徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:200911

東山の町並み その2

 

東山の町並み(ひがしやまのまちなみ)その2 2009年11月29日訪問 東山の町並み 八坂の塔  既に18時半も廻っているので、本日最後の訪問は人出の多い賑やかな場所を選ぶ。高台寺通から法観寺のライトアップを見ながら産寧坂を目指すこととする。  京都の地形が北から南に向かって下り傾斜となっていることは、あまりにも有名である。だから鴨川も桂川も北に発して南に下ってゆく。川の中に設けられた堰を見ると、穏やかな流れの鴨川でも比較的高低差があることに気がつく。高瀬川の源流となる「みそそぎ川」には各庭園に水を導くための取水口が設けられている。これらを一つ一つ眺めてゆくと京都の地形が思ったより傾斜し… ►続きを読む

 

石塀小路の町並み

 

石塀小路の町並み(いしべいこうじのまちなみ) 2009年11月29日訪問 石塀小路の町並み 圓徳院の裏  圓徳院を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。 八坂神社の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路ある… ►続きを読む

 

高台寺 その10

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その10 2009年11月29日訪問 高台寺  この項では幕末において高台寺で起きたことをまとめてみることとする。  嘉永6年(1853)6月3日、フィルモア大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは、旗艦サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガを率いて浦賀に来航する。この内、外輪式フリゲート艦はサスケハナとミシシッピであり、プリマスとサラトガは帆船であった。そのため「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は有名であるものの、蒸気船は2隻のみであった。老中首座阿部正弘は国書の受取りを回避することは不可… ►続きを読む

 

高台寺 その9

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その9 2009年11月29日訪問 高台寺 勅使門  高台寺 その8では、明治18年(1885)11月の火災によりした仏殿の東北に忠義堂が築かれ、近年の高台寺境内の整備事業に伴い、撤去される運命であったものを大原野の正法寺に移したところまで説明してきた。ここからは高台寺の主要伽藍について書いて行く。 忠魂堂の東北にはかつて桧皮葺唐破風の屋根を持った唐門があった。高台寺創建時の建築で、豊臣氏の船屋形を上屋とし、門扉には菊桐章が施されていた。唐門の北には方丈が南面していた。かつての方丈は文禄の役で凱旋した諸将を祝宴した殿舎を伏見から移したものとされ… ►続きを読む

 

高台寺 その8

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その8 2009年11月29日訪問 高台寺  高台寺 その3において、慶長3年(1598)の豊臣秀吉没後に北政所が伏見城を出て京都新城に移ったこと、さらには木下家の人々が関ヶ原の戦いに、どのように対峙したかについて書いてきた。また高台寺 その4では、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降の北政所が居住したと考えられる三本木屋敷について書いた。現在では慶長10年(1605)の高台寺建立以降も高台院は、三本木屋敷で暮らしていたとする説の方が有力であると思われる。そして高台寺 その5と高台寺 その6では、高台寺が創建される前に東山に存在していた雲居寺の… ►続きを読む

 

高台寺 その7

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その7 2009年11月29日訪問 高台寺 時雨亭  高台寺 その5と高台寺 その6では、高台寺創設以前に衰退した雲居寺と金山院、引攝寺について書いてきた。この項では、岩栖院と高台寺建立時のことについて書いてみたい。 「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)には、岩栖院ノ址という項目で比較的詳細に綴られているので、これに従って書いて行く。かつての岩栖院は下河原町高台寺の地にあった。 後に室町幕府管領を務めることとなる細川満元は、天授4年(1378)細川頼元の長男として生まれている。そして応永4年(1397)頼元の死去により家督… ►続きを読む

 

