文書と写真・地図による「記憶」の再現

泉涌寺 その3

真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その3 2008年12月22日訪問

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泉涌寺 仏殿と舎利殿

 泉涌寺の開山となる俊芿律師は、朝野の尊信が非常に厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒されている。俊芿律師は泉涌寺竣工の翌年の嘉禄3年(1227)に亡くなっている。そして寛喜3年(1231)に生まれた四条天皇が、俊芿律師の生まれ変わりとされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には下記のような記述が残されている。
     天子の官寺となる事は、八十六代四条院を権輿とせり。此帝降誕の時我禅々々と宣へり、俊じやう我が禅和尚再生して天子の位に昇り、四条院と出誕し給ふよし、人の夢に見えけるとぞ。

 非科学的な話にも聞こえるが、父である後堀河天皇が葬られた觀音寺陵の近くにある泉涌寺を心に留め、月輪大師の御廟の近くに御陵を築くよう遺言されたといわれている。四条天皇は宮中での事故がもととなり、わずか12歳で崩御され月輪陵に葬られてから、皇室と泉涌寺の結びつきは深くなる。南北朝時代の文中3年(1374)後光厳院の火葬から九代の天皇の火葬所に当てられ、さらに後水尾天皇から孝明天皇にまでの歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院と定められている。

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泉涌寺 大門から仏殿を眺める
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泉涌寺 大門から仏殿を眺める
5月の風景 緑の濃さが違う 2008年5月10日撮影
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泉涌寺 大門を眺める

 俊芿律師の没後、泉涌寺を発展させたのは弟子の聞陽湛海である。湛海は嘉禎年間(1235~1238)に入宋し、寛元2年(1244)より秦山白蓮寺に学んでいる。白蓮寺に安置されていた仏牙舎利を拝して厚い信を起こし日本に迎えることを申し入れるが謝絶される。同年に帰朝しているが、数年後に再度入宋し百蓮寺に入る。日本から材木を取寄せ、荒廃していた白蓮寺の復興を行う。その功により湛海は仏牙舎利を与えられる。建長7年(1255)日本に帰った湛海は、この舎利を泉涌寺に安置する。泉涌寺の仏舎利は天下無双の霊宝として篤く敬われ、信仰の中心となる。また湛海は楊貴妃観音、月蓋尊者、韋駄天や羅漢などの木像を宋から将来している。室町時代の日記薩戒記、応永32年(1425)によると、法堂二層上に楊流観音が安置され、天竺すなわち海外から渡来の像として尊信を集めていたことが記されている。

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泉涌寺 霊明殿の唐門
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泉涌寺 本坊 御座所への入口

 先の都名所図会に連続する2枚の泉涌寺の図会()が残されている。1枚目の図会には泉涌寺道の夢の浮橋を一番左端に描き、左上部に新熊野神社そして泉涌寺の総門と戒光寺法音寺と思われる塔頭や新善光寺へ下る坂道、そして上方に今熊野観音寺の姿も見える。2枚目の図会には現在の大門(図会中には中門と記されている)から仏殿と舎利殿そして鎮守社や泉涌水、そして来迎院、雲龍院や楊貴妃観音を祀る堂宇なども見える。また左手上部には今熊野観音寺の本堂も描かれている。しかし霊明殿、御座所そして海会堂あたりが客殿、開山堂と厨と書かれている。このあたりはその手前の庫司や浴堂などと共に明治15年(1882)10月の焼失以後に建て直された箇所であろう。

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泉涌寺 経蔵
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泉涌寺

 泉涌寺の境内に立つと、他の寺院、特に禅宗寺院とは全く異なった印象を受ける。それは泉涌寺の境内の地形によるところが大きいだろう。泉涌寺道を徐々に上り総門を潜り、大門に至る道程は大伽藍に近づく期待感を抱かせるのに十分な演出となっている。そして大門を潜ると、仏殿と舎利殿の大きな屋根が眼下に重なる。山門から平らな海内が広がり、軸線上に伽藍が配置されているという想像を全く裏切る展開である。またGoogleMapを見ると気が付くが、大門、仏殿、舎利殿そして御座所はほぼ軸線上に配置されているにも関わらず、大門から参道を下るとき左右対象に見えない。恐らく仏殿に向かって右側の参道の幅が若干短いのではないかと思われる。清水泰博氏の「京都の空間意匠 12のキーワードで体感する」(2009年 光文社刊)でも第五章に「くずす、ずらす」を取り上げ、中国から伝来したシンメトリーな空間が日本で崩され、アンシンメトリーの空間として定着していく過程の1例として、この泉涌寺の参道をあげている。少し仏殿の右側を隠すような木立が、いろいろなイメージを掻き立ててくれると記しているが、まさに同じ印象を体感できる。今回の訪問が冬場のため、木立の緑もそれ程濃くないものの、十分にアンシンメトリ-な空間を認識できる。

