泉涌寺 悲田院
泉涌寺 悲田院(ひでんいん) 2008年12月22日訪問
守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓と賀陽宮墓地、久邇宮墓地を過ぎると泉涌寺の大門が現れる。既に何度か書いてきたように泉涌寺の境内は、この大門から東側へ下る形で広がっていく。悲田院へは、この大門の前を通り過ぎ総門へ向かう参道の途中、京都市立月輪中学校の手前を西側に入って行った先にある。
悲田院は本日拝観する泉涌寺の塔頭の最後になる。
1月の成人式の日に行われている泉山七福神巡りでは、即成院の福禄寿、戒光寺の弁財天、今熊野観音寺の恵比寿神、来迎院の布袋尊、雲龍院の大黒天、悲田院の毘沙門天、法音院の寿老人の順にお参りするようだ。 なお、七福神の外に番外として新善光寺の愛染明王と観音堂の楊貴妃観音を含めるというから、この巡り方は泉涌寺道から入り、総門を潜り左側に並ぶ塔頭を順番に廻り、雲龍院から大門の前を通り、悲田院に寄り、再び参道を下る途中で最後の法音院を参拝する左側通行の拝観になっている。確かに当日の混雑を考えると、自動車の運行と同じく混乱なくさばける方法なのかもしれない。
悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。日本においては、聖徳太子が大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承がある。ちなみに四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの施設で構成されている。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局や病院に近い。
聖徳太子以降、記録に残る悲田院としては養老7年(723)皇太子妃時代の光明皇后が設置したものが最古のものとされている。光明皇后は聖武天皇の皇后で、仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
奈良時代には鑑真により興福寺にも設立され、平安時代には平安京の東西の九条三坊の二カ所に造営され、左京は東悲田院、右京は西悲田院と呼ばれていた。悲田院は、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下に置かれた。しかし11世紀になり右京の荒廃が進み、西悲田院も廃絶している。東悲田院も幾度か焼失し、そのたびに再建されてきたが衰退していく。
泉涌寺の公式HPには、鎌倉時代に入った正応6年(1293)無人如導は、一条安居院に悲田院を移転させ、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の寺として再興したとしている。安居院は比叡山東塔竹林院の里坊で、大宮通上立売北にあったとされている大寺院であった。平安時代の末期以来、安居院には名僧が住み、中でも藤原信の子である澄憲僧正、信西の孫に当たる聖覚法印らが唱導の技術に優れ、以後、代々受け継いで安居院流の唱導を作り出している。また大宮通に面する商店街を安居院商店街と呼んでいたようだ。しかし安居院が一条通あたりまで拡がっていたとは思えないため、一条安居院がどこを示す地名かは分からない。 法音院でも触れたように、無人如導は嘉暦元年(1326)法音院を泉涌寺山内に創建している。無人如導は弘安8年(1285)あるいは翌年の9年に誕生したとされ、北野社に千日参りをされて霊告を得たことから出家している。応長元年(1311)北野社の神宮寺として東向観音寺を中興するなど、9寺を建立したとされている。この鎌倉時代に再興された悲田院は、現在の本法寺の北の扇町、上天神町、天神北町、瑞光院前町辺りにあったと京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに記されている。確かに天神北町の西に隣接する新ン町にある西法寺に併設された「あぐい幼稚園」に安居院の記憶が残されている。
室町時代、第102代・後花園天皇は悲田院を勅願寺とする。以後、住持には天皇の綸旨が贈られ、紫衣参内が許され、天皇崩御の際には、葬儀や荼毘が行われたという。正保3年(1646)高槻城主の永井直清が現在地に移建し、を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)塔頭寿命院と合併再興されている。
東山の今熊野山や泉山の斜面に拡がる泉涌寺が、東福寺から伏見街道へと下って行く中で最も西側の高台に、悲田院は出城のように建てられている。この日は天気が良くなかったが、本堂から墓地へと続く道からの眺望、特に西から北にかけての眺望は素晴らしい。
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