徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:京都府

二条城

 

二条城(にじょうじょう) 2008/05/12訪問 二条城 二の丸御殿車寄  平安神宮神苑の出口は平安神宮 神楽殿の脇にある。応天門をくぐり冷泉通を東に進むと岡崎道に行き当たる。平安神宮神苑の東神苑の塀を左手に見ながらしばらく北へ歩いていくと丸太町通に出る。京都市バス 岡崎道停留所からバスに乗り、丸太町通を西へ移動する。堀川丸太町通で下車して南に下ると二条城の正門前に出る。 二条城 東南隅櫓  二条城と呼ばれるものは、歴史書において複数現れてくる。朱雀大路が廃れた後、二条通は都一の大路となり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えるようになった。そのため将軍家の屋敷は「二… ►続きを読む

 

平安神宮神苑

 

平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん) 2008/05/12訪問 平安神宮神苑 臥龍橋  平安神宮神苑への入口は、白虎楼の翼廊にある。一歩くぐり戸の中に入ると、大都市の中心にある庭と思えないほどの自然と静けさが満ち溢れている。神苑は築庭からまだ百年程度の庭であるが、樹木や池泉は完全に自然の一部となっている。 平安神宮神苑 入口  約10,000坪の神苑は4つの庭に分かれる。拝観順路に従うと大極殿の東側の南神苑から西神苑へ、そして西側の中神苑から東神苑の順に巡ることとなる。この4つの庭にはそれぞれ池泉があり、異なった性格に仕上げられている。この庭は七代目小川治兵衛が明治28年(18… ►続きを読む

 

平安神宮

 

平安神宮(へいあんじんぐう) 2008/05/12訪問 平安神宮 大極殿 手前に龍尾壇が見える  満願寺から冷泉通を西に歩き平安神宮の東南角に出る。文子天神の後ろにクレーンが見えているように、このあたりはマンションあるいは宿泊以外の目的のホテルが建ち並び、東山側の邸宅、別荘、企業・団体の保養所ということから変わりつつあるようだ。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。 平安神宮 応天門 平安神宮 応天門より見た大鳥居  京都にとって平安神宮は新しく造られた神社といっても良いだろう。平安神宮の公式HP(http://www.heianjingu.or.jp/01/… ►続きを読む

 

満願寺

 

日蓮宗 満願寺(まんがんじ) 2008/05/12訪問 満願寺 山門  白河院から1ブロック、北西100メートルの場所に満願寺がある。ここは観光寺ではなく、自由に境内に入れる。山門をくぐると正面に大きな本堂があり、その本堂の前左手に文子天神、右手に閼伽井がある。 山門を見れば分かるように満願寺の山号は示現山、日蓮宗に属する寺院である。 寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。 満願寺 文子天神  多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女… ►続きを読む

 

白河院

 

白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問 白河院 庭園  洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。 白河院 大門  この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)において… ►続きを読む

 

洛翠

 

洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問 洛翠 庭園  瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明… ►続きを読む

 

瓢亭

 

瓢亭(ひょうてい) 2008/05/12訪問 瓢亭本館  無鄰菴と細い道を隔てて瓢亭が隣接する。 瓢亭の創業はおよそ400年前といわれているので江戸時代の初期となる。南禅寺の総門へ続く松林の参道に面する南禅寺総門外松林茶店、いわゆる腰掛茶屋としてのれんを掲げたのが始まりと伝えられている。 瓢亭本館  南禅寺 聴松院の項で記したように、花洛名所図会では湯豆腐の丹後屋とともに南禅寺総門外松林茶店として図会で紹介されている。建物の配置も現在に近い形で描かれているように見える。また図会には、丹後屋に続いて以下のように記されている。「瓢亭の煮抜玉子は近世の奇製なりとて、ここの酒客あまねくこれ… ►続きを読む

 

無鄰菴

 

無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問 無鄰菴 庭園  金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。 無鄰菴 長く続く塀より庭の奥行きの深さが分かる 無鄰菴 入口 あいにく屋根の工事中  無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。  山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を… ►続きを読む

 

南禅寺 塔頭

 

