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蒲生君平先生仮寓御趾



蒲生君平先生仮寓御趾(がもうくんぺいせんせいかぐうおんあと) 2008年05月17日訪問

画像
熊野神社 丸太通から

 御辰稲荷神社から丸太町通の北側を天王町の交差点に向かい歩く。平安神宮の東境界を走る岡崎通と丸太町通が交差する地点の手前の民家の軒先に2本の石標が立つ。
 左の石標には小沢蘆庵宅址とある。これは大正6年(1917)に京都市教育会が建立している。 小沢蘆庵は江戸時代後期の歌人であり、国学者。享保8年(1723)尾張藩竹腰家家臣・小沢喜八郎実郡の末子として難波に生まれる。小沢氏は大和宇陀郡の松山藩織田氏家臣であったが、祖父の代に家名断絶したため、父は諸国を流浪した後大坂に住んでいる。蘆庵が十代の頃、尾張藩京都留守居番本荘三丞勝命の養子となるが、宝暦7年(1757)小沢家に復する。30歳の頃より冷泉為村に入門し和歌を学ぶ。
 冷泉為村は正徳2年(1712)上冷泉家の冷泉為久の子として生まれた江戸時代中期の公家であり歌人、そして冷泉家中興の祖とされている。享保6年(1721)霊元上皇より古今伝授を受け、宝暦8年(1758)に正二位、翌9年(1759)権大納言に至るが、明和7年(1770)に落飾している。安永3年(1774)没。
 蘆庵が小沢家に復した宝暦7年(1757)鷹司家の家人になる。しかし明和2年(1765)東照宮百五十年祭に勅使・鷹司輔平に伴って関東に下向したが,当地で出仕差し止めとなる。以後困窮の中、和歌に専念する。蘆庵は堂上和歌に疑問を感じ、自らの歌論「布留の中道」の中で下記のように記している。

     ただいま思へる事を,わがいはるゝ詞をもて,ことわりの聞ゆるやうにいひいづる,これを歌とはいふなり

 平易な詞で、ありのままに詠むことを実践していった。おそらくこれが原因となり、安永2(1773)年に為村より破門される。これは為村の死の前年にあたる。蘆庵は澄月、慈延、伴蒿蹊と共に平安和歌四天王のひとりに数えられ、御所出仕の門人や女性門人も多かった。
 天明8年(1788)の大火により洛中の自邸を焼失し、以後寛政3年(1791)まで太秦の十輪院に幽居する。この時期に閑院宮典仁親王の第5皇子・妙法院宮真仁法親王の訪問を受けている。蘆庵は親王より参殿を請われるほどに信頼され、庇護された。寛政4年(1792)より岡崎のこの地に移り、本居宣長、上田秋成や香川景樹などの訪問を受ける。享和元年(1801)79歳で没し北白川の心性寺に葬られる。

 右の石標は標題の蒲生君平先生仮寓御趾である。この地にあった小沢蘆庵宅に滞在して天皇陵の研究を行ったことから、昭和15年(1940)に神戸参陵会が建立している。
 仙台の林子平、上州の高山彦九郎と共に寛政の三奇人として名高い蒲生君平は、明和5年(1768)下野国宇都宮新石町の油屋と農業を営む福田又右衛門正栄の子として生まれている。幼年期に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝を知り、発奮し勉学を志す。6歳の頃より近くの延命院で、読書・習字・四書五経の素読を学び、天明元年(1781)鹿沼の儒学者鈴木石橋の麗澤舎に入塾している。「太平記」を愛読し楠木正成や新田義貞らの帝への忠勤に感化され、勤皇思想に傾斜する。天明5年(1785)水戸に往来し, 立原翠軒や藤田幽谷と会う。特に幽谷から水戸学の影響を受けるとともに終生にわたる親交を結ぶ。藤田幽谷は、幕末に活躍した水戸藩の政治家で水戸学者である藤田東湖の父にあたる。さらに曲亭馬琴、本居宣長ら多くの人物の知己となる。天明9年(1789)出自に倣い蒲生と改姓する。
 寛政2年(1790)高山彦九郎に私淑し、陸奥国に赴く。この時、石巻で面会し高山彦九郎に、仙台で林子平を訪ねたとされている。ロシア軍艦の出現の知らせを聞き、寛政7年(1795)再び陸奥への旅に出る。これは後の「不恤緯」へとつながっていく。

 寛政8年(1796)歴代天皇陵の荒廃を嘆き、調査のため京都に上るとともに、伊勢松坂の本居宣長を訪ねる。寛政11年(1799)より翌年にかけて畿内諸国の山陵踏査の旅に出る。再び宣長を訪ね、大いに激励を受ける。さらに北陸路を経て佐渡に渡り、順徳天皇陵まで調べ帰京する。翌享和元年(1801)「山陵志」を完成。この中で古墳の形状を前方後円と表記したことから前方後円墳の語ができている。享和3年(1803)江戸に出て林述斎に学ぶ。文化元年(1804)より江戸に移り住む。
 文化4年(1807)には北辺防備を唱えた「不恤緯」を著して若年寄水野忠成に献上する。ここでは北侵に対する国防を士族に頼らず、剛健なる民兵を用いるのが得策であると建白している。これは幕末の奇兵隊へと連なっていく。これ自体は危険思想ではなかったが後に出た「幕罪略」と言う12か条の幕府の行った罪を数えた書により、幕府の喚問を受け閑居させられている。文化10年(1813)46歳で病没する。

 死後その功績が賞され、明治2年(1869)明治天皇の勅命の下に生誕地に勅旌碑が建てられ、明治14年(1881)正四位が贈位されている。大正15年(1925)宇都宮市に蒲生神社が創建されている。

「蒲生君平先生仮寓御趾」 の地図





蒲生君平先生仮寓御趾 のMarker List

No.名称緯度経度
 蒲生君平先生仮寓御趾 35.0173135.7844
01  御辰稲荷神社 35.0175135.7817

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