる。
孤篷庵は通常非公開であるため、学生時代に一度拝観して以来30年近く訪れたこともなかった。どうも写真を整理していても、その時の写真が見つからなかったため、その時は撮影禁止であったのかもしれない。今回も特別公開が行われていないため、山門から中の様子を伺う程度しかできないと思われる。幸いにも山門は開き、中へと続く露地空間と山門前に架かる見事なデザインの石橋を見ることはできた。
孤篷庵は小堀遠州が隠居所として建立した大徳寺の塔頭であり、重要文化財に指定されている書院式茶室・忘筌席から眺める露地の構図はあまりにも有名である。
慶長17年(1612)小堀遠州は、大徳寺塔頭の龍光院内に江月宗玩を開祖として孤篷庵を建立している。当初の規模は不明だが、龍光院内に建てられていたことから、それ程規模の大きなものではなかったと考えられている。龍光院は現存する塔頭で、慶長11年(1606)黒田長政が同9年(1604)に亡くなった父の如水(黒田孝高・官兵衛)の菩提を弔うために建立している。開山は大徳寺111世春屋宗園であったが、慶長16年(1611)に示寂すると、その後を大徳寺156世江月宗玩が継いでいる。
この龍光院内に孤篷庵を建立してから、ほぼ30年を経た寛永20年(1643)に小堀遠州は現在の地に孤篷庵を移している。その後、寛政5年(1793年)の火災により焼失するが、遠州を崇敬した大名茶人で松江藩主の松平治郷(不昧)が古図に基づき、寛政9年(1797)に客殿、寛政12年(1800)に書院を再建している。
かつて孤篷庵にも禅徳(得)庵と称する創建経緯などは明らかでない北派の寮舎があった。この禅徳庵が廃された後の文化13年(1816)に、松平治郷は孤篷庵の西の地に寿塔と廟舎を建て、茶室も付設している。不昧の法名は大圓庵不昧宗納大居士であったので、この廟舎の院号は大圓庵となった。文化14年(1817)正月25日に松江から大崎に戻る不昧は京に立ち寄り、孤篷庵第7世寰海宗晙を主客とした大圓庵の茶室披きの茶会を行なっている。そして2日後には寰海が亭主を務める茶事を受けている。不昧はしばらく京に留まり、自らが開基した大圓庵の仏事を寰海に託し、3月12日には江戸大崎の鳥取藩下屋敷に戻る。この後、床に伏せがちとなり文政元年(1818)4月24日に逝去している。しかし不昧が自らの没後を託した寰海宗晙も文化14年(1817)に示寂している。
和田嘉宥氏の論文「松平不昧が弧篷庵に開いた茶室「大円庵」」によると、大圓庵は幕末の嘉永5年(1852)に焼失している。嘉永7年(1854)には大圓庵の牌堂は再建されるが、茶室の再建は行なわれなかった。嘉永6年(1853)はペリーが浦賀に来航した年であり、不昧が致仕後に茶禅一味の生活を送った大崎の鳥取藩下屋敷も幕府に没収されている状況ではやむ得ないものであっただろう。
小堀政一は、天正7年(1579)近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪・小堀正次の長男として生まれている。正次は浅井長政の家臣であり、縁戚関係もあった。しかし政一が生まれた頃は、織田信長によって浅井家が滅亡し、長浜城主は羽柴秀吉になった時期にあたる。正次は取り立てられ、秀吉の弟秀長に仕えている。天正13年(1585)秀長が郡山城に移封されると、秀長の家老となっていた正次は、政一を連れて郡山に移っている。この頃の秀長は、山上宗二を招き、千利休に師事するなど、郡山は京や堺や奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓となった政一は、秀吉への給仕を務め、利休とも出会っている。また父の勧めもあり、文禄2年(1592)の15歳の頃より大徳寺の春屋宗園に参禅している。天正19年(1591)秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保も文禄4年(1595)に没したため、秀吉直参となり伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。
慶長3年(1598)秀吉が没すると、正次、政一親子は徳川家康に仕えるようになる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康軍に属する。この戦いでの功により、慶長5年(1600)小堀正次は備中代官に任じられている。この時22歳であった政一は父に従い、備中松山に赴いている。しかし慶長9年(1604)江戸への途上の藤沢宿にて小堀正次は死去している。これにより政一は備中代官と備中松山城1万3千石を受け継いでいる。
政一は備中代官を務めるかたわら、慶長11年(1606年)御陽成院御所作事奉行、慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となっている。この駿府城普請の功により従五位下遠江守に叙任されている。そのため正確には、これ以前は小堀政一であり、小堀遠州と呼べるのはこの叙任以降の事である。
上記のように小堀政一は、若い頃から春屋宗園に参禅している。宗園は享禄2年(1529)京都に生まれ、建仁寺で得度するも、後に大徳寺の江隠宗顕に参禅し、永禄12年(1569)に大徳寺第111世住持となっている。宗園は千利休や今井宗及などと親交をもち、茶の湯にも造詣が深かった。そのため古田織部や千宗旦など、宗園のもとに参禅するものも多かった。政一もその中の一人であった。
