熊野神社
熊野神社(くまのじんじゃ) 2008年05月17日訪問
四条烏丸より京都市営バス203号に乗車する。四条通を東に進み、鴨川を越える。そのまま直進すると八坂神社の楼門が現れる。左折し東大路通を北上する。三条通、仁王門通、二条通そして琵琶湖疎水を過ぎ、丸太町通の交差点、熊野神社前で下車すると目の前は熊野神社である。
本殿に伊弉冉尊、相殿に伊弉諸尊、天照大神、速玉男尊、事解男尊を祀る。
修験道の始祖といわれている役小角から数え十世となる僧日圓が、弘仁2年(811)紀州熊野大神を勧請したのが始まりとされている。
白河上皇は熊野御幸を行い、当時一地方の霊山であった熊野三山の管理が必要だと考える。そして先達を務めた増誉大僧正を熊野三山検校に任命している。熊野の地において熊野三山を統治している熊野別当の上に、熊野三山検校は置かれたが、院の熊野詣の先達を務めることが本務であった。宗務を始め、所領経営、治安維持、神官・僧侶・山伏の管理といった統治実務は熊野別当とそれを補佐する諸職が行っていた。熊野三山検校は実質的には名誉職であったが、むしろ中央の僧綱制に熊野三山を組み込むために設けられた職と考えることもできる。
増誉大僧正は熊野三山検校とともに聖体護持の2字を取った聖護院という寺を寛治4年(1090)上皇より賜っている。この聖護院の建立の際に、熊野神社を鎮守神として別当を置き管理していることからも聖護院と熊野神社そして熊野信仰とその管理体制が深く関わっていることが見えてくる。
熊野三山検校は代々園城寺長吏が補せられようになり、天台系の山岳修行者の拠点となる。そして鎌倉時代後期には聖護院門跡が園城寺長吏、熊野三山、新熊野の検校を兼ね、聖護院門跡の重代職となっている。
熊野(現在の三重県熊野市有馬の花窟神社)は伊弉冉尊が葬られた地とされている。このことは日本書紀の神代記に記され、熊野の地名が初めて紹介されている。黄泉比良坂で伊弉諸尊が死んだ伊弉冉尊に出会い、逃げるように葦原中国に帰ってくる。この黄泉の地は熊野ではなく、出雲にあったとする考えが有力であるかもしれないが、熊野の地もまた死を連想させる。その地形と開発の手が入ることを拒絶するような濃い照葉樹林から、距離的な隔たりとともに、陽の当たらない未開の地、さらには異界というイメージが形成されている。これに死後の世界と結びつくのには、多くの説明は必要ないだろう。
また熊野は修験道の修行の地とされてきた。延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社とある。三山の残りのお社・熊野那智大社は修行場と当時は見なされていたと考えられる。この熊野三山のそれぞれの神々が三社共通の祭神とされるようになる。そして平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになると、本地垂迹と呼ばれる神仏習合思想により本宮の家都美御子神は阿弥陀如来、牟須美神が千手観音、速玉神は薬師如来の化身と見なされるようになる。さらに本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であり、熊野全体が浄土の地となる。院政期に歴代の上皇が頻繁に行った熊野詣は、この地に浄土を求めたためである。
最初の熊野行幸は宇多法皇が延喜7年(907)に行なったといわれている。その後200年近くの時を経て、寛治4年(1090)白河上皇の熊野行幸から上皇達の熊野詣が活発化する。当時、天皇が都の外に出ることは難しくても、上皇法皇は比較的に自由に行動ができた。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回と上皇の熊野御幸は、ほぼ年中行事と化していた。「蟻の熊野詣」とは言われても、全ての人が熊野詣を行えたわけではなかったので、都に熊野社が勧請されたのであろう。
熊野神社は、後白河上皇が勧請した新熊野神社、熊野若王子神社と共に京都の熊野三山として朝野の崇敬を集めてきた。
応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))により白河上皇達が岡崎に築き上げた六勝寺と共に熊野神社も焼失する。しかし寛文6年(1666)聖護院宮道寛親王の令旨により再興される。当時の境内は鴨川に至る広大なものであったとも言われている。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会に熊野神社の説明が下記のように記されている。
熊野権現社〔聖護院杜にあり。鳥居の額、日本第一大霊験所熊野権現〕当宮は後白河上皇の勅願にして、熊野新宮を勧請し給ふ。初めは封境広くして、宮殿には金沙を鏤め、楼門廻廊祓舎経堂巍々たり。〔最初建立の時は、熊野より土砂を運ばしめて宮殿の地を築き、樹木花草に至るまで熊野よりこゝにうつし植給ふなり。故に新熊野新宮と称す。共に応仁の兵火に焦土となりぬ。今ある所は本社、富士浅間社、稲荷社、役行者堂あり〕
惣じて此杜は方境広からずといへども、老樹森々として木陰蓊欝とし、炎暑の時納涼の地なり。
既にこの時期には、「惣じて此杜は方境広からず」とあるように創建当時の広さはなかったのだろう。また「老樹森々として木陰蓊欝とし、炎暑の時納涼の地なり。」という表現が面白い。図会の鬱蒼とした木々が、それを感じさせる。 ところでこの図会はどちらから見たものだろうか?現在の社と当時が同じ向きであったとすると、左手から中央に延びる道が東西通りとなる。これだと聖護院は右手前となる。さらに後の時代に刊行された花洛名勝図会では西鳥居が描かれている。本文では東鳥居は石で造られ、聖護院道晃親王筆の日本第一大霊験所熊野大権現の額が架けられ、木製の西鳥居は聖護院宮筆の熊野大権現の額が架けられていたと記されている。そのため右手側に聖護院が続き、その奥に東山が見える構図で図会は描かれている。この図会は時期的にも天保6年(1835)に行われた本殿建替などの大修造後のものだと思われる。
日文研に収蔵されている明治22年(1889)頃の京都の地図は、まだ平安神宮が建立される前の岡崎の様子を良く伝えている。おそらく田園風景の中に熊野神社と聖護院がぽつんと建っていたのであろう。この後、碁盤の目状の道路が敷かれ、明治45年(1912)と昭和2年(1927)の2度にわたり、市電軌道敷設により社域をせばめられている。
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