京都御苑 堺町御門 その2
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 堺町御門では、姉小路卿殺害から文久3年6月末までの薩摩藩の情勢と中川宮の窮状について見てきた。この後に発生する八月十八日の政変まで推移をこの項で書いて行く。 姉小路暗殺に続く急進派の攻勢は単に暗殺犯の究明に留まらず、即今破約・攘夷実施に繋がって行った。この暗殺事件より10日前の文久3年(1863)5月10日は攘夷実行期日であり、長州藩が馬関海峡を封鎖し、通過する艦船に砲撃を実施している。また、同7月2日から4日にかけては生麦事件についての薩英間の交渉が決裂し鹿児島湾での薩英戦争が発生している。薩摩藩にとって薩英戦争は攘夷行動ではなかったものの列強との戦闘行動を回避することができなかったことは事実である。姉小路を失った急進派は三条実美を中核とし、京に屯する浮浪志士達と長州藩を後ろ盾にしていた。この時期の孝明天皇は近衛前関白と中川宮に信を置き、薩摩藩の島津久光の上京を望んでいた。しかし上記のように薩英戦争が間近に迫っていた為、久光も鹿児島を離れて上京することができなかった。主上と中川宮等が、急進派と長州藩の動きを牽制するのに頼った第一の勢力は会津藩ではなく、薩摩藩であった事は以下の5月29日付の島津家への宸翰を見れば明白である。
(前略)三郎急速上京ニテ、尾張前亜相ト申合せ、一奮発ニテ、中妨無之手段厚周旋、為皇国尽力有之、先内ヲ専ニ相整候邊不浅依頼候 昨年上京之砌言上之筋、一廉モ不相立ハ、全姦人之策ニ候ヘハ、何分此処ニテ姦人掃除無之テハ迚モ不治ト存候ヘハ、早々上京ニテ始終朕ト申合、真実合体ニテ無相違周旋有之度候 何分此儘ニテハ天下□□ニテ昼夜苦心候間其辺深熟考有之度候事
上京於周旋ハ依頼致シ度儀モ候ヘハ速ニ承知周旋兼テ頼置候事
なお、上記は「孝明天皇紀 第四」(平安神宮 1968年刊)の文久3年(1863)5月30日の条に掲載されている。
中川宮と近衛前関白による島津久光上京の内勅は功を奏さなかったのに対して、長州藩は御親征を要請してきた。この運動の中心には元久留米藩の真木和泉がいた。浮浪有志の中で長老格の真木は、文久2年(1862)4月23日の寺田屋事件に連座している。事件後、田中河内介親子のように殺害されることはなかったものの、薩摩藩によって久留米藩に送り帰されている。真木を久留米の獄中から救い出したのは長州藩であり、この時期の真木は長州藩のために論陣を張っている。この真木救出活動については、「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)で触れているので御参照下さい。 文久2年(1862)の内に、長井雅楽主導の公武周旋から尊皇攘夷に方針転換した長州藩にとって、真木和泉の思想と彼の活動歴は受容れやすいものであったのであろう。そして、これから凡そ1年半後に起こる甲子戦争まで長州藩を窮地に導いていったのも真木本人であったと云っても過言ではない。
長州藩主・毛利慶親は世子・定廣と連名で文久3年(1863)6月18日付、家老の益田弾正、根来上総宛に上京して御親征の儀を奉る訓令を発している。「孝明天皇紀 第四」の6月の条に、「是月筑後国水天宮社司真木保臣を学習院に徴て国事を諮問す」と記されている。また、「維新史料綱要 巻四」(東京大学史料編纂所 1937年発行 1983年覆刻)の文久3年(1863)6月27日の条に「久留米藩士真木和泉ニ学習院出仕ヲ命ズ」とあるので、真木の朝廷工作が6月の後半から本格化したことが分かる。朝権回復を望む真木にとって幕府は倒すべき敵と捉えていたと思われる。さらには攘夷実行のための御親征ではなく、幕府に代わって親政を行うことで攘夷は自ずと実行されると考えていた。当時の京都における三勢力、すなわち会津、薩摩そして長州の間の均衡がどのように推移して行くかが問題であった。真木にとっても幕府の出先機関である会津と長州が組むことあり得ないので、薩摩と連合して会津を京から駆逐することを期待していたようだ。しかし京都の情勢は残念ながら真木の期待と反対方向に進展していった。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)には真木の上書「五事献策」の全文が掲載されている。6月8日に入京した真木は同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、この「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。非常に長文なのでここでは全文を引用せず、五箇条のみを記す。
一 攬二攘夷之権一事
一 標二親征部署一事。下レ令算二在京之兵一事。
一 新二天下耳目一
一 収二土地人民之権事。
一 移二蹕浪華一事
徳富蘇峰は「近世日本国民史 攘夷実行篇」(時事通信社出版局 1965年刊)で以下のように述べている。
以上彼の献白書は、中には不急の卓上説も少からず。不急ならざる迄も、其の見解甚だ固陋の謗を免かれ難きものも少からず。されど大体から観察すれば、彼の献白書は、倒幕攘夷にして、倒幕第一、攘夷第二である。即ち天下に向つては攘夷を声言し、天下の勢を糾合して、之を以て江戸幕府を顚覆し、朝権を恢復せんとするにあるものにして、従来倒幕論は、必らずしも當時に於ては、珍らしからざれども、然も其の眼前に此れが実行を企画したるに至りては、時運の推移が、之を然らしめたりとは云へ、亦た真木和泉其人の見識と云はねばならぬ。要するに彼は攘夷に傾いたる人心を、統幕に回転せしめたる唯一人者でなきまでも、其中の重なる一人であった。
