二尊院
天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん) 2009年12月20日訪問
落柿舎を出て、再び愛宕街道に戻り、北に向かって歩く。有智子内親王墓そして去来墓、西行井戸のある弘源寺墓地を過ぎると、二尊院の総門が現れる。
天台宗の寺院・二尊院の山号は小倉山。正式な名称は二尊教院華台寺という。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)には、創建についての2つの説を併記している。承和年間(834~47)に嵯峨天皇が慈覚大師に勅して創建したとする説。二尊教院は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を本尊としたことに由来している。また別の説として、二尊院縁起には嵯峨天皇が同じく承和年間に阿弥陀如来を本尊とする華台寺と、釈迦・弥陀二尊を本尊とする二尊教院を建立したとする説である。両者ともに創建に嵯峨天皇が関わっている点で一致するが、前説には慈覚大師の名が現れている。
入唐八家の一人で後に第3代天台座主となる慈覚大師、すなわち円仁は延暦13年(794)下野国都賀郡壬生町の豪族壬生首麻呂の子として生まれている。幼い頃より兄から儒学を勧められるも仏教に関心を示し、9歳で大慈寺に入寺する。師となった第三祖広智は鑑真の直弟子の道忠の弟子であった。道忠は早くから最澄を認めており、多くの弟子を最澄に師事させてもいた。もともと大慈寺は天平9年(737)に行基が開基した寺院とされているが、第二祖として道忠も住持を勤めている。そのような環境の中で、唐から最澄が帰国したことを聞いた広智は円仁を連れて比叡山に行った。これは円仁が15際の時の事である。円仁は最澄に師事するだけではなく、奈良仏教からの攻撃や空海による真言密教の興隆など天台宗にとって困難な時期、最澄に忠実に仕えた弟子でもあった。弘仁5年(814)言試という国家試験に合格し、翌年には得度している。師である最澄は弘仁13年(822)比叡山で入寂する。享年56.
円仁は承和2年(836)に初めて唐への渡航を行うが失敗する。翌年も失敗したが三度目となる承和5年(838)船が大破するも中国への上陸を果たす。遣唐使はこの後の寛平6年(894)に停止となったため、円仁の航海が最後の遣唐使となる。この航海の副使には小野篁が任じられていたが、乗船を拒否したことから嵯峨天皇より流罪に処せられている。ちなみに最澄や空海はその前回の延暦23年(804)に唐に渡っている。円仁は短期間の入唐僧であったため天台山への入山の許可が得られなかった。色々と画策するも天台山入山は果たせず、代わりに五台山巡礼から長安への旅を実現させている。その後、唐朝に帰国を申し出るも許されない内に、会昌の廃仏が起こり外国人僧の国外追放という形で帰国したのは承和14年(847)であった。
円仁は貞観6年(864)まで生きて、目黒不動や浅草の浅草寺そして松島の瑞巌寺などを開いたされている。その数は関東でも200寺、東北では300寺以上とされている。承和年間に開かれた二尊院の開基が円仁であるということは、帰国直後に創建されたこととなる。
その後長い期間、荒廃していた二尊院を再興したのは法然とその庇護者となった九条兼実であった。法然が比叡山を下り、清凉寺などで遊学を行ったのが保元元年(1156)とされているので、この頃より承元元年(1207)の承元の法難までの間のことと思われる。法然は臨終に際し円仁から相伝の九条袈裟を床にかけ、頭を北に顔を西に向け「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という経文を唱えたとされている。法然の円仁に対する、宗派を超えた私淑が伺える逸話となっている。 その後の二尊院の住持は、法然の弟子で法難により四国に配流した際にも法然に従った正信房湛空が就任している。湛空は左大臣徳大寺実能の孫、円実の子として安元2年(1176)に京都に生まれている。はじめ比叡山に上り、天台座主66世実全の弟子となって顕密二教を学ぶが、浄土教に帰依して法然の弟子となっている。そののち貞永2年(1233)法然の遺骨を分かち受けて二尊院の墓地に宝塔を建てて納め、33回忌には法然の伝記を整理して「本朝祖師伝記絵詞」4巻を著わしている。土御門・後嵯峨両院の戒師となったことで、二尊院の堂宇も興隆している。入寂後、二尊院墓地に「空公行状碑」が建てられ現存する。
次の叡空も後深草・亀山・後宇多・伏見の四帝の戒師を勤め帰依を受けている。この時代にも堂宇を増進するとともに天台真言律浄土の四宗兼学の寺院となっている。さらに足利尊氏の天龍寺建立に際し亀山殿内の寺院浄金剛院が二尊院に移され、寺運は高まっている。浄金剛院は亀山殿の東北隅にあった寺院で、現在の野宮神社から大河内山荘に行く道の角にあった。道観証慧に帰依していた後嵯峨天皇が、道観を開山として創建された寺院である。なお後嵯峨天皇は、文永9年(1272)2月19日、亀山殿の別院薬草院で火葬され、隣接する浄金剛院に建立された法華堂に文永11年(1274)納骨されている。上記のように足利尊氏によって天龍寺が創建された際に区画整理が行われ、由緒ある浄金剛院は二尊院に移されている。そのため浄土宗西山派嵯峨流の拠点となった。またこの時に亀山天皇の亀山陵とともに後嵯峨天皇の嵯峨南陵の行方が不明となっている。幕末の修陵の時に現在の嵯峨南陵に治定され、甲子戦争後の元治元年(1864)11月起工、慶応元年(1865)5月6日に竣工している。 なお、徒然草第220段に「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。(中略)浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」とある。吉田兼好が徒然草を執筆した時期には、浄金剛院が健在であったことが分かる。臨済禅黄檗禅の公式HPに掲載されている妙心寺には、妙心寺法堂内に保管されている国宝の梵鐘は浄金剛院の鐘とされている。「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連廣國鋳鐘」という銘文より文武天皇2年(698)に九州で作られたと考えられている。日本最古の紀年銘鐘である。
このように興隆した二尊院も応仁元年(1467)から10年続いた応仁の乱により再び荒廃している。永正年間(1504~21)になり、長門の僧広明恵教が二尊院に草堂を結び、内大臣にして古今伝授を受けた和学者三条西実隆とその子の協力を受けて再興している。そして永正15年(1518)には諸国勧進が許されている。現在の本堂はこの時代の造営である。近世に入り豊臣氏、徳川氏より夫々寺領120石を寄進されている。さらに宝永6年(1709)には200石が追加され320石となった。檀家には二条家、鷹司家、三条家、三条西家の堂上家に加え、角倉、福井、伊藤等の豪商を擁していることで、堂宇も完備し子院5ヶ寺の西嵯峨有数の寺院となった。
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