京都府立鴨沂高等学校
京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう) 2009年12月10日訪問
京都府立鴨沂高等学校のグランドに巡らしたコンクリート塀の一角に掘り込むように作られた法成寺址の碑が建つ。時の最高権力者であった藤原道長が病を得て出家するために建立した無量寿院の寺地のほぼ西南角に、この碑は建てられている。道長が最初の建物として九躰阿弥陀堂が建てたのは寛仁4年(1020)のことであった。そして治安2年(1022)7月14日、金堂の建立供養を行い、寺号を法成寺としている。その後も堂宇の新築と改築を行い、道長の僧房は摂関時代を代表する大寺院へと変貌してゆく。しかし最初から意図して造営された寺院でないため、造っては壊し、また造るの繰り返しを行ないながら成長してゆく。その様は道長の無計画さを露呈するものの、反面で道長の権勢を示すものでもあった。万寿4年(1027)の末頃にはついに宝塔も建ち上がり、寛仁4年(1020)の着工より7年の時間を費やし大寺院として様相を一変した。そして、この年の12月4日に道長は病没する。 法成寺の経営は嫡子の頼通に引き継がれる。頼通は永承7年(1052年)道長より受け継いだ宇治殿を寺院に改め平等院を開基しているが、法成寺の整備は平等院の建立に着手する以前から手掛けていたようだ。永承5年(1050)に金堂の北側に新講堂を、そして天喜5年(1057)に寺地の西南隅に八角堂を造営し一応の完成を見る。
寛仁3年(1019)3月21日の道長の出家以来、凡そ40年の年月をかけて造り上げた法成寺も天喜6年(1058)2月23日の火災によって悉く焼亡している。法成寺再建は頼通によって翌3月27日より始まっている。同年10月27日には阿弥陀堂、薬師堂、五大堂の上棟式が行われている。そして康平2年(1059)10月12日に阿弥陀堂と五大堂の供養を行っている。このように新たに建て直された諸堂は道長が建立した伽藍配置を踏襲する形で行われた。康平4年(1061)7月21日に東北院の供養を行っている。さらに康平8年(1065)10月18日には、金堂の供養が薬師堂と観音堂とともに行われている。
延久6年(1076)2月2日に頼通は没するが、六男の師実が法成寺再興を引き継いでいる。承暦3年(1079)10月5日に宝塔、十斎堂、釈迦堂を建立し供養している。さらに講堂が竣工したのは寛治4年(1090)で、供養されたのは承徳元年(1097)10月17日のことであった。このように天喜6年の被災以降、再び40年の年月を費やして法成寺は元の姿を取り戻す。
しかし既に政治は上皇による院政から武家に移り、藤原氏も法成寺の維持管理が困難になって行く。吉田兼好は「徒然草」の中でかつての無量寿院も阿弥陀堂を見るのみになったと記しているが、その阿弥陀堂も元弘3年(1331)に焼亡している。このようにして道長の出家より300年後には、藤原氏の最も栄えた氏寺の全てが失われている。もし無量寿院が現在に遺っていれば、最も華やかであった摂関政治の建築として平等院の鳳凰堂以上の評価が与えられたであろう。また天喜の焼亡後に再建された法成寺が現在まで伝わったとしても、平安時代後期の貴重な寺院建築に私達は触れる機会を得られただろう。しかし、それが不可能となった現在、平等院鳳凰堂こそが藤原氏の栄華を語る唯一の建築となった。
法成寺址の碑がある荒神口通を西に進むと寺町通に突き当たる。左に折れて50メートル位南に下ると、京都府立鴨沂高等学校の校門が現れる。この学校の前身である新英学校及女紅場については、女紅場址とその2で触れたとおりである。この女紅場は明治5年(1872)に九条殿河原町邸に発足し、4月14日に開校している。坂本清泉・坂本智恵子両氏の共著「あゆみ教育学叢書10 近代女子教育の成立と女紅場」(あゆみ出版 1983年刊)によると下記のように名称を改めている。
明治 5年(1872) 新英学校及女紅場
明治 7年(1874) 英女学校及女紅場
明治 9年(1875) 京都女学校及女紅場
明治15年(1882) 京都女学校
明治20年(1887) 京都高等女学校
