京都御苑 九條邸跡 その7
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その7 2010年1月17日訪問
長野主膳と大老・井伊直弼に共通する考え方は、現状が自らの望み通りになっていない裏には敵対する勢力の陰謀が存在するというものであろう。この敵対勢力を排除するには力の行使が必要であり、それを正当化するために関連する風聞を積極的に集めるという手法であった。井伊大老は長野主膳がもたらす京状報告を以って、関東において処断を下すことになっていたが、長野の上京以前から一連の騒動の原因は水戸藩にあり、水戸の入説に従って三公と三条前内大臣そして青蓮院宮が動いているというシナリオを用意していた。そのため長野はシナリオの正当性を強化するような都合の良い情報を関東に送っていたともいえる。
8月27日に桑名で所司代・酒井忠義と面会し、梅田雲浜捕縛について同意を得たにも関わらず、9月に入っても捕縛は執行されなかった。最初の犠牲者が現われる。8月晦日、山本貞一郎が病死する。徳富蘇峰は「近世日本国民史 安政大獄 前篇」(時事通信社出版局 1965年刊)で山本貞一郎を下記のように記している。
戊午の際幕吏の追従にあひ、妻女の江戸にあるもの亦捕はる。八月二十九日免れざるを知り毒を仰いで死す。年五十六。
老中・間部詮勝を大津で迎えるため紀事二十五篇を作っていた梁川星巌も9月2日に病死している。その臨終の様子を世古は「唱義聞見録」で下記のように記している。
後聞に星巌病重りしかは紅蘭にいひけるに男子婦人の手に死せず汝別室に在へしとて遠さけて門人をして介抱せしめ死に臨み病床を出端座瞑目して終れりとなり平生の学問に耻すと人これを称せり池内話
9月2日の九条関白の辞職によって、梅田雲浜の捕縛は見合せとなる。9月5日付長野主膳から宇津木六之丞宛ての書簡(10・三)に、そのあたりの経緯が記されている。京町奉行・岡部土佐守が9月5日の朝に所司代を訪れ、関白が辞職し近衛左大臣が取り扱いとなったため、その手先を召捕えることは難しいので梅田捕縛は見合わせるとのことだった。大津でこれを小浜藩士・三浦七兵衛から聞いた長野は、先ずは梅田の捕縛、そしてその自白から4・5人の召捕によって悪謀の方々も前非を悔いるようになるので、必ず捕縛は必要と主張している。そして所司代ができないならば、彦根の手を用いても逮捕すると宣言している。
長野は9月6日夕刻に大津を出て伏見に入り、伏見町奉行・内藤豊後守に面会している。そして7日の夜に伏見町奉行所の手を用いて梅田雲浜の捕縛を行っている。なお佐伯仲蔵編の「梅田雲浜遺稿並伝」(有朋堂書店 1929年刊)では捕縛の日を5日、7日、8日、9日そしてその他と5つの説をあげている。長野は9月8日の宇津木宛の書簡(10・一三)で以下のように記している。
梅田一件漸々落著、今日内藤豊後守殿俄ニ出京相成、同夜無滞召捕相成安心仕候
世古の「唱義聞見録」でも9月7日囚に就ける時とし、「維新史料綱要 巻三」も9月7日の条に上げている。なお世古格太郎はこの7日に京を出て伊勢松坂に帰っている。既に有志達が行えることが京に無くなったことを現している。そしてこの梅田雲浜の捕縛こそが安政の大獄の本格的な始まりとなる。
安政3年(1856)8月8日に鷹司政通に代わって関白となった九条尚忠は、安政5年(1858)9月2日に辞任に追い込まれるが、幕府の後押しを受けて10月19日には辞表が撤回されている。そして同月13日には近衛左大臣、鷹司右大臣、一條内大臣の三公と三条前内大臣が、外夷一件の評議を辞している。これによって九条関白の政権基盤は磐石なものとなった。
間部は12月晦日に参内し帰府の暇を賜っている。その際に、外交拒絶の期を緩め漸次良策を巡らして国威を挽回せしめよとの宣達書が授けられている。「孝明天皇紀 第三」(平安神宮 1967年刊)の安政5年(1858)12月30日の条に宣達書が掲載されている。その中に下記のような一文が見られる。
何レ於蛮夷ハ如叡慮相遠ケ前々御国法通鎖国之良法ニ可被引戻段一致之儀被聞食誠以御安心之御事ニ候
鎖国の旧法に戻すことを老中・間部詮勝と所司代・酒井忠義が言上し、大樹公(将軍)及び大老、老中が行わなければならいないことしている。これは幕府にとって当初想定していた範囲を大きく逸脱するものとなったであろう。これには、九条関白と間部詮勝との間で行われた幾回かの協議において第一案文から第四案文まで作られていた。第一案文には下記のような文が見られる。
此上ハ責テ兵庫一港可被差除歟或大坂出商可被差止歟左候ハ丶自余之所ハ三个年或ハ五个年御猶予可被為有候間右年限中岐度追々挽回可有之様被遊度思召候