南禅寺 塔頭(なんぜんじ たっちゅう) 2008/05/12訪問 南禅寺 高徳庵への参道  南禅寺で頂いた拝観のしおりによると塔頭は現在12寺とのこと。ただし、これには南禅院が含まれていない。しおりでは南禅寺の歴史と伽藍、本坊の説明についで、南禅院が取り上げられている。また南禅寺の公式HPでは、「塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。」というような表現となっているので、塔頭であることは間違いないようだ。ということで実質的には13塔頭ということになる。■01 金地院 金地院は応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住… ►続きを読む

 

南禅寺 金地院

 

南禅寺 金地院(なんぜんじ こんちいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 金地院 方丈庭園  南禅寺 天授庵から山門の前を通り、勅使門と並んで建てられている表門の外に出たところに左に曲がる道がある。この道に入ると金地院という表札が架けられた門があり、それを越えた先の右手に南禅寺 金地院がある。 南禅寺 金地院への門 南禅寺 金地院は右側 南禅寺 金地院 庫裏につながる2つ目の門  応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが金地院の始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代住… ►続きを読む

 

南禅寺 天授庵

 

南禅寺 天授庵(なんぜんじ てんじゅあん) 2008/05/12訪問 南禅寺 天授庵 本堂前庭園  南禅寺 南禅院より再び石段を下り水路閣をくぐると法堂の前に出る。正因庵の前を過ぎ、三門の南側に南禅寺 天授庵がある。 亀山上皇は父である後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿を正応4年(1291)に禅寺に改めた。この時、開山に迎えたのは東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)である。 無関普門禅師は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を… ►続きを読む

 

南禅寺 南禅院

 

南禅寺 南禅院(なんぜんじ なんぜんいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 南禅院 庭園  琵琶湖疏水の水路閣をくぐると石段があり、その上に南禅寺 南禅院がある。 既に南禅寺の項で書いたように、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿が現在の南禅院の地である。離宮には上下2つの御所があり、上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称していた。 正応2年(1289)後嵯峨上皇の子 亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となり、正応4年(1291)に東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。南禅寺の伽藍は翌5年に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院… ►続きを読む

 

南禅寺 水路閣

 

南禅寺 水路閣(なんぜんじ すいろかく) 2008/05/12訪問 南禅寺 水路閣  南禅寺本坊から出て法堂の南側に廻るとアーチ型橋脚を持ったレンガ造の建造物が現れる。琵琶湖疎水の水路閣は、京都を代表する景観の一つとなっている。しかし、京都駅や京都タワーや平安神宮と比較すればやや古いかもしれないが、まだ120年しか経っていないことを考えると京都においては新しい風景のひとつである。  明治2年(1869)都が東京へ移り,京都は産業も人口も急激に衰退し始めていた。明治14年(1881)第3代京都府知事に就任した北垣国道は,京都の産業振興を目的として、水運、灌漑、上水道、そして水車による動力に… ►続きを読む

 

南禅寺 本坊

 

南禅寺 本坊(なんぜんじ ほんぼう) 2008/05/12訪問 南禅寺本坊 方丈庭園  南禅寺 本坊は、南禅寺の勅使門、山門、法堂の軸線上の東端に建てられていることからもこの伽藍において重要な施設であることが分かる。建物は南側より庫裏、大玄関、大方丈と小方丈そして裏側に座禅や講演会の行われる龍渕閣(りょうえんかく)と茶室不識庵・窮心亭が並ぶ。 南禅寺本坊 庫裏 遠くからも本坊の位置を知らせているが…少し大き過ぎないか? 南禅寺本坊 大玄関 非常に美しいアプローチ  拝観は庫裏から入り、大玄関を通り、まず方丈前の庭園越しに方丈を見ることとなる。方丈は大方丈と小方丈がL字型に組み… ►続きを読む

 

南禅寺

 

