京都御苑 九條邸跡 その5
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その5 2010年1月17日訪問
安政5年(1858)2月5日に着京した老中・堀田正睦は、ほとんど何も得ることなく、4月5日に京を去っている。幕府の要請を受けて条約勅許についての落とし所を探っていた関白・九条尚忠も孝明天皇の開国拒絶の強い意思のもとには、何をすることも叶わなかった。条約勅許については、主上と青蓮院宮、鷹司太閤、近衛左大臣、鷹司右大臣そして三条前内大臣の完全な勝利であった。しかし世子問題では一橋慶喜の名を出すこともなく、ただ張紙に「年長の人を以」の六字を加えるに留まった。これは武家伝奏の広橋光成が冷淡に取り扱ったためであり、あるいは紀州派の調略が広橋に及んでいた結果かもしれない。いずれにしても堀田にとって条約勅許を得られなかったことが余りにも大きく、世子問題についての悔いはなかったと思われる。徳富蘇峰もこの内藤耻叟の「安政紀事」(「幕末維新史料叢書6 戊辰始末・安政紀事」(人物往来社 1968年刊))の堀田が年長を加えて欲しいと請うた事に対して疑問を呈している。堀田は本当に一橋推進派であったかについての確証が得られないからである。
堀田は京都を去ったが、孝明天皇等の開国拒絶派にとって危機が無くなった訳ではなかった。先ず4月23日に井伊直弼が大老に就任している。井伊の大老就任については薄々評判が無かったわけではなかったが、その決定の早さについては周囲を驚かせたようだ。所謂識者と呼ばれる人の間では、井伊の評価は高くなく、その就任は歓迎されるものでなかった。そのため就任当初は凡庸漢で役に立たない人物とも見られていた。すなわち井伊を侮る人が多く居たと言うことであり、これが彼の暴走を阻止できなかった一因にもなる。
帰府した堀田は、4月25日に勅諚に従い三家以下諸侯に登営を命じ条約調印に関する勅書を示し再び意見を求めている。そして翌26日には米国領事ハリスと三度目の調印延期の期日について打ち合わせている。堀田は6ヶ月に対してハリスは3ヶ月と合意には至らなかった。4月28日に老中の職掌を定め、堀田正睦は外国事務・京都警衛・摂海諸砲台築造・学問所・講武所と外交から防衛に関しての担当とした。5月2日、調印に関する交渉はその期日を7月27日とすることで決まる。これはハリスの主張した3ヶ月が通ったことになる。なお、5月3日に世子問題に対する意見書を提出した勘定奉行・川路聖謨は、6日には西丸留守居に左遷されている。これは京都での不首尾に対する懲罰ではなく、大老による一橋派の排除であり同日に大目付・土岐丹波守も大番頭に転じている。
6月朔日、幕府派御三家以下溜詰諸侯に世子が決定されたことだけが発表される。つまりこの時点では世子が徳川慶福であるか、又は一橋慶喜であるかについての公表はなかった。6月14日下田に入港した米国汽船ミシシッピー号によって英国がインドにおける叛乱を平定し、英仏連合軍が清軍を破り講和条約を締結したという報を伝えている。ハリスは幕府に対して英仏連合艦隊が日本に来航する前に日米通商条約締結を勧めた。18日から交渉を開始し、翌19日午後3時に日米通商条約に調印している。井伊は調印に対する勅許を得るため引延ばしを求めたが、調印の時期は現場で判断することと岩瀬忠震と井上清直に任せた。元よりこの機に条約調印を果たそうと考えていた岩瀬は予定通り調印する。つまりハリスは英仏を使い条約調印を目指し、岩瀬はハリスを奇貨として開国を成し得ている。井伊大老は事情に通暁していなかったためハリスと岩瀬の謂うがままに同意してしまったというのが当時の実情であろう。
6月20日、大老は所労と称して出仕しなかった。翌21日に宿次奉書を以って京都へ条約調印について報告している。この書面は脇坂安宅、内藤信親、久世広周そして堀田正睦と松平忠固の連署で武家伝奏の広橋光成と万里小路正房宛となっている。ただしこの日、堀田正睦と松平中忠固には書簡が与えられ、登営が停止されている。松平忠固は大老と権を争い大老の上申で、堀田正睦は京都奉使の失敗により将軍の命で老中を6月23日付で罷免されている。なお、徳富蘇峰の松平忠固に対する評価は厳しい。「近世日本国民史 井伊直弼執政時代」(時事通信社出版局 1965年刊)では「彼は単に老獪なるばかりでなく、狼戻・我執、俗吏にして猾吏、且悍吏であったから、其の不人望も彼に取りては当然の事であらう。」と酷評している。これには紀州派、一橋派の旗幟を明らかにしなかったこと以上のものがあるようだ。