高台寺 その6

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その6 2009年11月29日訪問 高台寺 霊屋  浄蔵貴所や瞻西が住した以外にも、謡曲で有名な自然居士も雲居寺を住居としていた。この禅宗系の勧進聖は生没年不詳とされている。しかし永仁4年(1296)に制作されたと考えられている「天狗草紙」に蓑虫、電光、朝露と共に放下の禅師4人組の歌舞説教が描かれていることから、鎌倉後期の聖とされている。円爾弁円派であったことから東福寺 即宗院に自然居士の墓が残されている。もっとも説教者の祖として日本各地を巡ったため、居士の墓とされるものは全国に点在している。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史 花の都の二千… ►続きを読む

 

高台寺 その5

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その5 2009年11月29日訪問 高台寺  高台寺の庫裏を過ぎ、境内に入ると美しくライトアップされた湖月庵、鬼瓦席そして遺芳庵の3つの茶席が現れる。この先には右手に書院、左手に薄暗い中に偃月池が見える。さらに進むと左手の眺望が開け、高台寺庭園の全貌が見えてくる。所々に紅葉を引き立たせる赤い照明が配され、それらの木々色を偃月池に写し、秋の高台寺を印象付ける景色となっている。 後藤典生氏の著書「日本の古寺5 圓徳院住職がつづる とっておき高台寺物語」(四季社 2008年刊)によると、この高台寺のライトアップは氏が住職を務めていた平成10年(199… ►続きを読む

 

高台寺 その4

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その4 2009年11月29日訪問 高台寺 高台寺 2008年5月18日撮影  高台寺 その3では、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死から1年して、北政所は大阪城を出て、京都新城に移り住み、ここで関ケ原の戦いを迎えることになったことを書いてきた。さらにこの項では、関ケ原の戦いの戦後処理から、高台寺建立を経て寛永元年(1624)9月6日に没した北政所が、具体的にどこで暮らしたかを中心に書いて行きたい。 慶長4年(1599)9月26日に大阪城を出た北政所は、関ヶ原の戦いまでは京都新城で暮らしたことは良く知られているが、その後については必ずしも… ►続きを読む

 

高台寺 その3

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その3 2009年11月29日訪問 高台寺 遺芳庵  圓徳院庭園を観賞しているうちに、ライトアップの時間になっていたようだ。本日最後の訪問地として高台寺に向かう。圓徳院の境内からねねの道に出ると、高台寺の夜間拝観を目的として集まった人々で膨れ上がっていた。幸いに圓徳院を拝観する際に共通券を購入しておいたので、入場券を購入するために列に並ぶ必要はなかったが、それでも多くの人の後ろに並ぶ事となった。 高台寺 台所坂  圓徳院の項でも参照したように重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)には、「豊臣… ►続きを読む

 

高台寺 圓徳院 その2

 

高台寺 圓徳院(えんとくいん)その2 2009年11月29日訪問 圓徳院 北書院北庭  高台寺 圓徳院では、圓徳院が建立されるまでの歴史を高台院とそれを取り巻く木下家の人々を中心に記してきた。この項では圓徳院庭園を中心に書いていきたい。 碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)では、「庭園は今に存す。所謂石庭式なり。空池に石橋を架し奇石を安徘す。傅て小堀政一の作と云ふ。手水鉢あり檜垣と名く世に著名なり。」と記されているのに対して、重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)では、その可能性… ►続きを読む

 

高台寺 圓徳院

 

高台寺 圓徳院(えんとくいん) 2009年11月29日訪問 圓徳院 方丈南庭  朝、天龍寺を訪れた時には非常に良い天気であったが、大徳寺を廻るあたりから曇りがちとなり、一番気になっていた祇園閣からの眺望を楽しむ段になって、厚い雲に覆われた鈍よりとした空になってしまった。最後に最上層より四方の眺望を確認した後、大雲院の南門を潜りねねの道に出ると、たちまち東山の喧騒に戻る。次に訪れる圓徳院は高台寺の塔頭の一つである。高台寺には何回か訪問しているが、今まで一度も訪れたことがなかった。前回も高台寺と圓徳院の共通券を購入したにも関わらず、時間がなかったのか圓徳院に入ることが適わなかったように思う。… ►続きを読む