「別冊太陽 小堀遠州 「綺麗さび」のこころ」(平凡社 2009年刊)の巻末に掲載されている小堀遠州年表を眺めると、慶長13年(1608)従五位下遠江守に叙任とともに、龍光院の密庵席の指導を行なったとしている。密庵席は四畳半台目茶室で、書院風茶室の代表的な作品。織田有楽斎の如庵、千利休の待庵とならぶ国宝に指定された茶室として有名である。元は独立した建物だったが、後に開山堂が建てられるなどして書院と接合され、書院から直接入ることができるように改められている。この時に南側の縁が失われ、西側の縁側と同様の明障子から襖に入れ替えたと考えられている。今も西側の縁には縁高欄が残されている。
現在の密庵席は西側の縁側との境には明障子がいれられ、南側の十畳間との境は襖で仕切られている。東北奥に手前座、北西奥に床の間が設けられている。手前座の北側から床の間の間には給仕口と茶道口があり、四枚障子となっている。これは先に触れたように、書院との接合のため南面の明障子を襖に入れ替えを行なった際の、採光不足を補うために変更されたと思われる。密庵席の北西角に設けられた床の間とは別に、手前座の南側に奥行の浅い床の間(付け書院)が設けられている。これは国宝の密庵墨蹟の掛けるための専用の床となっている。
政一は、慶長14年(1609)春屋宗園より大有の道号を受けている。政一が用いている孤篷庵、大有そして宗甫などの庵号、道号、法名はいずれも宗園から授けられたものである。遠州は茶の湯の中でも宗園を大切にし、正月三が日の茶会では必ず宗園の一行物を掛けたとされている。このように遠州が好んで用いたことが、宗園の墨蹟を流行に導き、後世に伝承されることとなった。
また同じ慶長14年(1609)には、小堀遠州像に春屋宗園が以下のような賛を残している。
活機透過万重関 宝剣光寒天地間
一戦功成退身日 安眠凭几対青山
慶長十四己酉稔中秋日 八十一老翁宗園
孤篷庵に伝わる遠州の肖像「小堀遠州像 春屋宗園賛」は、冠と袍を身に着け、目を瞑って脇息にもたれかかった老体に描かれている。当時の遠州は31歳と壮年期に入った頃にもかかわらず、自らの将来を描くような肖像に仕立てている。この不思議な肖像の成り立ちには、やはり2つの説がある。第一は春屋宗園に賛だけを貰い、後年になってから像を描いたとする説である。遠州の高弟村田一斎に学び肥後細川家の茶頭となった桜山一有が記した「桜山一有筆記」に「六十過候て御影出来」とあるのが、この説の根拠となっている。第二は老人の姿を始めから描き、宗園はその像を見た上で賛を記しているとする説である。春屋宗園の語録「一黙稿」には、この偈が収録されており、偈の詞書として以下のように記されている。
宗甫禅人寿容小堀遠州守也、図裏有剣有几
遠州の太刀は肖像の奥に、几すなわち脇息も描かれていることから、肖像を見ずして賛を記すことは出来なかったと推測している。この賛を記した2年後の慶長16年(1611)春屋宗園は寂している。
慶長17年(1612)遠州は、江月宗玩を開祖として大徳寺塔頭の龍光院内に孤篷庵を建立している。春屋宗園を失ったこの時期に、親交のあった宗玩を開祖として龍光院内に建立したのは、ごく自然な流れであったかもしれない。いずれにしても当時の龍光院は、現在の3倍程度の寺域を持つ規模の大きな塔頭であったようだ。現在のような寺地になったのは、神仏分離令の施行による破却が行われた結果である。
江月宗玩は、堺の豪商で茶人でもあった津田宗及の子として天正2年(1574)に生まれている。遠州が天正7年(1579)生まれであるから、宗玩は5歳年上にあたる。9歳の時に大徳寺に入り、春屋宗園の法を嗣いでいる。宗玩の語録をまとめた「欠伸稿」の慶長17年(1612)9月23日の条に「孤篷庵の記」を書いている。その序には、「予、方外の友と為って年久し」とあることからも、遠州が参禅を始めた文禄2年(1592)以降のかなり早い時期に互いの本領をよく知悉した関係にあったと思われる。
同じく慶長17年(1612)遠州は名古屋城天守の作事を手掛け、翌年にかけて内裏拡張の作事奉行も務めている。そして慶長19年(1612)36歳の時、大坂冬の陣に参戦、そして翌年の夏の陣も家康の旗本となるなど、文武両面での活躍が目覚ましい。
元和3年(1617)遠州は備中代官を退き、河内国奉行となる。これに従い大坂天満南木幡町に役宅が与えられている。そして元和5年(1617)遠州の領地は近江小室藩に移封されている。30余年して、再び出生地に戻ることとなった。ちなみに、遠州の後を次いだのは、因幡国鳥取藩6万石の池田長幸であり、長幸は6万5000石で入封し備中松山藩として立藩している。備中松山藩主は長男の長常に継ぐが、無嗣子で死去したため廃絶している。その後、水谷家、安藤家、石川家そして板倉家が継いでいる。幕末の老中首座を務めた板倉勝静は備中 松山板倉家の7代目にあたる。
元和5年(1619)の近江小室藩への移封に続き、さらに元和8年(1622)に近江国奉行に任ぜられている。この地に陣屋を整備し茶室も設けたが、ほとんど使わなかったと考えられている。元和9年(1624)にさらに伏見奉行に任ぜられた遠州は、豊後橋北詰に新たに奉行屋敷を設け、ほとんどここを役宅として暮らしている。これが現在の伏見奉行所跡であり、その際の役宅に築いた庭の名残が御香宮神社の庭園として拝観することができる。 もともと居所は、父の正次の頃より伏見六地蔵であったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。
遠州は正保4年(1647)伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じている。なお遠州から7代後の小堀政方も伏見奉行を務めるが、松平定信により天明8年(1788)に改易の憂き目に逢っている。このことについては、御香宮神社の伏見義民の碑で記しているのでご参照ください。これにより藩主を改易された小堀家は、旗本として家名を存続することとなった。
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