文書と写真・地図による「記憶」の再現

大徳寺 孤篷庵 その2

大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その2 2009年11月29日訪問

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大徳寺 孤篷庵 石橋と山門

 大徳寺 孤篷庵に続き、小堀遠州の前期の仕事を年代順に見ていく。まず慶長11年(1606)に後陽成院御所の造営奉行となっている。この造営は関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が、織田信長、豊臣秀吉の皇室政策を継承して秀吉の造営した禁裏を拡張し、女御御殿と後陽成天皇の院御所を新造するものであった。宮内庁書陵部には後陽成院御所指図が遺されている。総奉行は板倉伊賀守勝重が務め、その指揮下にいた9名の奉行の中に小堀作介(政一)が含まれていた。 また同時期に遠州は江戸城普請の手伝いも行なっている。既に慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任じられた直後から、江戸城増築工事は着手されていた。そして翌慶長9年(1604)には、各大名に石垣を築くための巨石を伊豆から運搬するための石舟の調達が求められている。池田輝政、加藤清正、福島正則、黒田長政など西国の外様大名を中心とした28家及び堺商人・尼崎又次郎であり、普請奉行には内藤忠清、貴志正久、神田正俊、都築為政、石川重次が務めている。そして慶長11年(1606)3月江戸城本丸部分が、藤堂高虎の縄張りのもとで本格的に築き直されている。そして同年9月23日には2代将軍秀忠が江戸城本丸御殿に移っているので、この頃には竣工していたのであろう。
 慶長13年(1608)には駿府城作事奉行を務め、既述のように龍光院密庵席の指導している。家康は慶長10年(1605)に将軍職を秀忠に譲り、駿府に隠居している。その際に駿府城は天下普請によって大修築されている。しかし慶長12年(1607)12月、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失している。その後の再建の際に、小堀政一が奉行を務め、同13年(1608)には本丸御殿や天守等を完成させている。

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大徳寺 孤篷庵 優美な形状をした石橋
中国趣味が見られる

 慶長17年(1612)孤篷庵を建立した年には、名古屋城天守奉行、翌18年(1613)禁中作事奉行を務めている。そして居城である備中松山城の修理を慶長19年(1614)に行っている。
 名古屋城は、慶長14年(1609)家康の九男義直が尾張藩の居城とするために、同15年(1610)西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始している。普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられている。縄張は牧野助右衛門が行っている。なお石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いている。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられている。大天守は慶長17年(1612)までに完成している。
 松山城は備中高梁の臥牛山に築かれた中世の山城であり、難攻不落の要塞とも知られていた。父の小掘正次が入国した頃は長い戦乱で荒廃していたのを、父子2代に渡り整備を行なっている。父の後を継いだ政一は松山の頼久寺を仮の館として、松山城の整備を行ない、近世城郭の基礎を築いている。頼久寺庭園は政一の作庭とされている。青海波を表現するサツキの大刈り込みが印象的な躍動感あふれた庭となっている。

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大徳寺 孤篷庵 空堀の中の構成
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大徳寺 孤篷庵 空堀

 遠州が河内国奉行に任じられた元和3年(1617)には、伏見城本丸書院の作事奉行も務めている。翌4年(1618)女御御殿造営奉行を務めている。伏見城は秀吉の隠居屋敷として造営された時期から数え、元和9年(1623)7月16日の徳川家光の将軍宣下実施後の廃城までを5つの時期に分けることができる。正一が本丸書院の作事を行なうのは元和5年(1919)の実質的な廃城が決定する直前のことであった。
 既に、慶長19年(1614)4月には、秀忠の娘徳川和子に入内宣旨が出されていたが、大坂の陣や元和2年(1616)の家康の死去、さらには後陽成院の崩御などが続いたため延期されてきた。元和4年(1618)4月、後水尾天皇の実弟近衛信尋が江戸へ下向し、入内への準備が再開される。女御御殿は和子の入内のための造営であった。そして元和6年(1620)大坂城外曲輪櫓修理、山岡景以と作事奉行に加えられている。大阪夏の陣の後、松平忠明に与えられていた大阪城は、元和5年(1619)に幕府直轄領への編入が決まり、第2代将軍秀忠のもとで再建が開始されている。この工事は3期にわたり、寛永6年(1629)に完成を見ている。
 また元和5年(1619)備中松山から郷里の近江浅井郡小室への領地替えが行なわれている。そして元和8年(1622)近江国奉行を経て同9年(1623)生涯務めることとなる伏見奉行職に任じられる。

