大雲院
浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ) 2009年11月29日訪問
大徳寺で訪問した総見院、芳春院、興臨院、黄梅院の4つの塔頭は、通常は拝観謝絶の寺院である。今回、幸いにも秋の特別公開によって拝観が可能になっている。天龍寺から、京福電気鉄道嵐山本線と北野線さらに市営バスを乗り継いで大徳寺に着いたのが12時少し前であったから、上記の塔頭の拝観と山内を歩いている間に、すでに3時間も経っていたことに気がつく。天龍寺の宝厳院と弘源寺も特別公開であったことから、本日7番目の特別公開寺院として大雲院へ向かうこととする。15時少し前に、勅使門の西側にある門を潜り、大徳寺の団体バスの駐車場に出る。紫野の大徳寺から祇園の大雲院までは、市営バスの乗り換えを行えば行くことも可能かもしれないが、公開時間終了までに確実に到着するために、客待ちをしていたタクシーに乗車することとした。車は北大路通を東に進み、賀茂川に出会うと西岸を南下する。出雲路橋で賀茂川の東岸に渡り、今度は下鴨西通を南下する。出町柳駅で川端通に入りさらに南下し、三条通の手前で東に曲がり花見小路に入る。四条通で左折し、東大路通も左折し八坂神社の南楼門前を通過する。円山公園と長楽館の前で下車し、神宮道を南に進むと大雲院の山門が右手に現れるが、ここから境内に入ることはできない。特別公開の受付は、高台寺が面する高台寺道、通称ねねの道の北の突当りにあった。
今回の大雲院の特別公開には、境内にある祇園閣の内部及び最上階からの眺望も含まれている。祇園閣については、2008年の5月に高台寺を訪れた際に、外観のみを見て一文を記したが、その時以来内部の見学と望楼からの眺望を待っていた。その訪問から2年経たずにして見学ができる機会を得られたことは幸運である。
大雲院は天正15年(1587)第106代正親町天皇の勅命により、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、烏丸二条の御池御所に建立されている。寺地は正親町天皇より与えられ、貞安が開山となっている。
本能寺の変は天正10年(1582)6月2日に起こる。織田信忠は妙覚寺に滞在し、父の信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かう予定であった。現在の妙覚寺は上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町、すなわち表千家、裏千家の北側にあるが、ここは本能寺の変で焼失した後の天正11年(1583)豊臣秀吉の命により移された地である。乱の前の妙覚寺は、御池通より衣棚通を上った場所(押小路通衣棚通あたり)に上妙覚寺町、下妙覚寺町の町名が残るように、この地にあったことが分かる。また信長が宿舎としていた本能寺も現在の地ではなく、蛸薬師通小川通の元本能寺町あたりにあったことは有名である。 明智光秀によって本能寺が強襲されたことを知った信忠は、信長を救援すべく本能寺へ向かおうとする。その時、京都所司代村井貞勝によって信長自害の知らせがもたらされ、本能寺への救援は取り止められる。そして妙覚寺より防御能力の高い場所に陣を移し、津田源三郎、村井貞勝らと共に光秀を迎え撃つこととなる。妙覚寺の東隣には、信長によって建設された二条新御所と呼ばれる城館があった。
天正4年(1576)に上京した信長は妙覚寺に宿泊している。この妙覚寺の東隣には二条家の邸宅があり、洛中洛外図屏風に描かれる名邸であった。もともと押小路烏丸殿は、陽明門院すなわち三条天皇の第3皇女で後に後朱雀天皇の皇后となる禎子内親王の御所があった地とされている。後に後鳥羽院の寵臣藤原範光の邸宅を経て、承元3年(1209)に後鳥羽院の仙洞御所となっている。陰明門院、土御門天皇の中宮となる大炊御門麗子の御所となるが、貞応元年(1222)の火災で焼失している。その後、正嘉元年(1257)になり後嵯峨院によって新たな御所が造営されている。これが押小路烏丸殿の直接の祖となる。弘長2年(1262)に院が寵愛する西園寺成子に与えられ、以後この地で生活している。
二条殿は南北朝時代太政大臣を務め和歌連歌で著名な二条良基の邸宅であったとする説もあるが、二条富小路殿が二条邸とする説もあり、明らかではないようだ。いずれにしても室町時代後期には二条家が押小路烏丸殿に居住している。この邸宅の南側には龍躍池と呼ばれる広大な池が存在し、池の上には泉殿と呼ばれる建物が建てられ、母屋と回廊で結ばれていたとされている。