幕府にとって非常に具体的な条件が提示されたが、これを間部が九条関白との交渉で上記の宣達書のレベルまで押し戻したと見ても良いだろう。いずれにしても、何の保証もない間部詮勝が行った詭弁によって引き出された空手形である。間部が京を発つのは翌安政6年(1859)2月20日で、江戸に帰り着いたのは3月13日のことであった。大老・井伊直弼は長期間、間部を京に置き徹底的に主上の周辺を一掃することを望んでいた。間部の出京が遅れたのは関東側の要請に応えるものであったが、間部自身は京に長居することにより人質化する危険性を感じ、長居は無用と考えていたのであろう。また主上周辺も武力行使の象徴となる間部が一日でも早く江戸に帰ることを望んでいた。その意味ではお互いの思惑は一致していた。
蛮夷一件に次ぐ問題は宮中における廷臣の処分である。安政6年(1859)1月10日に左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔熙が辞官落飾、太閤・鷹司政通と前内大臣・三条実萬が落飾を願い出ている。この四公落飾一件に決着が付いたのは、4月22日の勅許によってである。四公落飾に3ヶ月余りの時間を要したのは、主上を中心とした寛典活動が行われたためである。
九条尚忠は、堀田正睦の条約勅許、継嗣問題そして間部詮勝の調印勅許において、幕府側との斡旋を行ったとして、安政6年(1859)8月15日幕府から家禄千石、職棒五百俵を加増されている。その後も和宮降嫁問題に奔走するが激派志士及び堂上公卿の反感を買うこととなる。文久2年(1862)4月25日、井伊大老によって行われた懲罰の解除を、幕府は自らの手で行っている。そして5月29日には鷹司太閤、近衛前左大臣、鷹司前右大臣に復飾を命じている。太閤は高齢を以って辞退している。以前から九条関白は身辺の危険を感じ栄職を擲つのも止む無しと考えていたようだ。文久2年6月23日に九条尚忠は関白を辞している。この予感は的中したように7月20日に九条家家士・島田左近が殺され、首を鴨川筋四条北の河原に晒されている。これが文年間の天誅の始まりとされている。また8月20日には千種有文、岩倉具視、久我建通、富小路敬直に蟄居が命じられ、辞官落飾となる。これは、所謂四奸二嬪の処分である。九条尚忠も閏8月25日に落飾重慎を命じられ、京外の九条村に退去している。尚忠の子である九条道孝も差控が命じられたが、程なくして許され、元治元年(1864)5月9日に国事御用掛に補されている。尚忠の朝譴が赦されたのは慶応3年(1867)正月15日のことであった。同日に有栖川宮幟仁親王や正親町実徳など甲子戦争後に処分された人々も同じく明治天皇の践祚に伴い赦免されている。尚忠は入洛が許され還俗も命じられている。さらに明治元年(1868)9月18日には准三宮の宣旨を賜っている。明治4年(1871)8月21日に薨去。享年74。
九条道孝は慶応3年(1867)12月9日の王政復古により、「復古記 第一冊」(内外書籍 1930年刊)によると国事掛を免じられ御沙汰あるまでは参朝が停止されている。また同月26日には九条邸が仮の太政官代となっている。道孝の参朝は慶応4年(1868)正月16日に許されている。なお大炊御門家信、近衛忠煕、近衛忠房、鷹司輔熙、徳大寺公純、一條実良、広幡忠禮、日野資宗、柳原光愛、広橋胤保、飛鳥井雅典、葉室長順、六條有容、野宮定功、久世通煕、豊岡随資、伏原宣諭、裏辻公愛も同日に許されている。
2月9日に奥羽鎮撫総督府が定められ、総督・澤為量、副総督・醍醐忠敬、そして参謀に黒田了介と品川弥次郎が就いたが、後に参謀は世良修蔵と大山綱良に代わっている。長州・薩摩各1名の参謀を同藩の違う人物に代える人事であったが、このことが仙台での暗殺事件を引き起こし奥羽列藩同盟へとつながって行く。また同月26日に九条道孝を総督、澤為量を副総督そして醍醐忠敬を参謀との再度の変更が成されている。3月2日に京から大坂に出て、11日には天保山沖から乗船し、18日に仙台藩領に到着している。松島を経て3月23日に仙台に入る。そして4月12日に仙台を発し岩沼駅に至る。「復古記 第十二冊 復古外記 奥羽戦記」(東京大学出版会 1930年発行 1975年覆刻)によれば奥羽鎮撫総督府は、明治元年(1868)11月18日に東京に凱旋している。総督及び副総督に対して勅語による御慰労はあったものの達書及び賜品は無かったとされている。
以上のように九条家は幕府の支援者として京都にあったものの、九条尚忠が落飾した後も子の道孝が国事御用掛に就くなど九条家を継いで来た。維新の一時期は参朝を停止されたものの、上記のように奥羽鎮撫総督として参戦するなど、明治の世にも爵位の最高位である公爵家として近衛、二条、一條、鷹司とともに残った。
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