瑞泉寺
浄土宗西山禅林寺派 瑞泉寺(ずいせんじ) 2008/05/15訪問
三条通から木屋町通に入った所に瑞泉寺がある。木屋町三条の歓楽街の真ん中にある寺院であるが、境内は嘘の様に静寂である。
天正14年(1586)豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣い大仏建立を開始した。文禄4年(1595)には、ほぼ大仏殿方広寺が完成し高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置された。しかし翌慶長元年(1596)畿内を襲った大地震のため大仏は大破、そして秀吉も慶長3年(1598)に死去する。慶長14年(1609)大仏復興の意志を継いだ豊臣秀頼が大仏殿方広寺の再建を開始する。そして慶長17年(1612)には銅造の大仏が建立され、慶長19年(1614)4月には梵鐘も完成している。同年7月29日、家康は梵鐘銘文に不吉な語句があるとして大仏供養を延期させた。これが11月から始まる大阪冬の陣につながっていく。
高瀬川の項でも触れたように、この大仏殿方広寺への建築資材を運搬するため、慶長16年(1611)角倉了以によって高瀬川の開削工事が始められた。この工事中に偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。了以は塚を営み、石塔から悪逆の2文字を削りその上に六角形の無縁塔を建てた。そして秀次の菩提を弔うために立空桂叔を開基としこの地に堂宇を建立し、京極誓願寺の法主教山上人が豊臣秀次に贈った瑞泉寺殿高巌一峰道意の法名から名を取り瑞泉寺とした。また慈舟山という山号は、鴨川や高野川を上り下りしていた高瀬舟に因んで号したと寺伝にある。 了以の実弟であった吉田宗恂は角倉家のもとの家業である医家を継ぎ、秀次に仕えていた。宗恂は秀次事件への連座は免れたが慶長15年(1610)に亡くなっている。慶長16年(1611)瑞泉寺を建立したことは、了以にとっては宗恂の一周忌の法要を営むことでもあったかもしれない。
しかし文禄2年(1593)秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に疎まれる存在になっていった。文禄4年(1595)7月8日秀吉の命令で高野山に追放、出家した。同年7月15日に切腹を命じられる。享年28。同年8月2日、秀次の首が据えられた三条河原の塚の前で、4男1女の遺児及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。そして新たに秀頼が後継者へ指名され、秀吉の死後、家督を継いだ。
秀次には殺生関白という異名も残る。嗜好殺人などの非道行為を繰り返したとも言われている。また凡庸で無能な武将として評価されることも多い。実情は不明であり疑わしい点も多い。秀次の評価は、その死後に意図的に貶められたとも考えられる。いずれにしても秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一の成人した親族であったため、その死は関が原の戦い、大阪の役に少なからずの影響を与え、そして徳川幕府への政権の移行を早めたとも考えられる。
三条河原で処刑された者は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。そして塚が築かれ、「文禄四年七月十五日秀次悪逆塚」と刻された石塔が置かれたと言われている。この塚は畜生塚と呼ばれ顧みる者も無かった。順慶という行者がそのかたわらに草庵を結び菩提を弔ったと伝わる。
木屋町通に面した山門はそれ程大きくなく、左側に建てられた豊臣秀次公之墓という碑がなければ、ここに秀次が祀られているとは気がつかないほど目立たない寺院である。山門を潜ると本堂は右手奥に建てられている。天明8年(1788)に起きた天明の大火で焼失し、現在の建物は文化2年(1805)に再建されたものである。この本堂の正面に秀次の墓を中央にして、左に25基、右に24基の五輪塔が並ぶ。この墓域は昭和17年(1942)に財団法人豊公会の発起によって整備されている。案内板には祀られている人々の名前、年齢そして法名とともに処刑の順番までもが記されている。墓域の右側には、引導地蔵と呼ばれる地蔵菩薩立像を安置する地蔵堂が建つ。秀次の子、妻妾が処刑されるに際して、四条にあった大雲院の貞安上人が地蔵像を三条河原へ運び、一人一人に引導を授けたと伝わっている。
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