真木の発案した御親征は、長州藩の手を経て実行に移される所まで来た。勿論、その裏側には朝権の拡張から倒幕への運動が連動していたのだが、この仕組みに気が付いた者は居たのだろうか?8月9日には中川宮が西国鎮撫使に任命される。京都御苑 堺町御門の最後に触れたように、宮は鎮撫使を即日の内に辞している。公武一和を推進する宮にとって、幕府に反して小倉藩を征討することなどできる訳がない。しかし急進派にとっては、大和行幸に向けて中川宮と会津藩を京の外へ追い出す必要があった。宮に対しては西国鎮撫使を、松平容保に対しては6月25日に将軍東帰後の情勢視察及び攘夷督促という名目で勅書を以って東下を命じている。これは主上の真意ではなく、主上は近衛忠煕をして松平容保へ内旨を伝えている。そのため容保は同月27日に東下を辞している。また中川宮家家臣・山田勘解由と伊丹蔵人の捕縛命令が下ったのも6月23日であるから、急進派は宮と会津藩を同時に排除しようとしていた。なお北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))や山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には、松平容保と近衛忠煕が賜った宸翰の写として掲載されているが。「孝明天皇紀」によれば、「其出所も詳ならず且御文体に於ても疑はしき所あり因て左に録して後勘に備ふ」あるいは「他に徴すべき記録なし因て姑く原文を録して其証の出るを俟つ」とあったことを追加しておく。
そして8月13日に大和行幸が発表される。「孝明天皇紀 第四」には下記のように記されている。
車駕将に神武天皇山陵及春日社に幸して攘夷を祷り親征の事宣を議せんとす 是日之を内外に公布し尋て太宰帥熾仁親王有栖川を以て西国鎮撫使と為す
先の「京都守護職始末」には京中の流説として、大和行幸の後に火を放ち京中を焼き払い還幸の叡慮を断ち、ただちに錦旗を箱根山に進め、幕府討伐の兵を挙げるということが記されている。松平容保が真偽を調べさせると錦旗製作の命を受けた、あるいは刀鑓を作ったという報告が上がってきた。いかにも当時の不穏な世情が良く伝わる。会津藩公用人・広沢安任による「鞅掌録」(「日本史籍協会叢書 会津藩庁記録3」(東京大学出版会 1919年発行 1982年覆刻))にも同様の記述がある。
「七年史」や「京都守護職始末」などの会津藩側の記述に従うならば、薩摩藩の高崎正風が会津藩公用人の秋月悌次郎、広沢富次郎、大野英馬、柴秀治等を三本木に訪問したのは、まさに大和行幸が公布された8月13日のことであった。急進派の堂上人、長州藩そして真木和泉が計画した大和行幸が天下に号令するものであること伝え、中川宮と薩摩藩と連携することを提案している。秋月は薩摩側の申し分を容保に報告し、その日の内に高崎とともに中川宮に参じている。宮は14日暁更の主上の神事が終わるのに合わせて、西国鎮撫使辞退を口実に参内し、内勅を奉じることを両人に告げている。高崎と秋月は宮家を退いた後、薩摩の井上彌八郎、奈良原幸五郎繁、上田郡六そして会津の広沢富次郎、大野英馬、柴秀治等を交えてさらに事を議している。
「鞅掌録」の6月14日には、会津藩が国元と京の間の兵の交代を停止したことが記されている。8月8日に国元からの4隊が京に到着し、11日に京から4隊が帰る予定であった。既に11日に京を発った井深茂右衛門の4隊に急飛脚を送り呼び戻している。さらに到着したばかりの神保内蔵助の4隊と合わせて計8隊構成となった。会津藩の兵制については「京都守護職始末」に記されている。一陣の将には家老が就き陣将と呼ばれている。一陣は四隊で構成され各隊の隊長は番頭と呼ばれる。毎月8月を交番の月とし、上記のように8月8日に国元から新たな守衛兵が上京し、11日には今までの京を守衛してきた兵が国元に帰って行くということである。もともと会津藩の兵制は長沼流に従っている。文久2年(1862)閏8月、松平容保は藩主直属部隊である御本隊の半数と一陣を率いて入京している。御本隊は約1000人とするとその半数の500人と一陣800人で計算の上では1300人になるが、実際には1000人強の兵力で上京したようだ。これに呼び戻した一陣800人を加えると凡そ1800人となる。八月十八日の政変の当日、「七年史」では下記のように記している。
長人進て、戦を挑み、薩会怒りて討伐せんとするの有様、宮中に達しければ、朝廷の動揺一方ならず、関白殿の曰く、長州兵三萬人あり、而して此の激怒を与ふるは、得策にあらずと、朝議を回さんとす、堂上人等畏怖して、会兵幾許ありやと問はれければ、肥後守対へて曰く、精兵千八百人あり
政変後の26日には、松平容保が宮中に召され伝奏より勅命を伝えられている。さらに恩賜金配当のため、各藩の出兵状況が調べられている。これによると総勢8461名で、内1888人の会津兵が最も多い。松平修理大夫150人とあるので薩摩藩の兵力は微々たるものであったことが分かる。薩摩単独での政変は不可能であったことが明白である。
この記事へのコメントはありません。