この人事が調印時期と重なったため、調印の責任を転嫁するもののように見られたことは井伊大老の失策あった。2人の老中に替わり太田道醇、間部詮勝、松平乗全の3人を昇格させている。これらは井伊の言いなりとなる人物であり、大老就任2ヶ月にして自らの意思を実現できる内閣に改造している。これが安政の大獄ための準備でもある。
6月22日幕府は在府の諸侯に登営を命じ米国との条約調印の顛末を説明している。翌23日には上記の通り堀田正睦と松平忠固の老中罷免と太田道醇、間部詮勝、松平乗全の老中就任が発表されている。そして6月24日に前水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶恕、水戸藩主・徳川慶篤、福井藩主・松平慶永(春嶽)の不時登城が起こる。これについては京都御苑 賀陽宮邸跡 その3で触れているので詳しくは記さない。いずれにしても19日の条約調印から目まぐるしく政治は動いて行く。徳川斉昭等の違勅条約締結に対する抗議は、大老と老中によって見事にかわされ、不時登城の罪が残った。さらに翌25日に紀州藩主徳川慶福が継嗣と定められ、26日には京都所司代に小浜藩主酒井忠義が就任、老中・間部詮勝が条約調印の弁疎のため上京が決まる。7月4日に不時登城の処分が決し、翌5日に前水戸藩主・徳川斉昭に急度慎、尾張藩主・徳川慶恕に隠居・急度慎、福井藩主・松平慶永にも隠居・急度慎を命じ、一橋慶喜の登営を停止している。そして6日に第13代将軍・徳川家定が薨去するが秘せられる。この日、水戸藩主・徳川慶篤の登営も停止される。井伊は不時登城を将軍直訴あるいは閣臣弾劾と見なし、その内容の是非に関わらず処罰したのだ。
関東が6月21日付けの宿次奉書は22日に発送され、27日に京都に到着している。到着時の状況は議奏・久我建通の家記によると以下の通りであった。
今度亜墨利加条約之事、徒二東武一調印相済旨申来儀也。各驚愕無二為方一、何分早々可レ有二言上一方歟と申答。
上記のように7月9日付の返答において、老中・間部詮勝の上京が京都に伝えられたが、実際に間部が入洛したのは9月17日で、参内したのは10月24日の事であった。最初間部の上京の目的は調印についての説明であったが、出発が遅れるにつれて反井伊派に対する取締り、特に水戸藩による京都手入れの遮断、水戸派及びそれに連携する民間の有志に対する弾圧へと変わっていた事は確かである。この方針の変化については戊午の密勅の存在が大きな影響を与えている。この事件は安政の大獄の主因とはならないまでも大獄の誘因とはなった。つまり大獄は戊午の密勅がなくても断行されたが、しかしこの事件により水戸派に対する嫌悪感が高まり、大獄がより凄惨なものになったことは明白である。
7月27日に関白・九条尚忠が賜った宸翰には、当時風評となっていた大老上京遷座之事にも触れ、在位の間は京を離れないとした上で、6月28日以来再び御譲位の思召しが示されたのであった。これには、先ずは三家並びに大老の速やかな上京が拒絶されたこと、続いてアメリカ以外のロシア、イギリス、フランスとの条約についての上奏が届いたことにある。この2点が主上に再び譲位の御決断を促すこととなった。またこの日、太閤の内覧を辞することが容れられている。まだ政権に残る意志を持っていた太閤にとって、内心不本意のことであったが、これも関白と太閤との間の権力闘争の中の一局面である。
8月5日、宮中では関白、議奏、武家伝奏の諸臣が召集され、譲位と幕府詰問の2点について話し合われた。やがて主上の御譲位の御沙汰書すなわち御趣意書を幕府に伝達するのではなく、水戸藩への勅諚降下へと変化して行く。当初は三条前内大臣が勅使となり江戸に下り、将軍に向って井伊大老の退職、尾張・水戸・越前藩主の幽閉を解くことを伝えるものであった。しかし井伊自らがこのようなことを受け入れないことが自明であるため、水戸をして聖旨を執行させようということに変わった。関白が意図的に欠席した同月7日に水戸への勅諚降下が三公と前内大臣によって確定する。九条関白の承認を得ていないため、三公と三条実萬の四人連署の御治定之趣を議奏中山が関白に伝え、返答を近衛左大臣に返すこととしている。つまり8月7日は関白不在の決裁となった。なお今回は一橋問題の付記を見合わせられている。「孝明天皇紀 第三」(平安神宮 1967年刊)の8月5日の条によれば、別紙御趣意書の全文は下記の通りである。