これ以降、二条家及び二条邸は災難に付き纏われるようになっている。文明9年(1477)11月11日に放火によって焼失している。この日は応仁の乱の戦闘が事実上終了した日であり、応仁の乱でも焼失を免れていた押小路烏丸殿が、乱の最後の日に失われたのは偶然であったのだろうか。建物は9年後に再建されるが、二条家当主の急死が相次ぎ、政治的にも経済的にも没落の一途を辿ることとなる。当主は生活苦から各地の大名を頼って転々とし、邸宅の施設は荒廃していたようだ。
信長と縁戚関係にあった二条晴良・昭実父子は、信長により報恩寺に新邸を設けてもらい、移徒していたため既に空き家となっていたようだ。信長は上洛時の宿舎とするため京都所司代の村井貞勝に命じ、旧二条邸を譲り受けて改修を行っている。天正5年(1577)閏7月に初めて入邸し、8月末には改修を終えている。以後2年にわたり二条御新造に自ら居住し、京の宿所として使用する。
天正7年(1579)以降は、この邸に正親町天皇の第5皇子で皇太子誠仁親王を住まわせることになり、誠仁親王とその皇子である五宮邦慶親王(織田信長猶子)がこの二条新御所に転居している。本能寺の変がおきた天正10年(1582)6月2日、この二条新御所には皇太子誠仁親王が当然のように在宅している。妙覚寺より二条新御所に移った織田信忠は、明智光秀と話し合い誠仁親王を御所へ移した後、二条新御所に籠城し自害して果てている。享年26。この戦いで二条新御所は妙覚寺とともに焼失している。
室町通御池上ルには二条殿御池跡の碑が建つ。二条邸の頃より龍躍池と呼ばれる美しい池泉があり、洛中洛外図に描かれたのもこの名苑があったからであろう。先の碑はその御池の名残であり、御池通の起源となる池泉とされている。また、両替町通御池上ルには二条殿址碑があり、付近には二条殿町、御池之町、龍池町などの地名が残る。
皇太子の誠仁親王を無事に御所に届け自害した織田信忠の菩提を弔うために、本能寺の変より5年を経た天正15年(1587)正親町天皇は、信忠の法号・大雲院三品羽林仙巖大禅定門を寺号とし、大雲院を建立している。
開山の貞安上人は、天文8年(1539)相模国三浦郡黒沼郷に生まれている。下総飯沼の弘経寺で見誉善悦に師事し、その法を嗣ぐ。天正3年(1575)能登の西光寺に住するが、上杉謙信の穴水城攻めを逃れて近江に移り、天正4年(1576)安土の円通寺に入る。ここで織田信長の帰依を受け、この地に能登と同じ西光寺を建立し、安土における浄土宗の普及に寄与する。
天正7年(1579)5月、信長の命を受け霊誉玉念らと共に浄土宗の代表として、安土の浄厳院で行われた法華宗との法論、安土宗論に加わる。法華宗の僧侶を論破し、信長より軍配団扇と朱印の感状を受ける。本能寺の変の後の天正11年(1583)に上洛し、天正13年(1585)には正親町天皇に選擇集を講じ僧伽梨大衣を賜わる。翌天正14年(1586)8月には紫宸殿で説法を行い、誠仁親王親書の阿弥陀経が下賜される。元和元年(1615)示寂。77歳。
なお大雲院の旧地である四条河原町の高島屋の地名に貞安前之町が残されている。「京都の地名由来辞典」(東京堂出版 2005年刊)によると、元禄14年(1701)に纏められた元禄14年実測大絵図に既に貞安前之町の地名が見えると共に宝暦12年(1762)に刊行された「京町鑑」に大雲院の僧貞安の号を町名とした、と記している。
大雲院は創建の3年後の天正18年(1590)に、寺地が狭いという理由を以て豊臣秀吉によって寺町四条に移される。翌19年(1591)後陽成天皇により勅願寺となり大雲院の勅額を贈られ、織田信長、信忠父子の石塔が建立される。後陽成天皇は誠仁親王の第1皇子である。親王は天正14年(1586)に病没したため、皇太子であったにもかかわらず即位することはなかった。そのため、遺子である和仁親王(後陽成天皇)は正親町天皇の猶子となり、同じく天正14年(1586)譲位されている。後陽成天皇は後に誠仁親王へ陽光太上天皇の尊号を贈っている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、大雲院の図絵と共に下記のような説明が記されている。
龍池山大雲院は京極四条の南にあり、浄土宗にして智恩院に属す。本尊阿弥陀仏は恵心僧都の作り給ふ、開基は貞安上人なり。此人安土論の時、浄家の宏才にして、信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安こゝに住職す。時に信長公御父子明智光秀が為に生害し給ふを、貞安上人伝へ聞きて急ぎ京都に登り、二条烏丸の辺に庵室をかまへ、ひたすら御菩提を弔ふ。其後秀吉公の命によつて、天正の末に織田信忠卿追福のため当院を草創し給ふ。此卿の法名を大雲院殿三品羽林仙巌居士と称す。
ここには大雲院と正親町天皇の関わりについては触れられていないものの、信長と貞安上人の関係が良く伝わってくる。
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