 

祇園閣 その4

 

祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問 祇園閣 八坂塔方面  祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。 伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に… ►続きを読む

 

祇園閣 その3

 

祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問 祇園閣  明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかっ… ►続きを読む

 

祇園閣 その2

 

祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問 祇園閣 本堂西面からの眺め  大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねね… ►続きを読む

 

大雲院 その2

 

浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ)その2 2009年11月29日訪問 大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑  大雲院で記したように、天正18年(1590)大雲院は豊臣秀吉によって二条新御所から四条河原町の貞安前之町に移されている。そして昭和48年(1973)再び東山真葛ヶ原に移されている。四条寺町界隈の喧騒とした雰囲気の中で布教教化を行なうことが不適切であることは明白である。このような判断から移建されている。 現在、大雲院の旧地である貞安前之町には火除天満宮が残る。この天満宮は天正7年(1579)に六条街に開創されている。天正15年(1587)の大雲院の創建の際、鎮守社として… ►続きを読む

 

大雲院

 

浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ) 2009年11月29日訪問 大雲院 本堂  大徳寺で訪問した総見院、芳春院、興臨院、黄梅院の4つの塔頭は、通常は拝観謝絶の寺院である。今回、幸いにも秋の特別公開によって拝観が可能になっている。天龍寺から、京福電気鉄道嵐山本線と北野線さらに市営バスを乗り継いで大徳寺に着いたのが12時少し前であったから、上記の塔頭の拝観と山内を歩いている間に、すでに3時間も経っていたことに気がつく。天龍寺の宝厳院と弘源寺も特別公開であったことから、本日7番目の特別公開寺院として大雲院へ向かうこととする。15時少し前に、勅使門の西側にある門を潜り、大徳寺の団体バスの… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その13

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その13 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 正受院  大徳寺の発展の歴史に沿って、その塔頭の成立について、大徳寺の塔頭 その2から大徳寺の塔頭 その12まで、長々と書いてきた。最後に、江戸時代から明治初年にかけて大徳寺塔頭の変遷について纏めてみる。 江戸時代に入り、元和元年(1615)大徳寺は徳川家康より2011石の御朱印を得ている。この石高は南禅寺、相国寺、東福寺、妙心寺などの京都の本山寺院の中でも最高額であった。この年の7月に大徳寺領諸塔頭配分支配目録を金地院以心崇伝及び京都所司代板倉勝重に提出している。これによると大徳寺領が1268石7… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その12

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その12 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 雲林院 2011年6月18日撮影  大徳寺の歴史は、開祖宗峰妙超が洛北の紫野に大徳庵を結び移り住んだことに始まるとされている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」によると、これは34歳の正和4年(1315)のことであったとされている。また臨済禅 黄檗禅 公式サイトも、この正和4年(1315)を開創の年次としている。宗峰自筆の敷地証文案より元亨4年(1324)5月には大徳寺敷地として「雲林院辺菩提講東塔中北寄弐拾丈」の地の寄付を得ていたことが確認されている。またWikip… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その11

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その11 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 龍翔寺  総見院の東を南北に船岡東通が通る。この船岡東通の西側にはかつて天瑞寺があったことは、大徳寺の塔頭 その5でも触れている。この場所には現在、龍翔寺が建てられている。 明治11年(1878)3月11日に、第471世牧宗宗壽と塔頭総代の玉林院住職能見山宗竺が京都府知事槇村正直宛に「合併切縮之儀ニ付御伺」を提出している。大徳寺塔頭の推移については改めて項を起こして記すつもりだが、この時に塔頭13ヶ寺の合併、4ヶ寺の切縮、残りの20ヶ寺を永続塔頭としている。「合併切縮之儀ニ付御伺」に附けられた「別紙… ►続きを読む

 
 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2024年11月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

カテゴリー