臨済宗南禅寺派総本山 南禅寺(なんぜんじ) 2008/05/12訪問 南禅寺 法堂  八坂神社より市バスに乗り、南禅寺へと向かう。三条通を右折し蹴上に行くバスが見当たらなかったので、平安神宮の北側を通り、岡崎天王町で下車して、後は歩くこととした。途中白川通から逸れ、住宅街に入り方向が分からなくなるが、再び白川通に戻る。ほどなくして南禅寺の門前に着く。天王町の停留所から約20分程度かかったこととなる。 門前の参道の両側に並ぶ旅館や料亭が終わると南禅寺の勅使門が前方左側に見えてくる。 南禅寺 門前の順正  臨済宗南禅寺派大本山 山号は瑞龍山、寺号は太平興国南禅禅寺。 日本最初の勅願禅寺… ►続きを読む

 

円山公園

 

円山公園(まるやまこうえん)  2008/05/12訪問 円山公園 日本庭園  円山公園は八坂神社に隣接しているため、写真を撮りながら散策していると境内と園地の境を意識することもなく、行き来することとなる。 この地はもともと真葛原と呼ばれてきた。都名所図会には     真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。 とあるように、現在の知恩院から八坂神社、安養寺、長建寺、双林寺辺りまでの総称であった。 江戸時代初期、安養寺には六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競っていたことが都名所図会の安養寺の項から見える。図会の安養… ►続きを読む

 

八坂神社

 

八坂神社(やさかじんじゃ)  2008/05/12訪問 八坂神社 西楼門  3日目は祇園→岡崎→二条城と京都市内を巡る。祇園のホテルを6時30分にチェックアウトし四条通の突き当たりにある八坂神社に向かう。 八坂神社 西楼門 境内より  素戔嗚尊を祭神とする神社は日本全国に約2300社あるとされる。八坂神社はそれらの神社の総本社である。  創建については諸説あるようだが、社伝によると斉明天皇2年(656)に高句麗の調進副使・伊利之使主が、新羅の牛頭山に祀られる牛頭天王を祀ったのを始まりとしている。その際に八坂造の姓を賜ったとされている。そのため延暦13年(794)の平安京建都より以前… ►続きを読む

 

墨染の町並み

 

墨染の町並み(すみぞめのまちなみ)  2008/05/11訪問 墨染 墨染の交差点 左:京 右:伏見 伏見街道はここで曲がる  墨染に降りた理由は3つある。1つ目は藤森神社を拝観すること。2つ目は伏水街道第四橋の存在を確認すること。そして幕末に新選組 近藤勇が狙撃された地を歩くことにあった。  京阪電鉄墨染駅に降り、駅舎を出て踏み切りを渡ると北から続く伏見街道に出会う。 墨染 伏見街道沿いの民家  近藤勇が狙撃される前後の時間の経過を見てみる。      慶応3年(1867) 3月20日 伊東甲子太郎一派、新選組を脱退する                        御陵衛士とな… ►続きを読む

 

藤森神社

 

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)  2008/05/11訪問 藤森神社 南門  17時に醍醐寺は閉門となったため、醍醐寺を後にし京都市営地下鉄東西線醍醐駅を目指して歩く。随心院の項で書いたように、東西線の走るあたりを谷としてその東側は少し高くなっている。そのため緩やかな下り道ということになる。醍醐駅から六地蔵駅まで戻り、六地蔵駅から京阪電鉄に乗り換え、墨染駅で下車する。伏見街道を北上し藤森神社を目指す。 藤森神社 鳥居脇の石垣  神功皇后3年(203)、三韓征伐から凱旋した神功皇后(仲哀天皇の后)が、山城国・深草の里の藤森に軍旗の中で一番大きい旗(纛旗 とうき)を立て、武具を塚に納め… ►続きを読む

 

醍醐三宝院

 

醍醐三宝院(だいごさんぼいん)  2008/05/11訪問 醍醐寺 三宝院唐門  永久3年(1115)醍醐寺14代座主勝覚が創建。当初は灌頂院と称したが、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改められた。康治2年(1143)に鳥羽上皇御願寺となる。鎌倉から南北朝時代にかけて、7世成賢・11世憲深・21世賢俊と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。当時の三宝院は現在の総門の脇ではなく、西大門の内、その北側にあったようだ。  特に足利義満の猶子となった25世満済は、応永3年(1396)に醍醐寺座主に任じられ、続いて准三后となった。准三后とは太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた貴族の称号で、宣… ►続きを読む

 
 

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