明治14年(1881)頃を境に、市中女紅場や遊所女紅場も次第に姿を消して行く。これは明治10年代後半に訪れた財政危機が大きな引き金となった。京都市内の小学校の運営を担ってきた小学校会社が姿を消すのも、明治18年(1885)から19年(1886)にかけてであった。さらに中央集権的な統制が教育分野に及ぶようになると、独自の教育理念を追求した女紅場は経済的な理由以外にも存続できない状況に追い込まれたと考えられる。そして明治5年(1872)から始まった女子教育における非常に理念的な実験が明治20年(1887)に終焉を迎えたという見方もできる。
上記のように「新英学校及女紅場」として始まった学校も2年後には「英女学校及女紅場」と女子教育が前面に現れる。そして明治9年(1875)には英語がなくなり「京都女学校及女紅場」となり、明治15年(1882)には、社会の趨勢を反映して女紅場という名称が遂に無くなる。因みに、社団法人京都鴨沂会→公益社団法人京都鴨沂会によると、「京都女学校」は「京都府立女学校」、「京都高等女学校」は「京都府立高等女学校」となっている。京都鴨沂会は明治20年(1887)に発足した京都府立高等女学校の同窓会である。
そして明治33年(1900)8月に旧九条殿河原町邸より現在の校地、松蔭町に移転している。この時、茶室と正門を同邸より移築している。従って現在の京都府立鴨沂高等学校の正門は、九条邸、女紅場を経て引き継がれている。女紅場という名称が消えてからも18年間、丸太町通の南、駒之町に京都女学校、あるいは京都高等女学校として残っていた。京都北山アーカイブズ→京の記憶アーカイブに収蔵されている旧一号書庫写真資料の中には、上京第三十二区女紅場、上京第二十九区女紅場、下京第二十二区女紅場、伏水第一区女紅場とともに「英学校及び女紅場」の写真が残されている。この撮影年代は明治初期とあるだけで、詳しい年代は分からないが、周辺の建物を見る限り、松蔭町への移転前であり、門札に“英”の字が見えることから明治5年(1872)から明治9年(1876)の間ではないかと考える。
明治37年(1904)4月に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。国立国会図書館所蔵写真帳、「写真の中の明治・大正」の関西編の中に、府立第一高等女学校の写真が残されている。この写真は明治41年(1908)に刊行された「京都府写真帖」(京都府 1908年刊)に掲載されているので、第一高等女学校に改称されてから間も無く撮影されたものであろう。この写真帖には府立第二高等女学校の写真も残されている。その説明によると、
22 府立第二高等女学校
上京区土手町通丸太町下る駒の町にあり、
今の府立第一高等女学校の旧校地校舎を襲用し
明治37年開校せり在学生徒589名にして
開校以来の卒業生161名なり
と記されている。この写真に見る建築は第一高等女学校のものであり、もしかしたら九条邸から新英学校及女紅場に引き継がれたものかもしれない。窓の辺りはガラスを入れるなどの改修が施されているが、全体の造りは優美な住宅建築にも見える。府立第二高等女学校は、早くも明治45年(1912)4月に二条城の西側に移転している。そして昭和23年(1948)4月に京都府立朱雀高等学校となり現在に至っている。
これらをまとめると、上京区土手町通丸太町下ル駒之町には江戸時代後期より九条邸があり、この邸の建物を利用して、明治5年(1872)に新英学校及女紅場が開校している。その後改称を繰り返し、明治33年(1900)、京都女学校の時代に松蔭町に移転している。明治37年(1904)残された校地と校舎を利用して府立第二高等女学校が開校するが、8年後の明治45年(1912)4月に二条城の西側、現在の京都府立朱雀高等学校の地に移転している。その後、吉田鉄郎の設計による京都中央電話局新上分局が竣工したのが大正13年(1924)のことであった。その後、平成元年(1989)よりレストランとして商業利用を開始し、平成16年(2004)からは挙式会場兼レストラン(カーニバルタイムズ)として使われてきた。平成22年(2010)より1階にスーパーのフレスコが営業している。
今回の鴨沂高等学校の項はこの辺りで終わりとし、松蔭町の歴史や校舎建替えについては次回訪問したときに書くこととする。
鴨沂の現在を知っていただくための動画を作りました。
是非ご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=x2lV3DvWqTw