京都御苑 閑院宮邸
京都御苑 閑院宮邸(きょうとぎょえん かんいんのみやてい) 2008/05/13訪問
新島襄旧邸の前の寺町通をそのまま南に下るとすぐに丸太町通に出る。右に曲がり、京都御苑沿いに歩くと富小路口の門が現れる。ここから御苑内に入り、御苑の南西角にある閑院宮邸まで歩く。苑内は砂利敷きとなっているのでなかなか歩きにくい。その上、目標が見えていてもなかなか近づいて行く感触が沸かない。私たちの暮らしている町並みとはスケールが違い、感覚が合わないためだろう。九条池を過ぎ、やっと閑院宮邸の門が見えた。
国際日本文化研究センターに所蔵されている文久3年(1863)に作成された内裏図によると内裏の南西角に閑院宮 家領千石とある。東隣はさらに広い九条殿に面している。
江戸時代初期の頃、皇位を継承する予定の親王以外は、出家する事が慣例となっていた。承応3年(1654)後光明天皇が22歳の若さで崩御した際、天皇の近親の男子は殆ど出家しており、その後継が問題となった。平安時代以降、一度出家した皇族が還俗して践祚した例がない上、生後間もない第19皇子の高貴宮(後の霊元天皇)を践祚させることもできなかった。この時は、高貴宮が成長するまでの間の中継ぎとして有栖川宮を継承していた良仁親王が践祚して後西天皇となった。皇統の断絶を危惧した新井白石が、徳川将軍家にとっての御三家と同様に、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言を将軍徳川家宣に行った。一方で東山天皇も実子である直仁親王に新宮家を創設させるための財政的な支援を家宣に求めた。宝永7年(1710)直仁親王を初代とする新宮家創設が決定され、8年後の享保3年(1718)に霊元法皇より閑院宮の宮号と1000石の所領を下賜された。これは寛永2年(1625)に有栖川宮が創設されて以来の新宮家の誕生となった。
世襲親王家から天皇に即位した例は、閑院宮が創設されるきっかけとなった第111代後西天皇(有栖川宮家)と第102代後花園天皇(伏見宮家)、そして第119代光格天皇となった閑院宮兼仁親王の3回であった。光格天皇については廬山寺で既に触れたように尊号一件が起きている。これも世襲親王家から天皇に即位したことによって生じた事件とも言える。 世襲親王家という仕組みも、明治維新後には旧皇室典範によって、皇族の子女に親王、内親王の資格を与える親王宣下とともに廃止された。一旦世襲親王家として定められると、すでに世代を経て皇統との血縁関係が離れていても践祚される可能性があるためである。
宝永7年(1710)閑院宮家の創設が決定され、この地に屋敷が造られたが、天明の大火(1788)で焼失している。またそれ以外にも大火にあった記録が残されているようで、明治時代まで残っていた建物は当初の建物とは異なる。
梨木神社の項でも説明したように、明治初期 人の住まなくなった公家屋敷は荒廃したため、それらの屋敷の多くは取り壊され京都御苑の苑地となっていった。これに対して閑院宮邸は、宮家が東京に移った明治10年(1877)頃より一時的に華族会館、裁判所に使用され、明治16年(1883)に旧宮内省京都支庁が置かれた。この時に新築されたという記録も残っているが、建設決定から竣工まで三ヶ月足らずの短工期であったため、当時存在していた閑院宮邸の材料が利用されたと考えられている。そして厚生省管理事務所などを経て近年まで環境庁京都御苑管理事務所として利用されてきた。
現在拝観している閑院宮邸は、平成15年(2003)より3ヵ年の年月をかけて全面的な改修と周辺整備が成され、平成18年(2006)3月に竣工したものである。ほぼ完全な形で残る江戸時代の公家屋敷として貴重な遺構である。
建物規模が大きいのは1000石の所領を持つ宮家として当然のことと思うが、部屋数が多いのではなく、それぞれの部屋や廊下が住宅して考えると大きなものに感じられた。特に中庭とそれに面した回廊は広々とした開放的な空間となている。庭園も中庭も芝生であるため、天気の良い日には眩しいほどの明るさである。ただし現在、展示と講義のための施設となっているため、、当時の宮家でどのような生活が行われていたかは、想像することは難しい。
京都御苑管理事務所が平成20年(2008)にまとめた「京都御苑庭園基幹施設再整備基本計画」の中で、閑院宮邸の位置づけを下記のように記している。
「情報収集発信拠点のサブ施設であり、公家町の文化を感じながらゆっくりと学ぶ事ができる情報展示施設として位置付ける。今後、メインの情報発信・収集拠点となる中立売休憩所の整備状況をみながら、当施設の特徴を生かした施設演出や情報展示等のありようについても検討する。
レクチャールームでの有識者による講演会やセミナーなどの開催を充実させ、各種パンフレットや案内図などを設置する。閑院宮邸跡への動線は、より利用者にわかりやすいものとなるようサインや施設全体の演出について改善を行う。」
公家屋敷の遺構としての保存よりは、広く情報発信の場としての比重を高めている。やはり明治以降の転用によって公家屋敷を復元することが困難になったと考えるべきなのだろうか?
また玄関から入り収納展示室の縁側から見る庭の池は小さく、なぜこのように離れた位置に池を造ったのかと思っていたが、どうも発掘調査した結果を全て復元したものでないことが平成18年(2006)に発行された日本庭園学会ニュースNo.52に掲載されている。2度の大火の後に建物とともに庭園も造り替えが行われた形跡が残っていること、大内保存事業や大正大礼などの影響により池の規模、水位そして地盤の高さも変えられていることが分かる。創建当初の姿に戻すためには、それ以降に行われた変更の遺構を取り去ることが必要となる。そのため遺構面を埋め戻し保存した上で、当時の技法を考慮した復元で留めた。なお地上部は復元の根拠となるものが乏しいため、誤解を招かないようにとの配慮から、一面芝生を施したとしている。
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