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二条城 二の丸庭園 2008年5月12日撮影
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二条城 二の丸庭園 2008年5月12日撮影

 寛永元年(1624)二条城および同城行幸御殿の作事奉行に任じられている。およつ御寮人事件が決着し、徳川和子は元和6年(1620)6月18日に入内している。この入内を確認した後の7月27日、第2代将軍秀忠は将軍職を家光に譲り、大御所となっている。そして寛永元年(1624)和子は冊立され中宮となると、今度は後水尾天皇の行幸を迎えるために二条城の大改築に取り掛かる。小堀政一には、行幸御殿の設計とその周囲の庭園の作庭が任されている。「別冊太陽 小堀遠州 「綺麗さび」のこころ」(平凡社 2009年刊)には、中井家に遺されている寛永修築時二条城指図が掲載されている。この指図と現在の二条城のGoogleMapを見比べれば、政一の目指したものがある程度伝わってくる。二の丸御殿は慶長7年(1602)から慶長8年(1603)3月の家康の入城までの間に竣工したと考えられている。この時は造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事の大工棟梁に中井正清が任じられている。同8年(1603)2月12日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受けている。そして3月12日に二条城に入城。そして同月25日室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発している。さらに続き、同月27日二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行っている。この時の二条城の姿は洛中洛外図屏風等で表現されている。

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大徳寺 孤篷庵 境内

 小掘政一は慶長創建の二条城を大幅に改造したと考えられている。二の丸御殿には新築時には生じない埋木や当木そして釘穴が残されていることから、既存施設への一部増築だけではなく、既存建物の一部を使用した新築に近かい工事であったという見方もある。文化庁が提供する国指定文化財等データベースに掲載されている二の丸御殿遠侍及び車寄等には、創建年代を慶長7年(1602)~同8年(1603)および寛永2年(1625)~同3年(1626)としている。また二の丸庭園の南には行幸御殿が新築され、この御殿と二の丸御殿を結ぶ回廊(御次之間)でつないでいる。GoogleMapで見ると二の丸庭園の池泉の南側に意味を持たない空白の空間が広がっている。かつてこの部分に行幸御殿、中宮御殿そして御次之間が造営され、池泉の南端には、御亭と呼ばれる浮殿が築かれ、行幸御殿から回廊伝いで渡れるようになっていた。庭園の西側にも女官たちのための長局が建設され、その北側で黒書院へ渡り廊下でつながれていた。すなわち寛永当時の二の丸庭園は、二の丸御殿と新設した行幸御殿を始めとした建築群に囲まれた規模の大きな中庭であり、どこからも見られることを想定した庭へと、慶長期創建の庭を改めている。二の丸庭園とそれを取り囲む行幸施設群は、その規模からして幕府将軍家の権威を表現するのには十分な効果を持っていた。また蓬莱島の奥には五重五層の天守閣が聳え、豪華さだけでなく武力的な威圧感を与える庭ともなっていた。しかし政一は、この空間に質素で武骨な武士的な力強さを求めるのではなく、欄間の彫刻や飾り金具、釘隠や襖の引き手まで華やかな装飾を施すことを忘れていなかった。すなわち桃山風の繊細で華麗、雅な王朝的な美意識を以ってこの対面の場を用意したことは間違いない。
 後水尾天皇を迎えた行幸は、寛永3年(1626)9月6日から5日間に渡って行なわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催されている。
 そして行幸のために新たに建てられた行幸御殿を始めとする諸施設は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物は解体撤去されている。現在の二の丸庭園の拝観順路に従うと、庭園の東側しか観賞できなくなる。小掘政一が意図した景観とは異なったものとなっている。

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大徳寺 孤篷庵 延段

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