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泉涌寺 解脱金剛宝塔
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泉涌寺

 大門は慶長年間(1596~1615)に御所に造営された御門を移築したもの。大門を入って左手に南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する楊貴妃観音堂と塔頭寺院所蔵の文化財を公開する宝物館・心照殿が建つ。心照殿は平成16年(2004)と新しい建物であるが、観音堂は寛文年間(1661-1672)の建立と考えられている。
 参道の左手の木々の中には鎮守社がある。本殿は豊川稲荷が勧請され、寛文8年(1668)建立で東面している。本殿の他には拝殿が美しい苔地の上に建てられている。

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泉涌寺 楊貴妃観音堂

 参道の右手途中には、浴室、泉涌水屋形が並ぶ。浴室は切妻式の比較的大きな建物で、仏殿・舎利殿と同じ寛文年間(1661~1672)に建設された現在地へは明治30年(1897)に移建されている。床下に鉄釜が置かれ、沸かした湯で蒸し風呂となる。仏前に仕える前に身を清めるために使用された。
 水屋形は寺名の起源となった名泉を覆う屋形で、浴室と同じ寛文年間の建物。現在も尽きることなく涌き出ている。これらは先の都名図会と一致する。この浴室と水屋形の間にある石段は使用されていないが、泉涌寺の別格本山である雲龍院へとつながる参道である。水屋形の前には月輪陵と後月輪陵への道標・四条天皇外二十四方御陵参道が建つ。また水屋形の東には紫式部の歌碑

     夜をこめて鳥のそら音ははるかともよに逢坂の関はゆるさじ

が角田文衞の発案により昭和49年(1974)に建立されている。清少納言が仕えた一条天皇の定子皇后や女御らは鳥辺野陵に葬られている。このため、清少納言は皇后を偲び月輪近くに庵を結び隠棲したといわれている。 また清少納言の父で、官人・歌人の清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したともいわれている。

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泉涌寺 心照殿庭園

 開山の俊芿律師やその弟子の湛海律師の時代の伽藍は、応仁の乱でほとんど焼失している。そのため現在の諸建造物はそれ以降の建立となっている。仏殿は寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建されている。仏殿の東側に建つ舎利殿は、先の大門と同じく慶長年間(1596~1615)に建立された御所の建物を、仏殿を建設した時期に移築改装している。
仏殿は一重裳階付入母屋造本瓦葺で、内部は土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。大門と共に国の重要文化財に指定されている。仏殿内陣には運慶作と伝わる阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されている。俊芿律師が学んだ南宋仏教の影響を色濃く受け継いでいる。また堂内の鏡天井には雄壮な蟠龍、また三尊仏背壁には飛天、裏堂壁には白衣観音像が描かれている。いずれも狩野探幽筆である。
 舎利殿は、開山俊芿律師が熱願された舎利を弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋より将来し遷座している。現在同時に将来された韋駄天像・月蓋長者像とともに内陣に奉祀されている。

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泉涌寺 心照殿庭園

 大門から参道に沿って本坊までの間で、上記のような堂宇などが見られる。この他にも泉涌寺の境内にはいろいろなものが点在している。月輪陵遥拝所の先には公開されていないが開山堂があるようだ。太い道が孝明天皇の後月輪東山陵に向かっているようだが、途中から通行禁止となっていたように記憶している。開山堂と石造無縫塔の開山塔は重要文化財に指定されている。 また、大門の脇から南東に進むと雲龍院までの間に経蔵と解脱金剛宝塔を見ることが出来る。解脱会は、岡野聖憲が会祖とし昭和4年(1929)に立教している。昭和6年(1931)醍醐寺三宝院にて出家得度した後、昭和16年(1941)より伊勢神宮や橿原神宮そして泉涌寺などへの参拝を毎年4月に行われるようになっている。解脱会の公式HPでは、現在の解脱金剛宝塔は会祖七年祭となる昭和29年(1954)に泉涌寺より永代使用を許されて建立されたとしている。

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泉涌寺 開山堂へ続く道

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