大徳寺 その2
臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺(だいとくじ)その2 2009年11月29日訪問
弘源寺の山門を潜り、三秀院と小さな南芳院の前を通り、天龍寺の総門を出ると目の前に東に向かう造路が見える。大堰川に向かって少し南に歩くと。京福電気鉄道の嵐山駅が現れる。ここから北野白梅町まで北野線に乗車し、市バスに乗り換えて大徳寺に向かう。始発の嵐山駅から数えると北野白梅町は13番目の停車駅となる。5番目の駅となる帷子ノ辻で乗り換えておよそ20分の小旅行となる。なかなか東京では味わうことができない趣のある車外風景もあり、毎回乗車するたびに、ほとんど窓の外を眺めている。
大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山で山号は龍宝山。開山は正中2年(1325)大燈国師すなわち宗峰妙超である。宗峰妙超は弘安5年(1282)播州揖西県の豪族浦上一族浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれている。
無著道忠の「大徳寺編年略記」によれば、妙超の父の覚性には3人の子がおり、長女が赤松茂則に嫁ぎ、赤松氏第4代当主の赤松則村を生んだとしている。則村は播磨守護職に任ぜられる守護大名であり、足利尊氏に属する。建武3年(1336)建武親政から離反した尊氏を討伐する新田義貞軍6万を播磨赤松の白旗城で50日に渡り釘付けにしたことにより、尊氏の東上を助けることとなった。そして同年5月25日の湊川の戦いへとつながっていく。
また妙超のもう一人の兄弟は浦上家を継ぎ、赤松則村の家老を務めている。則村は妙超の甥に当たると同時に、出身の浦上家は赤松氏の家臣というつながりがある。これが後に大徳寺を開山する際に関係してくる。幼くして神童と称されるようになった妙超は、正応5年(1292)11歳の時に、書写山円教寺に登り、天台宗の戒信律師を師として経書を習っている。一度目を通したものは全て記憶したしまったとされている妙超は、日夜熱心に勉学し、書写山に登って6年目の17歳のときに、頭も剃らず俗服のまま京都に出て南禅寺や建仁寺を参問して歩いたが、6年間に渡り書写山で蓄えた仏教と儒教の知識の蓄積から発せられる疑問に答えてくれる者は京にも居なかったとされている。そして鎌倉の万寿寺で高峰顕日に出会い、激しい問答を繰り広げた後に、高峰の下において剃髪し得度を受けている。高峰は後嵯峨天皇の第二皇子で、円爾に従って出家し、兀庵普寧や無学祖元に師事する一方、万寿寺、浄妙寺、浄智寺そして建長寺の住持を歴任し、夢窓疎石などの俊才を輩出している。妙超はひたすら僧堂で座禅を行い、ついに知識の壁を突き破ることができた。
嘉元2年(1304)南浦紹明は、後宇多上皇の招きにより、30年以上住持を務めた博多の崇福寺を去り、京に来ていた。紹明の名声を聞いた妙超は、安井の韜光庵に紹明を訪ねている。そして徳治2年(1307)紹明が鎌倉に戻り建長寺の住持となると、宗峰も鎌倉入りし同年、師から印可を得ている。紹明は、その翌年の延慶元年(1308)に寂している。そして延慶2年(1309)後宇多上皇から円通大応の国師号が贈られるが、これが日本における禅僧に対する国師号の最初である。そして南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応燈関」と呼ぶようになる。この時、妙超は未だ26歳であったとされている。なお後宇多上皇は国師号を贈ると共に、安井の離宮を寄進し、大応国師を開山とした龍翔寺を建立している。至徳3年(1386)足利義満が定めた五山十刹で京十刹中の第十とされ、寺の広さも三町歩に及ぶ大寺院であったが、応仁の乱の後、荒廃したため天文8年(1539)大徳寺の西隣に移建されている。
妙超は延慶2年(1309)師の心喪を終えた後、京の東山の雲居庵に隠棲している。この雲居庵は現存していないが、高台寺のあたりの地にあったとされている。これから正和2年(1313)までの5年間の妙超の事跡は明らかでない。そのため五条橋下に暮らす乞食の仲間に混じり、鴨川上流から流れてくる野菜を拾って食したともいわれている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」には
