文書と写真・地図による「記憶」の再現

高台寺

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺 その1(こうだいじ) 2008年05月16日訪問

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高台寺 庭園

 下河原通側から石塀小路へ入り、圓徳院の赤い煉瓦の壁を見ながら高台寺に向う。現在はねねの道と呼ばれる高台寺道に出ると、雰囲気は一転する。ねねの道は清水寺から産寧坂、二寧坂と続き、円山公園に至る東山観光の中心となっているため、多くの観光客が道を左右している。

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高台寺 庫裏へつながる台所坂
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高台寺 庫裏

 高台寺は臨済宗建仁寺派の寺院で山号を鷲峰山と称する。寺号は高台寿聖禅寺と称するが、高台寺の公式HPでも「正しくは高台寿聖禅寺といい」と断りながら高台寺を使用している。 高台寺は豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾後の院号である高台院に因んだものである。

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高台寺 右の門は方丈南庭へとつながる
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高台寺 勅使門

 秀吉の正室である北政所(ねね)は天文17年(1548)に尾張国朝日村の杉原助左衛門定利の次女として生まれたとされている。杉原家は織田家に仕える足軽であった。ねねの母・朝日は信長の足軽となっていたとしても百姓出の秀吉に、士分の家の娘を嫁がすことを反対している。そのため叔母の嫁ぎ先である浅野又右衛門長勝の養女となっている。秀吉とねねの結婚は永禄4年(1561)のこととされている。この後、天正元年(1573)長浜城主となり、天正6年(1578)からは播磨・中国制圧を受け持つ。そして天正10年(1582)本能寺の変の後、翌天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を確立し、天承13年(1585)に関白となる。同時にねねも従三位に叙せられ、北政所と称することとなる。ねねと共に出世街道を歩み始め、25年で達したひとつの頂点でもある。関白の妻として、朝廷との交渉や人質として集められた諸大名の妻子を監督するなどの役割を果たしている。

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高台寺 眼下に祇園閣が見える

 豊臣秀吉は慶長3年(1598)、有名な辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」を遺し、伏見城で亡くなる。遺命により通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立される。阿弥陀ヶ峰は五条通の南側に広がる鳥辺野の中心となる峰であり、桓武天皇が平安京を開いて以来の葬送の地である。

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高台寺 遺芳庵
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高台寺 偃月池の北側 中央は開山堂

 秀吉の死の翌年である慶長4年(1599)北政所は大坂城西の丸を退去し、古くから仕えてきた筆頭上臈の孝蔵主らとともに京都新城へ移る。京都新城は聚楽第破却後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所周辺に構えた城郭であり、現在の仙洞御所の場所にあった。ここで北政所は以前と同様、朝廷との交渉や豊国社や方広寺の運営と供養などを行っていた。しかし慶長5年(1600)の関が原の戦いの後に、京都新城は徳川家康によって破却される。そのため北政所は現在の祇園に隠棲するが、秀吉から与えられた1万5000石の広大な領地は化粧料として引き続き安堵されている。
 慶長8年(1603)養母の死と秀吉の遺言であった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾し、秀吉の冥福を祈る寺院の建立を発願する。朝廷から院号を賜り、高台院湖月尼と称する。当初は寺町にあった康徳寺をそれに充てようとした。ここは北政所の実母である朝日が葬られた地であるが手狭であったため、東山の現在の地に建立されることとなる。徳川家康と二代将軍秀忠が北政所を手厚く扱い、堀直政等を高台寺の普請担当に任命する。高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。

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高台寺 方丈南庭 正面は勅使門
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高台寺 方丈南庭 盛砂が見える

 このようにして慶長11年(1606)高台寺は曹洞宗の寺院として開山する。高台寺のHPでは建立に先立つ慶長10年(1605)伏見城から圓徳院の地に化粧御殿と前庭が移され、北政所は化粧御殿に移り住まれたと記されている。この他にも創建当時の高台寺の仏殿は康徳寺の堂を移築・改修し、方丈や茶室の傘亭や時雨亭を伏見城から移築されたと言われている。宮元建次氏は「京都名庭を歩く」の中(P205~P209)で傘亭や時雨亭の成立時期について、伏見城の破却と高台寺建立の年代差を指摘している。秀吉の築いた伏見城は、関が原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いにおいて西軍の総大将・宇喜多秀家、副将・小早川秀秋の攻撃を受け、慶長5年(1600)8月1日守将鳥居元忠は討死、落城している。秀吉の伏見城の遺構は正伝寺や養源院などに血天井として残っているが、この戦いで伏見城の建造物の大半は焼失している。関が原の戦いの翌年の慶長6年(1601)伏見城は家康により再建されている。多くの伏見城の遺構とされている建築群は、元和9年(1623)に家康の伏見城が廃城となってから移築されたものである。高台寺の建立が慶長11年(1606)であるから、もし関が原の戦いの後に秀吉由来の建物として高台寺に移築されたとすると6年間、どこかで移築あるいは保管されていなければ辻褄があわなくなる。宮元氏はこのあたりの年代差に無理があるとしている。

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高台寺 観月台と開山堂

 話しを高台寺の歴史に戻す。大阪城が落城する慶長20年(1615)は北政所がこの東山の地に居を移した10年後のことである。高台寺の高台にある傘亭、時雨亭から西の眺望が開けている。ここから北政所が炎上する大阪城を眺めていたという話しも信じられる。
 三江紹益和尚は建仁寺方丈の項でも触れたように、寛永16年(1639)宇多野にある臨済宗・正覚山妙光寺の中興も行なっている。この時、京の豪商で歌人であった打它公軌が俵屋宗達に風神雷神図の制作を依頼して寄進している。
 元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会には江戸時代末期の高台寺の様子が残っている。高台寺の寺域は現在より大きく、駐車場から霊山観音そして霊山護国神社のあたりまで広がっていたように見える。

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高台寺 開山堂への中門
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高台寺 開山堂

 この図会の下の部分には下河原通とそれに面する民家と思われる建物そして圓徳院と思われる堂宇が描かれている。また右下の青龍寺の脇には高台寺の総門が見える。この総門は表門という名に変わり現在も残っている。方丈へはこの総門を潜り進むのが正式な順路であったことが分かる。総門を過ぎると現在の霊山護国神社と霊山歴史館へと続く坂道と並行にあった参道を上り、二寧坂の入口にあった中門を左に折れ、駐車場と霊山観音の間を真直ぐに北上すると現在の高台寺唐門に達する。
 この唐門の手前には西に仏殿、東に鐘楼があった。鐘楼の奥には天満宮があり、さらにその北東の高台には曙稲荷と書かれた社とともに何軒かの茶店が描かれている。この茶店からの眺望は素晴らしかったものと思われる。図会に描かれている傘亭、時雨亭との位置関係からすると、この曙稲荷は現在の霊山護国神社のあたりとなる。

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高台寺 開山堂の東の臥龍池

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