先般墨夷仮条約無余儀次第ニテ於神奈川調印使節ヘ被渡候儀猶亦委細間部下総守上京被言上之趣候得共先達テ勅答諸大名衆議被聞食度被仰出候詮モ無之誠皇国重大之儀調印之後言上大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立尤勅答之御次第ニ相背軽率之取計大樹賢明之所有司心得如何ト御不審被思召候右様之次第ニテハ蛮夷之儀ハ暫差置方今御国内之治乱如何ト更ニ深被悩叡慮候何卒公武御実情ヲ被尽御合体永久安全之様ニト偏被思召候三家或ハ大老上京被仰出候所水戸尾張両家慎中之趣被聞食且又其余宗室之向ニモ同様御沙汰之趣モ被聞召及候右ハ何等之罪状ニ候哉難被計候得共柳営羽翼之面々当今外夷追々入津不容易之時節既ニ人心之帰向ニモ可相拘旁被悩宸衷候兼テ三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨全永世安全公武御合体ニテ被安叡慮候様被思召候儀外虜計之儀ニモ無之内憂有之候テハ殊更深被悩宸襟候彼是国家之大事ニ候間大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之誠忠之心ヲ以得ト相正シ国内治平公武御合体彌御長久之様徳川御家ヲ扶助有之内ヲ整外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候早々可致商議勅諚之事
添書
別紙御沙汰之趣尋常之御事ニ候得ハ御斟酌之御次第モ被為在候得共何分蛮夷之事件ニテ於関東モ大改革之御時節ニ候得ハ万一此上公武御隔心个間敷儀有之候テモ甚以被悩叡慮候間格別之儀ヲ以無御隔意被仰進候間此段不悪御聞取ニ相成候様被遊度御沙汰之事今度被仰進候趣三家始相心得候様別段水戸中納言ヘ被仰下候此段御心得之為申入候事
八月八日
右台紙
別紙
勅諚之趣被仰進候右ハ国家之大事ハ勿論徳川家ヲ御扶助之思召ニ候間会議有之御安全之様可有勘考旨以出格之思召被仰出候間猶同列之方々三卿家門之衆以上隠居ニ至迄列藩一同ニモ御趣意被相心得候様向々ヘ伝達可有之被仰出候以上
八月八日
右台紙水戸中納言ヘ添書
以上が所謂、戊午の密勅と呼ばれるものである。勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責。御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体を成し幕政改革を遂行せよとの命令。そして上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書である。つまり幕府の現行政治を糾弾し、幕府に対する不信感を表明している。さらに幕政改革を朝威以って断行することも辞さない決意をも表わしている。要求している内容は、即時条約破棄あるいは鎖港などと具体化はしていないものの、明らかに堀田が3月20日に賜った勅答よりも厳しい内容になっていた。さらに幕府にとって許しがたいことは、この勅諚を水戸家に下降した点である。朝廷が一大名に対して命令を下す事は幕藩体制の根幹を揺るがすことであり、すでに徳川幕府創設時より禁じていた行為でもある。その禁を破り勅諚を降下させた行為こそが、この密勅の破壊力でもある。さらに朝廷が求める幕政改革とは、井伊内閣の存在自体を否定することであり、大老・井伊直弼にあっては朝廷から否認状を突きつけられたことと同じでもある。なお添書きは九条関白の内旨で出たもので、特に幕府が賜ったものである。もともと御趣意書は水戸に下さるために書かれた物であるので、この勅諚は幕府宛に書かれた物を水戸に送ったのでは無く、本来水戸に送るべきものを念のために幕府にも送付している。賜勅水戸と呼ばれる由縁である。
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