衲子わずかに六七輩、刻苦自らはげみ寒気を忘るるに至る
とあるようだが、弟子の若い雲水と共に貧寒に堪えて人知れぬ修行を行なっていたのであろう。
この後、妙超は雲居庵を去り、洛北の紫野に小庵を結び移り住んでいる。この時期については諸説あるようだが、先の「大燈国師年譜」によると34歳の正和4年(1315)のことであったとしている。この時、赤松則村によって黄金若干が寄進され、小院は大徳と名付けられている。これが現在の大寺院となった大徳寺の創建の歴史とされている。洛北紫野には淳和天皇の離宮紫野院が造成され、このあたり一帯は狩猟地であり、桜の名所でもあった。その後、仁明天皇の離宮となり、皇子常康親王に譲られている。貞観11年(869)親王が亡くなると、僧正遍昭に託し、ここを官寺・雲林院を建立している。しかし鎌倉時代に入り衰退したものを正中元年(1324)に復興され、大徳寺の子院となっている。現在、北区紫野雲林院町にある雲林院は、宝永4年(1707)にかつての寺名を踏襲し、大徳寺の塔頭として建てられたものである。嘉暦元年(1326)45歳に至る約10年間は、外護者や在家の学人をほとんど受け付けず、専ら自らの修行に専念していたと考えられている。
この厳しい禅風は花園上皇の耳に達し、元応2年(1320)頃には入内していたと考えられている。そして参禅20年に及び、ついに建武3年(1336)妙超の印加を得られている。
禅宗の支持層も増え勢力を増すにつれ旧仏教側は危機感を感じ、延暦寺、園城寺、東寺などの学僧は教外別伝を説く禅宗を論破しようとし、朝廷に宗論を願い出ていた。正中2年(1325)清涼殿において宗教討論が行われ、後に正中の宗論とよばれる。比叡山の法印である玄慧などの9人と通翁鏡円(大光国師)と宗峰妙超の間で問答が繰り広げられた。なお通翁鏡円は妙超と同じく高峰顕日そして南浦紹明に師事し、南禅寺の住持を務めていた。しかし正中2年閏1月27日急逝している。
禅は不立文字と中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視する。仏教教理を学ぶことを本旨としていた旧仏教から見ると、この教外別伝という行為自体を最も問題視していたと考えられる。
玄慧曰く「いかなるかこれ教外別伝の禅」
師曰く「八角の磨盤空裏に走る」。
又園城寺の僧、箱を携えて出づ。
師曰く「これなんぞ」僧云く「これは是乾坤の箱」と。
師竹箆を以て撃破して曰く「乾坤打破の時如何」と。
僧茫然として測ることなし。
この問答において顕密の学僧を論破して名声を高めている。
この正中の宗論が行われた時期は、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分される正中の変が起きるなど政情不安定な時期に入っていた。問答に敗れた玄慧は妙超に崇信するとことなり、自らの居宅を妙超に寄進し、大徳寺の方丈としている。後醍醐天皇も妙超に帰依し、雲林院の北20丈(60メートル)の地を下賜している。これが現在の大徳寺の基となっている。
さらにこの正中2年(1325)2月に花園上皇が大徳寺を持明院統の御祈願所とすると、7月には後醍醐天皇より朝廷の勅願道場とする綸旨を賜っている。ここに大徳寺は南北両朝の祈願道場となっている。この年には弟子の宗印禅者というものが堺の募財を寄せて法堂の建立を行なっている。嘉暦元年(1326)法堂が竣工すると妙超は龍宝山大徳寺と命名し、12月に開堂している。これが正和4年(1315)に小庵を結んでから続けてきた大徳寺の創建が完了した時期とされている。そして建長寺で修行していた慧玄が妙超に参禅したのが、嘉暦2年(1327)のことであった。妙超は5歳年長である慧玄に大器となる素養を見出し、自らが師の南浦紹明から与えられて大悟した雲門の関の古則を与え、2年間の厳しい修行を与えた結果、慧玄もまた関の公案に大悟する。そして嘉暦4年(1329)慧玄に関山の道号を授け、翌元徳2年(1330)印加の法語を大書している。このようにして、南浦紹明(大応国師)から受け継いだ法を関山慧玄へ嗣ぐことで、「応燈関」の法系の基となしている。そして花園上皇より自ら亡き後の師として関山慧玄を推挙し、妙心寺の開山としている。
元弘元年(1331)妙超50歳の時、筑前の少弐貞経、頼尚父子から崇福寺の住持として迎えられている。鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱である元弘の乱が生じた年であり、後醍醐天皇は宗峰妙超が、この難事の最中に京を離れることを許さなかった。妙超は恩師・南浦紹明の旧跡であることを説き百日間の許可を得、崇福寺の入寺開堂を執り行い、6月の末には京に戻っている。この年の8月、またも倒幕計画が発覚した後醍醐天皇は、御所を脱出し笠置山に立て籠もる。この時、当の右派勅使を妙超に遣わし、難事に対する心構えを問うている。幕府に捕らえられた後醍醐天皇(元弘元年9月20日に光厳天皇が即位している)は隠岐島に流されている。
元弘3年(1333)1月には甥の赤松則村が楠木正成に呼応して、播磨で挙兵する。2月に入ると、後醍醐天皇も隠岐島を脱出し、則村軍は六波羅を、新田貞義軍は鎌倉を攻撃している。そして6月に天皇は京に還幸している。8月に後醍醐天皇は大徳寺に本朝無双之禅苑の宸翰(後醍醐天皇宸翰 御置文 国宝 大徳寺蔵)を下されている。
大徳禅寺ハ宜ク本朝無雙之禅苑ト為リ
千衆ヲ安棲シ万年ヲ祝セスムベシ。
門弟相承シテ他門の住スルヲ許サズ。
是レ偏狭ノ情ニアラズ。
法流ヲ重ンズルガ為ナリ。
殊ニ宸翰ヲ染テ言ヲ龍華ニ貽(ノコス)スノミ。
元弘三年八月廿四日
宗峰国師禅室
翌建武元年(1334)大徳寺を幕府の制定した五山の官寺を超越した別格の「本朝無双の禅苑」という綸旨により、五山の上であった南禅寺と同位に置かれている。全国社寺の荘園没収が行われる中、大徳寺のみは次々寺領安堵となった。播州浦上の小宅、信州伴野庄、下総遠山庄、紀州高家庄等の地録を賜わり、皇室の勅願寺としての経済的な基礎を築くこととなった。さらに寺域も雲林院の旧地から更に東に敷地は東西66丈(200メートル)南北90丈(273メートル)後を追加寄進されている。そしてこの建武元年(1334)に境内地を東は船岡山東端、南は安居院大路、西は竹林、北は内山後社を限ると定められている。更に10月には追加分の東敷地東西1町30丈(200メートル)南北2町28丈(303メートル)の領有が確認されている。正和4年(1315)に妙超が小庵を結んで頃から考えると僅か20年で本朝無双の禅苑に相応しい寺域と経済的基盤を後醍醐天皇から下賜されたことが分かる。
この大徳寺が興隆して行った頃より、妙超は自らの命が尽きることを予知していたのかもしれない。建武元年(1334)11月に遺誡を弟子たちに残している。豪壮な伽藍の建ち並ぶ天下の大寺となりなった現在でも、五条橋下の貧困に甘んじた修行の生活を忘れていなかった。建武4年(1337)妙超56歳。3月18日夜半に徹翁を自室に呼んで伝法の法衣を授け、大徳寺の住持の職を引き継いでいる。そしてまもなくして病を患い、8月26日に花園上皇より大徳寺に「一流相承 他門勿住」の宸翰(花園上皇宸翰 御置文 大徳寺蔵)が下されている。既にこの前年の建武3年(1336)5月に、九州から東上した足利尊氏軍は湊川の戦で新田・楠・軍を撃破し入京している。それに伴い後醍醐天皇は吉野に潜幸し南北朝時代が既に始まっている。京都は北朝の天子を奉じる足利尊氏によって幕府が開かれていた。講堂の完成もしていない大徳寺が幕府からの干渉に耐ええたのは花園上皇の擁護があったからであり、この宸翰が下されたお陰でもある。宗峰妙超はこの年の12月21日に寂している。
その後、大徳寺の一流相承は足利幕府の宗教政策として行なわれた僧録司と五山十刹の十方住持制度とは相容れないものとなり、幕府の支配下より離れた独自の参禅修行を維持する林下と呼ばれる孤立した禅林を固持することとなった。このことがその後の大徳寺の興隆と衰微の歴史に大きな影響を与えたことは明らかである。
この記事へのコメントはありません。